<デジタルシンセ戦国記 I ; YAMAHA DX9>
●メーカー名
YAMAHA
●機種名
DX9
Digital Programmable Algorithm Synthesizer
61 鍵、タッチセンス・アフタータッチ一切無し
'83 年発表、当時 18万8千円
でも24万8千円のDX7が眩しすぎて隠れてしまった迷機、まさに影虎?
史上初の民生機におけるデジタルシンセ、ヤマハ DX シリーズ。その最初の世代の末弟たる最廉価版が、DX9である。
●音源方式
FM 音源。
4オペレーター、8アルゴリズム。
DX1/7/9と3機種が同時デビューしたのだが、上位2機種は6オペ 32 アルゴリズムだったのに、この DX9だけは4オペ8アルゴリズムしかなかった。ただし、EG は DX7と同じ8パラメータ仕様。
やがて出現してきた他の4オペ機種は、全て EG が5パラメータ仕様でしかないため、DX9は他の4オペ機種との互換性は皆無。どこまでも天上天下唯我独尊な機種である。
あれほどまでに一斉風靡した FM 音源というものも、近ごろは目にする機会がそんなには無いので、あえてその音創りの仕組みを概説する。
サイン波オシレーターに音量 EG を付加したものを、オペレーターと呼ぶ。このオペレーターは DX1/7では6基、DX9では4基あった。それをさまざまに接続したパターンがプリセットされており、これをアルゴリズムと呼ぶ。アルゴリズムを自作することはできず、あくまでプリセットされたものから1つ選んで音創りする。DX1/7では、32 アルゴリズム、DX9では8アルゴリズムが存在。全オペレーターが直列に並んだものから、全て並列なものまで、各種さまざまなバリエーションがあり、これらアルゴリズムを選択し、各オペレーターの周波数や出力レベル、音量 EG を設定し、オペレーター同士で変調ないし加算合成することで、音創りするのが、ヤマハによる FM 音源であった。
この点で、FM 音源はセミモジュラーシンセであり、当時はその膨大なパラメーターの数と、予測不可能な音色変化に圧倒され、なかなか音創りのノウハウが広まらなかった。
FM 音源の中核をなす変調方式は、FM 変調とも呼ばれ、和訳すれば周波数変調であり、その点ではクロスモジュレーションに酷似したもの。だが、両者における波形演算の方程式は微妙に違う。FM 音源は、厳密に言うと PM 音源(Phase Modulation)であり、もっと正確に言うと線形位相変調(Liner Phase Modulation)と呼ばれるもの。ただしヤマハの FM 音源という名称が、あまりにもシンセ業界で普及し浸透したため、クロス変調は指数 FM(Exponential FM)、ヤマハで言う FM 音源は線形 FM(Linear FM)と呼ばれることもある。
仕組みだけ言えば、アナログシンセで実現できたクロス変調では、モジュレーターの波形において、振幅値がプラスかマイナスかによって、キャリア波形が時間軸上を進む速度が変わる。
しかし線形位相変調では、モジュレーター波形の傾きがプラス(上昇カーヴ)かマイナス(下降カーヴ)かによって、キャリア波形が時間軸上を進む速度が変わる。
音色の違いで言えば、クロス変調よりも線形位相変調のほうが、より音楽的に基音がはっきりキーフォローするので、楽器音色として使いやすい。クロス変調は、逆に独特の倍音の暴れ具合が、これはこれでまた面白い。
なお、ヤマハの FM 音源は、もとはスタンフォード大学のチャウニング博士が開発し特許をとったものを、ヤマハが特許と博士ごと買いこんで、商品化したものである。
この特許をもとに、ヤマハは他社の FM 音源を権利侵害の名の下に活発に裁判訴訟に持ち込み、それがために Crumar(クルーマー)や DKI(Digital Keyboards Inc)のようなメーカーは、シンセを売ることができなくなってしまった。イタリアの Crumar 社による GDS こと General Development System は、当時の汎用コンピューター PDP-11 を利用し、FM 音源やサイン波加算合成をデジタル演算で実現。ウエンディ・カルロスが映画「TRON」で使用した。それをよりコンパクトにまとめ、外部コンピューターなしで稼働するようにしたのが、合衆国 DKI 社の Synergy であった。これら2機種は、じつはベル研究所での開発結果がベースになっている。のちにウェンディは米国キーマガのインタビュー記事にて
「だって私がスイッチト・オン・バッハをレコーディングしたときに、すでに FM 変調を使って音創りしてたのに、ヤマハが特許とったのにはびっくりした。まぁでもこういうことは、起きるものなのよねぇ。」
などと言っている。
●同時発音数
16音。
4オペ機で 16 音もあるのは、DX9と V50 だけ。
●内蔵エフェクトの性能と傾向
無い。
でもがんばったら、内蔵コーラスや内蔵フランジャーは DX9だけで自作できる! どないしたらええかって、ほら道具は使いこなしやで。そらもちろん餅は餅屋、外部でエフェクトかけるほうが早ぅて制限もあらへんで効果的やねんけどね。ま、簡単です。考えてみよう。
●内蔵波形、プリセットの傾向
FM 音源なので、内蔵波形はサイン波のみ。
のちの TX81Z、V2 こと海外では DX11、そして V50 といった後期の4オペ機種では、このサイン波を記憶させている波形メモリーに、様々な波形バリエーションを持たせることで、音創りの幅をもたらした。
また、DX シリーズ全般では、オペレーター1基だけにフィードバックという自己変調機能があり、これを最大限にするとオペレーター波形が鋸歯状波になった。
中古で入手してしまった以上、プリセット音色は、もはや分からない。
が、どのみち本体メモリーが 20 音色しかない。外部保存するには、バルクダンプするかカセットテープにセーヴするか(!)しかない。しかも本体メモリーが 20 音色しかないのに、プリセット 120 音色分のデータがカセット・テープで同梱されていた! めんどうな上に、おそろしく時間がかかる付録である。
音色は、今を思えばほっそい細い音色ばかりで、なんともヘタレなリード音などがあるが、いちおう世界を圧倒した DX エレピなども、それなりにつくれて気分にひたれる。当時はこれでもリアルな音色だらけに思えたんだよなぁ。むしろ今なら、FM 音源は、非現実的な音色にこそ豊富なバリエーションができて良いと思うのだが。
●エディットの自由度と可能性
これまで慣れ親しんだ減算方式と全く違い、音創りの幅はたいへんに、というかもは革命的に広がったが、エディット時に予測ができない倍音変化をする上に、ほとんどモジュラーシンセなみのアーキテクチャーであるため、FM 音源による音創りは多難を極めた。
革命的に広がった音創りとは、DX ベルとまで言われた、それまでは不可能だった金属音や、アナログシンセではありえないリアルな音色、DX エレピのような一世風靡するにまでいたった独自の音色などを可能としたところ。
ヤマハの FM 音源の特徴として、ピッチ EG は、全オペレーターに共有されるものが1基あるのみなので、アナログシンセのクロス変調でできた変調スィープができない。これは、あえて音楽的な音創りをするために機能を限定したのかもしれない。
そして DX シリーズでは、それまでのシンセを特徴づけていたノブやスライダーといった物理操作子を極力排し、DX 特有の、悪名高きユーザー・インターフェイスを採用。DX9では、16 文字×2行の小さな液晶ディスプレイに、タッチボタンだけでパラメーターを選択、たった1つのデータ入力スライダーだけでエディットする。のちに Native Instruments 社が DX7互換の FM 音源ソフトシンセ FM7を出した時に、わざわざこの操作性をパソコン画面で再現したという、キツイ冗談な機能があった。ちなみに FM7は、FM8へと進化した時にまるで操作性が変わったので、このキツイ冗談も無くなった。
DX9は、DX7のように ROM/RAM カートリッジも使えず、MIDI でエクスクルーシヴを送受するにしても他のどの FM 音源機種とも互換できない。EG は DX7と同じ8パラメータ仕様だが、他の4オペ機種は全て5パラメータ仕様でしかないため、4オペ機種でも DX9とは互換性が無いのだ。細かいことだが fixed frequency も無い。
●拡張性
カセットテープ・インターフェイス装備! 時間もかかるし、ベリファイも必要とくりゃ、もう。
●あなたにとっての長所
なんやろねー? 珍品!
あとねー、せやねー、いっしょについてくる副読本でベッセル関数が勉強できる!
そうそう! 未だに初代の音色バックアップ・バッテリーが生きている! これはすごいことですよ! 三十年以上たちますからねー。
●あなたにとっての短所
重い。
タッチセンスによる過激な音色変化をウリとする FM 音源の分際で、DX9にはタッチセンスがない。
これは DX7もそうだったが、ユニゾンモードもなければ、レイヤーもスプリットもできず、ベンド幅もグローバルにしか設定できないので、音色別にベンド・レンジを記憶できず、でかくて無闇に重い上に、色が変な茶色でダサい。カタログの精悍な黒は、後期バージョンらしいが、実物を目にした記憶に無い。
でも最も仰天したのが、いやぁ、入手して始めて思い知った、知らんかったよなぁ、こんな事、驚くでほんまに、なんちゅーたかて、音色に名前をつけられない!!!! 液晶表示板で対話式オペレーションできるのに! だったら KORG DW-8000 の方がまだ納得できる。顧客をナメまくってる。
●その他特記事項
FM 音源である。
開発当初は、どの音源方式を採用するかは決まっておらず、ただタッチセンスにこだわった機種をつくろうということだったらしい。キーボーディストが演奏に専念できるよう表現力あふれる機種をつくろうという、さすが古参楽器メーカーに相応しい企画。その名も Touch Response-X、略して TR-X。そしてタッチセンスによる音色変化が大きくとれることから、表現力も期待できる音源方式として、ヤマハはスタンフォード大学チョウニング博士から FM 音源の特許を買う。
GS-1 / 2, CE-20 / 25 という先行機種を経て '83年の初め、FM 音源シンセは DX1/7/9の三兄弟として衝撃的にデビューした。その末弟として、20 万円を切る価格でデビューした DX9は、革命的ですらあった。16 音ポリ MIDI 対応デジタルシンセが 18 万8千円。悪いが当時のポリシンセは、みんなアナログシンセで音創りの幅が狭く、しかも軽く 20 万円は越えるのにせいぜい6音ポリしかなかった、そんな時代である。あまりにもデビューが早すぎて、当時の MIDI 規格は同じ '83 年初めに誕生したばかり、まだ規格 Ver.1.0 になっていない、ほやほやのふにゃふにゃ状態であった。だからメーカーごとに解釈の違いが発生したほどである。そんな混乱をモロともせず DX シリーズは果敢に飛び出し、ぶっちぎりの最先端ぶりで独走体勢に入った。
↑ ’84 年末発売、立東社が出版した「THE 楽器」から DX9の概要説明
驚くのは音や機能だけではない。取扱説明書の中にベッセル関数��書いてあったり、さらに別冊の付録までつけて、おびただしい数のサイン関数や角速度ω(オメガ)含む方程式など列記するあたり、およそシンセとは思えない頭でっかちぶり。なんとかして未知の音源方式をユーザーに理解いただこうと、そして前人未到の世界へユーザーをいざなわんと、もう躍起である。なんせ、
Digital Programmable Algorithm Synthesizer(取扱説明書)
Digital Polyphonic Synthesizer(別冊付録)
となって統一がとれていないあたり、こうした混乱もいとわず、大衆に未知の音源方式を伝導せんとする啓蒙主義の勢いたるや、すさまじいの一言に尽きる。
余談ながら前者であるが、和訳すれば「デジタルで・音色を作成可能で・方程式に満ちた・シンセ」ですか? この言い回しは当時たいへんに流行した。これ以来、シンセにはこのようなサブタイトルのようなものが、様式美のようにくっついて回るようになる。D-50 Linear Synthesizer 然り、M1 Music Workstation 然り。DX シリーズの影響は、こんなところにまであるのである。
ものすごい意気込みをかけ、革命を起こすべく、なぐりこんできた DX シリーズ。ここからは私の想像だが、その最安価モデルとして、恐らく DX9は、機能を削ってでも FM 音源を普及させる目的で、つまり戦略的に投入された商品なのだろう。
なんでって、タッチセンスにこだわって採用された FM 音源なのに、コストダウンのため当のタッチセンスまでそぎ落としてしまったあたり、それほどまでして FM 音源の浸透に賭けたメーカーの、並々ならぬ決意を感じる。だいたい、そのくせあそこまで売れるとは流石にメーカーも思って無かったらしく、初期 DX シリーズのつくりは量産には向いていないのだという。ただでさえ、前例もない全く新しい音源方式が、理解され売れることへ悲観的になるのは、無理もないことである。しかも DX は、言ってみればセミモジュラーシンセなのだから、よけいパラメーターも膨大。
だからこそ恐らく企画当初は、安価な DX9の存在が不可欠だったのであり、すなわち FM 音源への理解を世間に広めるための最右翼に位置する機種だったのであろう。未知なる音源方式としては、比較的に音創りしやすい4オペ8アルゴリズムの音色が、どこまで通用するのかも、見極めておきたかっただろう。理解してほしい、わかってほしい。質よりも普及力。決意の固まり。それが DX9だったのだ。
まさか、FM 音源が理解されないままに爆発的に売れることになろうとは、恐らくはメーカーも予想しえなかったに違い無い。
初期 DX シリーズを新品で買った人は偉い。彼らの熱気があったからこそ、他メーカーも各々独自の音源方式を開発するまでに、言わば、けしかけられたのだろう。カシオの PD 音源や iPD 音源、SD 音源。コルグの DWGS 音源、ai 音源。ローランドの LA 音源、RS-PCM 音源。カワイの ADD 音源、VM 音源。おのおの違う音がし、個性を放っていた。だからこの当時は、音源方式さえ知れば、それがどんな音がして、自分のシステムにどのようにフィットするのか、比較的に簡単に想像がついた。最近のどこを見ても結局は同じ音源たちとは違う。その点、今はもはや音源方式の時代ではなく、個々の機種そのものがどんな音がするかを、じっくりネットや店頭で確認し検討する時代なのであると考えれば、シンセ業界もずいぶん成熟してオトナになったものだ。
FM 音源は難解すぎて理解はされなかったが、少数のノブをひねるのではなく、おびただしい数のパラメータに数値をほうりこんで音づくりするという、新しいエディットの発想だけは広まった。やがて経験則が蓄積され、我こそは FM 音源を使いこなせり!と宣言するプロ達が続出すると、そのノウハウ本が売れるようになった。さらにプロが作った音色をデータ・カートリッジにして販売するようになり、ここに音色ライブラリーが誕生した。こうして、従来のアナログ・シンセは、パラメーターが少なく出音の種類も限られていると評価され、もはや未来が無いとして、TB-303 が、たった数千円で店頭で放置されるようになった。
しかしそんな中、DX7があまりに凄すぎて、DX9もまた、あっと言うまに日影の機種となる。最初のうちは、半年も品切れが続く DX7ほしさあまって、DX9を買ってしまうユーザーも多かった。が、結局こりゃ別物であるという評判がでまわる。これに気付いたヤマハも、早期に DX21 という賢い4オペ機種を発売。FM 音源自体は謎めいたままにしておき、演奏しやすくスプリットやデュアル、パフォーマンス・メモリーなどを追加し、なんといっても8音ポリにすることで、画期的にコストダウンした軽快なシンセ。
DX21 は本体鍵盤にタッチセンスがついていなかったが、安い値札さえつけば、タッチセンス無くとも、FM 音源は斬新な音がして面白かったのであり、それだけで売れたのである。
DX21 が出たあとの DX9は凋落ぶりもはなはだしく、このころからヤマハはモデルチェンジが早すぎるとの批判が出るようになり、そんな批判をものともせずに(?)FM 音源シンセは、ほとんど毎年のように新機種が出るようになった。まさに、なんぴとたりとも追いつけない独走体勢。破竹の勢いでラインナップが展開し、コルグは倒産の危機に直面しその傘下に入り、シーケンシャルまでもが完全に買収され、DX シリーズの独走には、誰も追いつけないとすら思えた。その風向きを変えたのはローランド D-50、終止符を打ったのはコルグ M1 でしょうね。
余談ながら、ラジオには AM 放送と FM 放送とがあるが、子供心に後者の高音質さは非常に新鮮に聞こえたことを覚えている。そのイメージから FM 音源という名称も、なんだかかつてなく音が良い音源方式のように思え、これも FM 放送にあやかったネーミングというかマーケティングとも言えよう。
↑ ありし日の、わが DX9(; ;)
* お詫びと訂正;2019 年4月 29 日
申し訳ございません。
2019 年4月 25 日にこの記事を投稿した時、
「映画『スターウォーズ』が日本公開された '78年には、日本の民生機ラジオには AM 放送しかなく、その後 FM 放送が出てきた」
という主旨のことを書いておりましたが、これは筆者の記憶違いです。とっくにそのころ FM 放送はがんがんありました。
すでに記事をその日のうちに訂正するも、あらためてここにお詫びいたしますとともに、一層のリテラシーを持つべく引きつづき修練します。ヌケ・マヌケあれば、ご遠慮無く、ご指摘ください。
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本展ではアート、グラフィックデザイン、ファッション、写真を中心に、新刊から復刻、ユニークピース、古書、ビンテージモノ等、 様々な形態の印刷物を楽しむことがができるプラットフォームを提供しています。
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This exhibition invites visitors to explore the variations of images and printed matters, which gathers the newly released publications, reproductions, unique pieces, used and vintage books with a focus on art, graphic design, fashion, and photography, offering a platform to view varied formats of printed matters.
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▍出品一覧 Exhibition Items
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▍会期 DATES & OPEN HOURS
2021/6/20ー8/20|有料・予約制
営業時間:日・月 11:00 - 19:00
(お一人様1000円|2時間制/お買い物される方はキャッシュバックいたします。)
ご予約: https://nitesha.youcanbook.me/
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毎月20日は開放日
13:00-18:00|入場無料・予約不要
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By appointment with admission fee at JPY1,000 per person for 2-hrs. Open Hours: 11:00 - 19:00 on Sun. & Mon. On the 20th of each month is OPEN DAY. 13:00-18:00| Free entrance, no reservation required.
▍会場 VENUE
二手舎 京都
〒602-0019 京都府京都市上京区下木下町144-4
烏丸線鞍馬口駅より徒歩8分、京都駅より車で15分
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NITESHA KYOTO
144-4, Shimokinoshitacho Kamigyo-ku, Kyoto-shi, Kyoto JAPAN (8 mins walk from Kuramaguchi Station. 15 mins by car from Kyoto station.)
▍二手舎 NITESHA
二手舎(ニテシャ)は書籍の買取・販売を行う古書店として東京を拠点にスタートしました。これまで写真集、美術書、アートブックを中心に、様々なジャンルの国内書籍と海外の洋書の販売・買取を行ってきました。2017年には展覧会を企画、2018年には稀覯本だった「プロヴォーク 復刻版」を刊行しました。2020年にNITESHA KYOTO をオープン。www.nitesha.com
▍展示風景 Installation View
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Nishijin – das alte Viertel der Kyōtoer Seidenweber reicht von Kuramaguchi-dōri im Norden bis Nakadachiuri-dōri im Süden, und von Horikawa-dōri im Osten bis Shichihonmatsu-dōri im Westen. Der Name des Stadtviertels bedeutet wörtlich übersetzt „westliches Feldlager“, er stammt aus der Zeit des Ōnin-Krieges (1467-1477), als die Truppen des Daimyō Yamana Sōzen, dem Oberbefehlshaber der westlichen Armee, hier ihr Lager hatten.
Die Weber, die während des Krieges in die benachbarte Handelsstadt Sakai geflohen waren, ließen sich nach ihrer Rückkehr in dem aufgegebenen Lager nieder und die dort hergestellten kostbaren Brokatstoffe wurden unter dem Namen Nishijin-Ori im ganzen Land bekannt.
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