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#人類学
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HISTORIA DE LA ARQUEOLOGÍA JAPONESA Y EL PENSAMIENTO CIENTÍFICO.
Capítulo 1: Sean bienvenidos, japonistasarqueológicos, a una nueva entrega de arqueología nipona, vista desde un punto de vista filosófico, una vez dicho esto pónganse cómodos qué empezamos. — Seguramente, todos nos hacemos las mismas preguntas cuando se nos pregunta determinados temas de historia y de arqueología. ¿Quiénes eran nuestros antepasados y por qué llegaron a este determinado lugar y no a x? ¿De qué medios disponían para lograr determinadas hazañas históricas? En nuestro caso nos centraremos en dos preguntas determinadas ¿Quiénes fueron los primeros pobladores del archipiélago japonés? Y de ver cómo dicha idea ha llegado a nuestros días sin una respuesta clara, ya que tanto arqueólogos, historiadores, antropólogos, entre otros, han intentado dar una posible respuesta a una de las mayores incógnitas de la historia de la arqueología japonesa. — ¿Cuándo surgió la arqueología japonesa propiamente dicha? La historia de Japón es un tanto complicada, debido a que la ciencia propiamente dicha no nace hasta finales del siglo XIX, para ser más exactos 12 de abril 1877 ¿Cuándo surgen las sociedades arqueológicas, antropológicas y el laboratorio de antropología en Tokio? Además, tuvieron mucha influencia de gente tanto de Europa como de Estados Unidos, ya que tenían una gran influencia para aquel momento y mencionaremos algunos y a uno de los arqueólogos más destacados del mundo japonés. — ¿Cuándo surgen las sociedades arqueológicas, antropológicas y el laboratorio de antropología en Tokio? Para responder a dicha pregunta: A partir de 1880,vino un proceso gradual de institucionalización a la arqueología, generando un nuevo marco académico y universitario: Dando lugar al nacimiento de la Sociedad Antropológica de Tōkyō 1884, se creó el Laboratorio de Antropología en la Universidad de Tōkyō 1888,la fundación de la Sociedad Arqueológica se fundó en Japón en 1895. — Espero que os haya gustado y nos vemos en próximas publicaciones que pasen una buena semana.
HISTORY OF JAPANESE ARCHEOLOGY AND SCIENTIFIC THOUGHT.
Chapter 1: Welcome, Japanesearchaeologicalists, to a new installment of Japanese archaeology, seen from a philosophical point of view. Having said that, get comfortable and let's begin. — Surely, we all ask ourselves the same questions when we are asked certain topics in history and archeology. Who were our ancestors and why did they arrive at this certain place and not x? What means did they have to achieve certain historical feats? In our case we will focus on two specific questions: Who were the first settlers of the Japanese archipelago? And to see how this idea has reached our days without a clear answer, since archaeologists, historians, anthropologists, among others, have tried to give a possible answer to one of the biggest unknowns in the history of Japanese archaeology. — When did Japanese archeology itself emerge? The history of Japan is somewhat complicated, because science itself was not born until the end of the 19th century, to be more exact April 12, 1877 When did the archaeological and anthropological societies and the anthropology laboratory emerge in Tokyo? In addition, they had a lot of influence from people from both Europe and the United States, since they had a great influence at that time and we will mention some of them and one of the most prominent archaeologists in the Japanese world. — When did the archaeological and anthropological societies and the anthropology laboratory emerge in Tokyo? To answer this question: Starting in 1880, a gradual process of institutionalization of archeology came, generating a new academic and university framework: Giving rise to the birth of the Tōkyō Anthropological Society 1884, the Anthropology Laboratory was created at the University from Tōkyō 1888, the foundation of the Archaeological Society was founded in Japan in 1895. — I hope you liked it and see you in future posts, have a good week.
日本の考古学と科学思想の歴史。
第1章: 日本の考古学者の皆さん、哲学的観点から見た新しい日本考古学へようこそ。 — 確かに、歴史や考古学の特定のトピックを尋ねられたとき、私たちは皆同じ質問をするでしょう。 私たちの祖先は誰でしたか、そしてなぜ彼らは x ではなくこの特定の場所に到着したのでしょうか? 彼らは特定の歴史的偉業を達成するためにどのような手段を必要としたのでしょうか? 私たちの場合は、2 つの具体的な質問に焦点を当てます。日本列島の最初の入植者は誰ですか? そして、考古学者、歴史家、人類学者などが、日本の考古学史上最大の未知の一つに可能な答えを与えようとして以来、この考えが明確な答えがないまま、どのようにして現代に至ったのかを見てみましょう。 — 日本の考古学自体はいつ頃から生まれたのでしょうか? 日本の歴史はやや複雑です。科学そのものが誕生したのは 19 世紀末、より正確には 1877 年 4 月 12 日です。考古学人類学協会と人類学研究所が東京に誕生したのはいつですか? さらに、彼らは当時大きな影響力を持っていたため、ヨーロッパとアメリカの両方の人々から多くの影響を受けていました。彼らの一部と日本の世界で最も著名な考古学者の一人についても言及します。 — 東京に考古人類学会や人類学研究室が誕生したのはいつですか? この質問に答えるには、1880 年から考古学の制度化が段階的に進み、新しい学問と大学の枠組みが生まれました。1884 年に東京人類学会が誕生し、1888 年に東京で人類学研究室が大学に設立されました。考古学協会の財団は 1895 年に日本で設立されました。 — 気に入っていただければ幸いです。今後の投稿でお会いしましょう。良い一週間をお過ごしください
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mreiyouscience · 2 months
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 本書は感性または悟性(理性とは区別された経験に関する知性)に関する書籍である。より分かりやすく説明すると、マインドフルネスを哲学的に論じた書籍であるといえるだろう。さて、私たちが今生きているこの世界において二つの大きな力が私たちに作用しているのは言うまでもないだろう。それはリビドー(性的欲求)とライフ・オブ・ラインズ(線としての生)である。(その作用の様相に関しては添付した資料の図1を参照されたい。)
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そして、この二つの力のうちライフ・オブ・ラインズ(線としての生)に焦点を当てているのが本書である。
 第一部―結び目をつくることーでは、社会的な生命の紐帯の中の個々の存在の生命線の絡み合い(相互浸透)について論じている。(ex;私たちの精神が交わるとき、つまり自らの意識を相手の意識とつなぐとき、相互浸透しているゾーンはたちまちどちらかに属するのをやめて、両者が責任を有する異質な存在、すなわち「社会」に組み込まれる。)人々にしても、他の生物にしても、あるいは生物による加工を経た事物にしても、こうしたすべてが関わっている出来事にしても、すべては様々な線のかたまりとして、絡み合いとして出来上がっている。つまり、線の生態人類学とはまさに「すべてはすべてと関係している」ことを見極めようとする関係の学であり精神的態度だが、我々の世界を構成するすべての存在=事件(出来事)のエコロジー(生態学)をティム・インゴルドは企てているのである。もちろん、そのドン・キホーテ的企画に完成などありえないのだ。すべては「うろつき」の中で見出され、また見捨てられてゆく線の集合離散のダイナミクスとその履歴の問題となるのだ。そして、成長と運動というプロセスを経て諸々の物が絶えず生じ続ける世界においてーつまり生命の世界においてー生命の線を(関係としてのライフ・オブ・ラインズを)結ぶことが可干渉性の基本原則であることを示すことがティム・インゴルドの目指すものである。この結ぶことは思考や実践の様々な領域の中に現れることになる。そして、結ぶことによって諸々の文化、パターンは維持され、人間の生活のすき間に結び付けられているのである。そうしたものは以下のようなものが含まれる。空気や水、コード類や木といった物質の流れや成長のパターン、編むことや縫うことに見られる身体的な動きや身振り、おそらく見ることよりも特に触れたり聞いたりするといった感覚的な知覚、そして人間関係とそうした関係をもたらす感情などである。すなわち、結びつくことは人々が互いに活動し語ることのリアリティの中に、人々が自分の関心を見つける間のものの中に、そして人間関係の網目を織り込んだものの中にあるのである。続く、第二部ではたくさんの人々や数多くの力がその環境や感情の中で揺れ動く様子を論じている。
 第二部―天候にさらされることーでは大気=雰囲気について論じている。具体例としてティム・インゴルドは植物の成長と運動を挙げている。ティム・インゴルドによると、植物は大地的であると同時に天体的であるという。そうであるのは空と大地の混じり合いそれ自体が生命と成長のための条件だからである。植物が「大地に属するものである」から(大地の上にあるのではなく)、植物は「空に属するものでもある」のだ。また、もう一つの具体例として人の知覚を挙げている。私たちは空気を呼吸し、空気の中で知覚する。それゆえ、空気がないと窒息してしまうだけでなく、感覚も失ってしまうだろう。通常私たちは空気を見ることができない。けれども時折霧の中で、炎や煙突から煙が昇る中で、空気の流れの繊細な模様を見ることができる。しかし、正確には空気を見ることができないのは、私たちが見ることができる生を維持させる媒体の透明性が故である。さらに言えば、空気が振動して音の波動を伝えてくれるので私たちは音を聞くことができるし、空気が与えてくれる運動の自由の中で私たちは触れることができるのである。このようにすべての知覚は空気に依存しているといえるだろう。逆に言えば、空気のない固まった世界の中では知覚することは出来ないだろう。それゆえ、まさに感情を持つものとしての私たちの存在は天候(世界)に浸っていることを前提としているのだ。そして、このような大気=雰囲気をより感じ取るために必要な態度が「・・・とともに、・・・とともに、・・・とともに」という態度である。例えば、あなたがチェロを演奏している時チェロとともに奏でているならば、あなたのチェロから流れ出すラインは音のラインであり、それはあなたが聴いている時に聞こえる、あるいは一緒に聞こえるものなのである。その音はあなたの生命にライン吹き込むことであなたはチェロと大気=雰囲気と調和し、マインドフルネスへと至るだろう。このような現象が大気=雰囲気現象なのである。そして最終章である第三部では、このマインドフルネスな状態がいかに私たちをより人間らしい調和の取れた生き方へと導くかを論じている。
 最終章である第三部―人間になることーでは生に導かれることがいかにして私たちを人間化するということを生じさせるのかを論じている。長らく西洋的伝統において、私たちが行うことは立案者として頭の中に構想を持った動作主(エージェンシー)のよって行われると考えられてきた。しかし、ティム・インゴルドはこれを否定しており、生は立案者として頭の中に構想を持った動作主(エージェンシー)に従属的ではなく、エージェンシーが生に従属的であることを主張しているのだ。すなわち、この導かれた生によって(「C・オットー・シャーマー」が主張する「出現する未来から導く」ことによって)、いかなる瞬間にあっても人間は自らがそれであるものではなく、自らがそれになりつつあるものたらんと決心していなければならないのである。すなわち、いかなる点でもその過程が最終的な結末に到達することはあり得ないのだ。達成は常に延期され常に「未だない(未完成である)」。人間はどこで生きているのであれ、そしてどのようにして生きているのであれ、常に人間になりつつあるのであり、つまりその進展とともに自らを創造しているのである。すなわち、人間はこの意味において自分自身の生の脚本家あるいは小説家なのである。
 総括したい。ティム・インゴルドは私たちが独立し、自立して存在しているというより環境や他者と相互依存しそれらと調和生きていたいと切望する存在であり、またシステム思考のような態度で生きていくことの大切さを教えてくれるだろう。
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metal-cn · 5 months
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推挙;イスラエルvsガザ、読んでました!大当たり!孤高の天才学者=比較文化論、米レイチャエル・クリスティ氏!本ブログ、珍しい人物評かな?
まあ、既存の権威におもねない。国連さえもね。一切を相対視する。何より明確に場合分けする。その意味で超高度に、相関的に物事を捉える。素早く2010年代にだからこそ、なお素晴らしい。恐らくはMヴェーバーの再来、いや超えている。だから、推薦すんの。まさに、天才中の、天才というべき、やろね。桁違いよ。そんじょそこらの、天才では、済まない。言っておくが、同氏は、中近東の専門家ではない。にもかかわらず。おそらく、世界でも、例のないほど、頭脳明晰。だがほとんど未知の存在やろね。埋もれている超天才やね。なら、発掘すべし、されるべし、やろね。★かつてないほど、国際連合の権威や威厳、実力、実体が問われる中で、なかなか肝が座っている。★★国際連合こそ、機能不全を何とかせいへんとアカンと本ブログは。どころか、国際連合すら、客体化できるほどの、天才である。★★★まさに、日本の外務省、外相からみたら、目の上のなんとやら?同氏は、つまり、国際連合安全保障理事会をも、客観視しうる、だけの頭脳と度胸の持ち主。★★★★同氏から、本ブログほどの知見でも、得られる智恵は、国際連合の権威の所以は、その理念、精神、宣言、声明、条約そのものであって、いわば権力合戦であっては、断固ならないということ。要は国際公務員?だから?何様?という位の度胸たま。★★★★★だが、事実そのとおりなのだ。よしんば国際連合事務総長たりとても、一人の人間である。No more than that, no less than that!★★★★★★敢えて日本の知識人へ置き換えれば、故福沢諭吉翁であろうし、養老孟司先生であろう。多少は、上野千鶴子先生的でも、あるような感じはするよね。
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playitagin · 1 year
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トール・ヘイエルダール 
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Thor Heyerdahl KStJ (Norwegian pronunciation: [tuːr ˈhæ̀ɪəɖɑːɫ]; 6 October 1914 – 18 April 2002) was a Norwegian adventurer and ethnographer with a background in zoology, botany and geography.
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anamon-book · 7 months
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人類が神になる日-デニケンの宇宙文化人類学 エーリッヒ・フォン・デニケン、坂本明美・訳 佑学社 Cover design=APIA:2
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rakuhoku-kyoto · 1 year
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装幀を担当したご本。『たまふりの人類学』石井美保[著]青土社[発行]
 小社刊行の本ではございませんが、装幀を担当したご本を、ここで紹介させていただきます。  青土社から刊行されます。
『たまふりの人類学』 石井美保 著
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カバー銅版画┃ イシイアツコ
仕 様┃ 四六判 並製 272頁
発 行┃ 青土社
刊行日┃ 2022年11月21日ころ
 装幀を担当させていただきました。
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「文化人類学者は、世界の隙間のさらに奥深くへ――。ガーナの村の精霊、インドのトラ保護区、京都の借り暮らし、東北の津波跡、感染症と禁忌、ウクライナの国境、日本兵の面影と記憶……。  ふるえながらめぐりながれ、この世に現れては過ぎ去っていくものたちにことばを与え、一回性と偶然性に満ちた人間の生の営みを書き記す22篇。」
詳細は 青土社 をご覧くださいませ。
著 者 石井美保(いしい・みほ) 1973年、大阪府生まれ。文化人類学者。北海道大学文学部卒業、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。宗教実践や環境運動をテーマにタンザニア、ガーナ、インドで調査を行う。現在、京都大学人文科学研究所准教授。主な著書に『精霊たちのフロンティア』(世界思想社、2007年)、『環世界の人類学』(京都大学学術出版会、2017年)、『めぐりながれるものの人類学』(青土社、2019年)、『遠い声をさがして』(岩波書店、2022年)などがある。第14回日本学術振興会賞受賞(2017年)、第10回京都大学たちばな賞受賞(2018年)。
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目 次  まえがき  Ⅰ
花をたむける
アンフラマンス
世界する流儀
贈与と顔
 Ⅱ
石を積む
都市の縁側
あいづちと変身
うつつの向こう側
借り暮らし
 Ⅲ
数式と神話
センザンコウの警告
センサスの内と外
空の飛び方
 Ⅳ
少女たちの残像
声と現れ
地べたの民俗誌
風の祠
国境の森で
 Ⅴ
たまふりとふるえ
羽をもつもの
シャマンのうた
いしぶみと署名
 あとがき
   * * * ま��、同じ著者、石井美保���の『めぐりながれるものの人類学』も、かつて(2019年に)装幀を担当させていただきました。
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『めぐりながれるものの人類学』  石井美保 著
カバー銅版画┃ イシイアツコ
仕 様┃ 四六判 並製 224頁
発 行┃ 青土社
刊行日┃ 2019年6月刊
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「フィールドで、文化人類学者が見たものとは? 学界の気鋭が書き下した27の文章は、タンザニア、ガーナ、インドから、60年安保の水俣、京都大学の「立て看」撤去問題まで、時間と空間を越えてめぐりながれる。  異なっていながら同じものに満ち、分かたれていながらつながっている私たちの生のありようを鮮やかに描き出すす27篇。」
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目 次  まえがき  I
「人」からの遊離
小人との邂逅
水をめぐるはなし
循環するモノ
道の誘惑
 Ⅱ
異形の者たち
鳥の眼と虫の眼
ふたつの問い
科学の詩学へ
 Ⅲ
敷居と金槌
公共空間の隙間
フェティッシュをめぐる寓話
隅っこの力
 Ⅳ
まなざしの交錯と誘惑
現実以前
流転の底で
Since it must be so
 Ⅴ
世話とセワー
ささやかで具体的なこと
台所の哲学
リベリア・キャンプ
追悼されえないもの
 Ⅵ
凧とエイジェンシー
島で
サブスタンスの分有
神話の樹
言霊たち
 あとがき    * * * また、こちらのご本は、装幀を担当していませんが、同じく石井美保氏の著作で、同じくイシイアツコ氏による装画の――、 『遠い声をさがして:学校事故をめぐる〈同行者〉たちの記録』
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発 行┃ 岩波書店
仕 様┃ 四六判 並製 338頁
刊行日┃ 2022年6月刊
「小学校のプールで失われた命。なぜ、どうして、事故は起きてしまったのか。  受容と忘却の圧力に抗い、「その時」に迫ろうとする両親と同行者たちの苦悩と行動。  そこから浮かびあがる学校や行政の姿。  同行者の一人として出来事にかかわった文化人類学者が、多声的な語りから亡き人とともに生きることの意味と可能性を考える。」
   * * *
 そして、11月11日の「朝日新聞」朝刊(2022年11月11日 金曜)の「折々のことば」に、『めぐりながれるものの人類学』(石井美保 著、青土社)から、引用がされています。
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※ 画像は、文章の一部分を隠しています。全文は「朝日新聞」「折々のうた」をご覧くださいませ。
以上、2022年11月17日 記
 .
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ututumyou · 3 months
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AIと科学と人間愛の宗教 60代の殿方達に捧ぐ!
Genden-TukuRich®︎の世界へようこそ!!…
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noctazure · 5 months
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“本来なら、自国民から税金を集めることで、信頼と説明責任に基づく相互依存の関係に向かわせる支援をしなくてはいけないのに、貿易や援助を通じて私たちは政府と国民を引き離すようなかかわり方をしているのかもしれないからだ。”
(「レヴィ=ストロース講義」・p252)
発展途上国への支援に関して。沈黙の春を思わせる。入り組んだ生態系。
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日本の考古学と科学思想の歴史。 第3章 : 日本の考古学者の皆さん、哲学的観点から見た新しい日本考古学へようこそ。 - 1868年当時、日本にはヨーロッパやアメリカで見られるような科学的根拠はありませんでした。日本がその精神やその一部を開放したのは、1868年から1869年の戊辰戦争後になります。米国のような国は日本の科学をモデルにするだろうから、非常に保守的だった。 日本で骨董品への関心が芽生えたのはいつ頃ですか? 江戸時代にはすでに骨董品への関心があったことが知られており、はるか昔にヨーロッパでも同様のことが起こりました。 日本の発掘の始まりは19世紀のほぼ終わりに始まり、数年前に日本でいくつかのローマ硬貨が発見されました。どうやら日本の封建領主は古遺物を収集するのが好きでした。おそらくそれらは中国のどこかの港から海岸に到着しました。日本語。 - 過去を知りたいという欲求は、どの大陸に属していても、すべての人類に共通のものであり、問​​題の時代についても同じことが言えます。 ヨーロッパやアメリカの様々な勢力が日本に到来したとき、彼らはその住民に影響を与えました。そのため、日本人によって日本考古学の父と考えられているエドワード・モースを、他の登場人物の中でも特に取り上げています。 19 世紀には、アメリカ哲学の最も偉大な学派の 1 つであるテイラー主義があり、これは台湾で考古学的発掘を行い、中国および韓国との関係を確立する日本の考古学の最も偉大な人物の 1 人である鳥居龍蔵に影響を与えることになります。 - 気に入っていただければ幸いです。今後の投稿でお会いしましょう。良い一週間をお過ごしください。 - HISTORY OF JAPANESE ARCHEOLOGY AND SCIENTIFIC THOUGHT. Chapter 3 : Welcome, Japanesearchaeologicalists, to a new installment of Japanese archaeology, seen from a philosophical point of view. Having said that, get comfortable and let's begin. - In 1868 Japan did not have a scientific base per se as we can see in Europe or the United States, it will be after the Boshin War of 1868-69 when Japan opened its mentality or part of it, since a good part of the population was very conservative because Countries like the United States would model Japanese sciences. When did interest in antiques arise in Japan? It is known that in the Edo period there was already interest in antiquities, something similar happened in Europe a long time ago. The beginning of the Japanese excavations began almost at the end of the 19th century, a few years ago some Roman coins were discovered in Japan, apparently a feudal lord in Japan liked to collect antiquities, they probably arrived from some port in China to the coasts Japanese. - The desire to know the past is something that all human beings share, no matter what continent you belong to and the same can be said about the era in question. When the different powers from Europe and the United States arrived in Japan, they influenced its inhabitants, thus we have, among other characters, Edward Morse, considered by the Japanese, the father of Japanese archaeology. During the 19th century we have one of the greatest schools of American philosophy, Taylorism, which will influence one of the greatest figures of Japanese archeology Torii Ryūzō who will carry out archaeological excavations in Taiwan, establishing relations with China and Korea. - I hope you liked it and see you in future posts, have a good week.
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mreiyouscience · 29 days
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アクターネットワーク理論入門
 アクターネットワーク理論の最大の特徴は社会的現象の背後にあるとされる”社会”ではなく、人とモノのネットワークによるビリヤードに原因を求める点です。一見すると当たり前ですが、これまでの学問の世界において革命的な理論でした。なぜなら、アクターネットワークとは人とモノがアクターとして同列に扱われる動的ネットワークだからです。このアクターとしてのモノはあらゆる非人間を指すのです。例えば、法律、食べ物、インターネットなどの一つ一つの科学技術、お金など様々です。つまり、モノの存在と役割を軽視する理性重視の人間中心主義から人とモノのアクターによる動的ネットワークの記述への変化によって学術界に衝撃が走ったのです。(我々現代人は人間によって開発されたSNSによって影響を受けるという例からわかるように、人とモノは相互作用を受けているのです。)
 このアクターネットワーク理論はもともと実験室におけるエスノグラフィー(質的研究)であったので、実験室のような極めて特殊かつ限定された環境の記述には有効であったのですが、現実の社会を記述する際にラトゥールらが指摘しているように不確実性が伴うので、今もなお課題は山積としているのが実情です。しかし、ラトゥールらによるアクターネットワーク理論の学術的功績は大きく、それによってさまざまな理論が生まれたこともまた事実です。特にティム・インゴルドのライン学とエドゥアルド・コーンのマルチスピーシーズ人類学、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在理論は面白いので、本書読後に読まれるとよいでしょう。
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metal-cn · 7 months
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ノーベル賞時期でもあり、日本の、医師をめぐり、議論が?
それは、ほとんど語られぬ、日本の、医師の自殺。いや、率や原因、手口といった、単純すぎる話ではなく。どう止めたか?成功したか?つまり日本の、医師で、同僚などの目前で、仮に自殺を遂げんとすら医師がおるとする。どのように、果たしてこれまで何人が中止させることに成功したのか?なぜか?医学の専門家であり、生き死にのプロフェッショナルでもあるからだ。だから、日本の、医師はそうした事柄について、ほとんど聞かれない。それは、忌み嫌われている、一種のタブーだからなのか。日本の、医師はどう対応するか、したか。本ブログの分析では、もしかしたら、中止へ追い込む、いわば、入口から、手法が劣後している可能性も。★絶対にあってほしくないシチュエーションだが、きっとあるのが現世やろし、想定外は、そんな、許されるわけ、ありまへん!
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cabakascabaka-blog · 1 year
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danzoku · 1 year
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人類の一歩
どんなに頑張っても、光の速さより速く、向こう側を観測できない。
夜空を見上げながら思う。
何十億年後に地球がなくなるだろうって計算するのはなんのためだろ。
何もかも知りたいのは、なんのため。
ノーベル賞をとった人達は何を祝われているの?
最近ようやく
それがゴールでないと実感できる。
それはたった一歩なんだと思う。
人類の一歩。
次の一歩のための、何歩目かもわからないような、たったの一歩。
止まらないための一歩。
本当にそれだけで、それだけのことがものすごく重いのだ。
アームストロングさんの言ったとおりだなー。
意識が自分を離れて、人類に辿り着くとき、私は人間なんだなと感じる。結局、人間なんだなと呆れる。やっぱり人間なんだなと安心する。
もしかすると、人類の一歩を引き継ぐのはいつか人類じゃなくなるかもしれないし、引き継がれないかもしれない。
でも、進みたいから進んでいる、そんな集団の一員なんだなと思うと
少しだけ誇らしい。
直接的には何にも成してなくても
バタフライ エフェクトみたいに
生きてるだけで羽ばたいているような気がする。
そんな皆の風が人類の一歩につながっているんじゃないかな。
その一歩はやっぱりめでたくて、重くて、すごいんだと思う。
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ehonchan23 · 1 year
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こんばんは。こんばんは。 2月3日㈮☁ 節分👹 絵本ちゃんときのこ文庫は、所用により臨時休業いたしました🙇 明日は出張販売の為 また臨時休業いたします ご容赦下さい(_ _;) #子どもの文化人類学 #原ひろ子 さん #筑摩書房 #ちくま学芸文庫 (絵本ちゃん) https://www.instagram.com/p/CoM11OwvDhA/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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a-matsumae · 1 year
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生物人類学者だけど「愛について」質問ある? | Tech Support | WIRED.jp
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