お取り寄せ(楽天) 希少な桃で話題沸騰★ 厳選白桃のカスタードパイ 桃スイーツ パイ 直径15cm 価格3,980円 (税込)
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夏季限定。希少な白桃「ふくのもも」をふんだんに使用したピーチパイ。
カスタードクリーム、アーモンドクリームなど異なる味わいが調和することで引き立つ至福のおいしさ。
パイ仕立てで存分に…。
とっても希少な桃を今回は仕入れ先様のご厚意で特別に使わせていただくことになりました。せっかくですからたっぷりと盛りつけてみました。その量なんと300グラム! ジューシーで程よい果肉感がバターの香ばしさやコクと調和することで、更なるおいしさへと昇華します。他では味わうことのできない贅沢な逸品です。「ふくのもも」の名のとおり幸せを感じていただければ幸いです。
まぼろしの桃「ふくのもも(福の桃)」
とってもみずみずしくて繊細な味わい、…
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世相に関する覚書
ものぐさでいい加減な私は人をまとめたり動かしたりするのが極端に苦手な性分で、今でも人と仕事をするのが苦痛で仕方なく、例えば、ある作品の評論を書いてくれと依頼があっても、依頼主の意向を無視したものを書き上げてしまい、折角の仕事の話を頓挫させてしまったことが幾度となくある。
「井原西鶴はスタンダールやバルザックと同じリアリズム文学の創始者であり、当時、大阪はパリに匹敵する文化都市だった、だからこそ、大阪維新の会のような文化破壊をあたかも道徳のように行う政党は決して許してはならない」と書いて、失笑されること数回。十三の風俗嬢とその馴染み客の恋愛を書けば、織田作の模倣に過ぎないと馬鹿にされ、踏んだり蹴ったりの私。それでも井原西鶴や織田作、宇野浩二、武田麟太郎、葛西善蔵、林芙美子を見習い、軽佻浮薄にケラケラ笑いながら私は生きている。
こんな愚図な私はどうにもならん、いくら賞レースに参加したとて、風俗壊乱の下卑た作品しか書けないので、富と名声までは程遠い。いつまで月給取りをしなくてはならないのだと不甲斐ない自身を罵りながら日常を過ごす。
そんな私だから、音楽なんてとうの昔に辞めて正解であった。もともと不器用なんだから音楽なんてそれはとても私の技量にかなうものではなかったのだ。
退屈で無為な学生時代、セカンドスクールだがなんだかに通い詰めたりして「お前は挫折したことないから、そこへ行ってる俺の真剣さなんて分かりっこない」などと威張り散らし、自身の優越を誇示するのに必死な連中との付き合いに疲れ果て、私はそんな窮屈な人間関係から逃れるために読んだスタンダールの「赤と黒」とバルザックの「ゴリオ爺さん」などの古典文学にこそ、私の居場所があった様なものだった。人間の矛盾に満ちた本質など変わりはしないし、それを責めても何も生まれないのだと思うと、多少、卑屈な思いも鎮まるものである。どうにかしてこのクソ退屈で屈辱に満ちた時間と場面をやり過ごすことしか他はなかったのだ。
そもそも世渡り下手でなにかと不器用な私であったし、といってそれほど学術的に優秀でもない。それに取り柄なんてない。皆の様に明確に目指すものなんてあるわけもない。
私には捉え難いものを追うことしかできず、厄介なことに迷うことでしか多くの物事が分からないのだ。取り返しのつかない失敗と破綻の上に、私の思考が成り立つという厄介さ。
頭のいい方々は羨ましいものだ。路頭に迷い、誰からも必要とされない孤独感や他人との協調が上手いがために疎外感を知らずに、ただ、目の前にある課題をこなすだけで満足そうなのだから。
私の場合はそうはいかない。満足なんてどこにもなく、何かを知れば知るほど、何かをやればやるほど、現実が差し迫って来て、理想は遠く離れていく様に見える。それ故に、常に何かに迫られるような切迫感があって、何処にも落ち着きそうがない。自嘲的にいえば、私はいつまでも年相応の生き方に馴染めず、ただ、当て所なく迷うのだ。放蕩無頼とはよくいったもので、私もそれに近いものがある。
ただ、こんな私でもこれまでの時代は西成の薄暗い商店街の路地裏にいる八卦見にでも見てもらえばよかった。
モーパッサンの「女の一生」の最後、召使いが仕えていた婦人に言うようなことを彼なら答えると分かってる、この言葉を第三者から聞ければ、満足だった。
「結局、未来なんて期待していたほど良くもなく、といって失望していたほどのものでもない」
ところがこんな楽観が成立していた時代が徐々にこの日本から消えつつある。しかもその消失速度はここところ否応無しに増すばかりで、いくら愚図で鈍間な私でも分かる。
実際、私はこのことについて直感的に分かっていたといっていいか。白状するが、大学のキャンパスだろうが、風俗店の受付だろうが、ジャンキーやヤリ目のパリピー野郎ばかりが屯するクラブだろうが、今の職場であろうが、どんなに目を背けても直視せざるを得ない危機が迫っていることだけは分かっていた。
だからといって自身を逞しくしたり資格の勉強をしようとまで思わなんだ。何故って、それは余りにも私には不自然なことだった。所詮、資格なんて役に立たないし、専門性を持てば結局自身の無謬性を過信することとなり大きく判断を見誤るからだ。
例えば、精神科医が大量の薬を出し、多くの薬害を生み出すことは、自身の無謬性を一瞬たりとも疑ったことがない所以ではないか?
かつて私は自身の特殊性ー頭の構造がおかしいのか、頭が時折人との会話や目下の作業についてこれず、注意散漫になって、思考が筋から大きく違う方向へ逸れてしまうーのために、若干精神を病んでしまい、頭に喝を入れるアンフェタミンと精神状態を穏やかにするセロトニンの混合薬欲しさに医者に行ったことがある。そこで医者にこんなことを聞かれた。
「このまま消えたいとかそういった希死念慮はありませんか?」
別に死にたくもないのにどうしてこんなことを聴かれねばならないのかと不貞腐れた私は、
「別にないです。私が欲しいのはただ穏やかさと覚醒だけですがね」
すると、医者はこの答えに不満ありげに、
「おかしいですね?本来なら自殺願望がこういった抑うつ症状の場合にはみられるのですがね…本当はどうです?実際はあるでしょう?」
こう聞く医師の目にどこか見当違いの既視感があるように私には思えてた、抑鬱ならばこの答えではなくては困るといったような、そんな雰囲気を醸し出されており、私は些か困惑した。
まるで鬱に憔悴した人は皆自殺願望でもあるかのように患者に決めつけるところなぞ、なんという傲慢さだろうか。
後々分かったことであるが、私はうつ病でもなければ統合失調症でもなかった。何たる誤診だったろう。こういった行き違いばかりの診察で出された薬に手もつけなかった。私の精神状態が脳の問題であれば、脳波でも見れば良いものを、なんたって本人との面談だけで、あれだけ易々と薬が出せたのだろうか、それが不思議でならなかったのだ。
恐らく医者はその説明を拒むだろう。自身の無謬性に一つでもケチが付けば、彼の自尊心は忽ち崩れ、そして、これまでの経歴を自ら疑わずにはいられなくなる。となると、皮肉なことに、彼こそが向精神薬のお世話になる羽目になるのだ。
ーこうした精神運動が権威と集団に結びつき、少数からの真っ当な非難を論拠なしに厳しい口調や態度で退け続け、悲惨な結末をもたらす自身の行為を改めずに続けること、これをセンメルヴェイス反射という。日本社会に起きている多くの弊害はこうした心理現象に由来するとも言える。他にも合成の誤謬、認知的共同体などが挙げられる。ー
こんな例はいくつもある。
幸か不幸か、私の身内の多くは精神障害者であり、精神科医の被害者である。その多くは医師の言いつけ通りに処方された薬を飲み続け、文字通り、ヴォガネットの作品に出てくる登場人物のように頭がどっかーんとぶっ飛んだ。
通院すればするほど、会話が支離滅裂なものとり、動作がどんどん鈍くなっていく。
その結果、ある者は還暦を前にしてすでに手足の関節の膠着が見られ、自身で排泄と食事すらできなくなるほど衰弱し、その上、会話も成立しない。そして尿道にはチューブが繋がれ、病床に臥したきりになっている。
誰も指摘しないが、これは薬害ではないかと私は思う。
こんなことが頻発しているのであれば、日本の精神医療は最低といっても過言ではない。
地獄への道は善意で彩られているとはよく言ったもので、このほかにも政府や官僚、エリートたちが社会保障の充実のための増税だと、将来世代にツケを残さないためだとかなんとか、美辞麗句ばかり並びたてている。だが、結局、消費��を上げるたびに、日本人は総じて貧乏になり、その供給能力(即ちそれは国家の経済力を指す)は著しく毀損された。
介護医療、土木建設などの生活の根幹をなす業界の現場は、「無駄を減らせ」「民間の知恵を入れろ」との美辞麗句に彩られた合言葉から始まった目的のない緊縮財政と構造改革の煽りで、その運営手段は民営化されたために、作業効率はかえって悪くなり、報酬は減り続けた結果、廃業にまで追い込まれるところが相次ぎ、人手不足で相当悲惨なことになっている。
鈍感ではあったが、世の中が見る見る悪くなると察した私は、将来に向けて努力する同級生を見ても焦りもしなかった。そもそも私が無気力な状態であったことは言うまでもないが、ただ、その焦りは結局、何らかのビジネスに利用されるということを感じたからでもある。
実質賃金が漸次的に減少し、全体のパイが縮小していくデフレ経済下で勝てるのは持てる者だけで、多くは頑張れば頑張るほど燃え尽きるのだ。浮かばれない自身をSNSにでも投稿して憂さを晴らす姿はなんとも惨めったらしくて遣る瀬無い。そしてこの無為とも思われる努力の過程で積もり積もった妬みは政治家や官僚、メディア、詐欺師などに巧みに利用されて、自身の立場を知らず知らず危うくしてしまう。
公務員を叩いて何が良くなった?
何一つ良くなっていない、災害があれば、都市機能は一瞬で麻痺し、復旧には多くの時間と労力を要するだけで、日常生活に以前よりも支障を来すだけの結果にしかならず、何の足しにもなっていなかった。
リーマンショックの時、何か重大な機構の歯車が外れて未来への軌道が逸れた気がした。これまで是としてきたことがすべてまやかしだったというようなことが仄めかされたといっていい。世間の空気が少しだけ冷たくなり、より一層協調を求め、画一化されていくことを人々に強要していた。
「負け組にならないために、空気を読まねばならない。」
その空気とはなんであったか、今でも私には分からない。ただならぬものが何か一定の思考を強いるようなものであったのは確かだった。
後にトクヴィルの「アメリカの民主主義」という書物に出会い、朧げに見えてきたのは、「多数派の専制」がこの日本で行われつつあることであった。
階級や中間共同体が撤廃されて、人々が一様に平等となったとき、慣習や伝統を見失い、模範とすべき対象がないと多く嘆かれる。その時、頼るべきものを見失った人々はメディアが喧伝するイデオロギーや合言葉を、それが正しいかどうかなど関係なく、一斉に飛びついて信じてしまう。そして少数派の非難や意見はことごとく無視され、多数派がその社会を支配する。この多数派の専制が更に進めば、思考の自由すら人々は手放し、多数派の思考に隷属していく。
つまり、全体主義と民主主義は表裏一体。
私が物心ついた時からすでに社会はこの「多数派の専制」のメカニズムを順当に辿っていたのではないか。
阪神淡路大震災以後の日本文明は、何かと言えば、「無駄を省け」「これからは金融の時代だ」「規制緩和して市場を活性化すれば、より経済は活発になる」といった根拠なき意見が散見される次第、しかも何処にも確証もなければ論証もない。これらの試みが失敗したところで誰も責任を取らないどころか、「改革を十分に徹底していなかったから良くなかった、だからより抜本的に行う必要がある」という意見が支配的で、もう手の施しようがない。
つまりこの日本では健全な民主主義が機能していないのだ。
東日本大地震になると、この民主主義の機能不全は輪をかけて酷くなり、福島原発の爆発を見て、人々は恐れおののき、科学的根拠もなく、メディアの扇動だけで直ぐにでも脱原発と声高に多数派は叫ぶ有様。
正直にいって私も当初煽られてしまった。追い追い情報を精査すると、この事故はやむを得なかった。何しろ、想定外の事が起きたのだから。だったら、この想定外を上回る危機にも耐え得る原発を作れば良いではないか。しかしそんな議論は無かった。あったのは原発廃止、それだけ。
しかも脱原発に煽られて、人々は一斉に原発を叩き、根拠なき恐怖心は再エネビジネスに利用されたのだった。
結果、電気代に再エネ促進費用を上乗せされて支払う羽目になり、そのままその金は外資規制もなく再エネ事業者に横流し。しかもビジネス目的で山の斜面に多く作られたソーラーパネルのせいで、豪雨が見舞えば、土砂崩れは頻発する有様。
敗戦のショック同様に、このショックは人々の思考を停止に至らしめ、その隙間を邪なビジネスマンや工作勢力に利用されたのだった。
これをショックドクトリンという。
大惨事が起きるたびにこの国ではビジネスチャンスとなるわけだ。
過去の大戦の原因の一つが、石油をめぐるアメリカに対する我が国の過度な依存であったと分かれば、自ずと、結論は、エネルギーを自前で賄える可能性を有した原発を日本は国を挙げて維持すべきといった意見に傾く。この事故をあくまで日本の宿命と受け止めるべきではなかろうか。自立するために、多少の犠牲を払わなければならない日本の運命的境遇を理解できれば、何でもかんでも反原発と騒ぐのは話があまりにも飛躍しているのではないか。
しかし、こんな私の意見なんて多数派には届くはずもない。多くの人たちは、東電の管轄下にあったものが事故を起こしたのだから、その責任を国が東電に押し付けて当たり前と考え、異論すら聞き入れなかった。
想定外の事が起きているところへ、責任問題として、この事故を扱うこの国のエリート層の知性の劣化にはこの私でも舌を巻くものだった。これは誰の責任でもなく、その負担は政府をはじめとする国家全体が負うべき種類のものだろう。
しかし、政府はその負担を東電に押し付けた。メディアは、また放射能の被害を被った福島の農家に東電職員が土下座する写真を新聞の一面に載せたのだった。
どこまで煽られないと人々は気づかないのか。
その年行われたロックフェスは、従来通り、大量の電力を消費する大規模なものであったのに、ステージに立つ連中は悉く脱原発のイデオロギーに染まり、ある政治集団に至ってはジョンレノンに憧れてるのか、そこで夜中、大音量で音楽をかけながら、環境保護を標榜する集会を開いていた。60年代後半のウッドストックにいたヒッピーの幻想に頭がヤラレだのだろう、原発の利権構造が悪など偉そうな事を言う一方、大量の電力がなければ成り立たない生活をしている自身の矛盾には目を背け、偉そうに騒ぎ立てる姿は、自己欺瞞そのもので、実におめでたい姿だった。この光景をみて、こんな軽薄な連中とつるむのが気恥ずかしくなったものだ。私もそれだけ歳をとったのかわからぬが、彼らに言い知れぬ違和感を覚え、これ以降、私は音楽をやっている連中に関心を寄せなくなったのは事実だ。
一体、奴らの政治的主張のどこに耳を傾ける必要があろうか?実際、彼らの歌詞を仔細に読めば、その内容の空虚さ、幼稚さ、軽薄さが目につくだけで私は、彼らの音楽の不協和音も相まって、一層不快になってしまう。まさにこの自己欺瞞は滅びの兆候といってもいいのだろう。
こんな自己欺瞞ばかりの音楽の世界から遠ざかりたい一心で文学へと関心を移したわけだけど、これと同じことが文学でも起きていると分かった時の落胆は相当深刻なものだった。なんたって文学者の多くは音楽のそれと違って政治力まであるのだ。
私はそれでもこのクソみたいに高慢で自己欺瞞している連中の間で軽佻浮薄な振る舞いをして、世間の失笑と顰蹙を買うことだろう。
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サピエンス全史 概要1
かつてアフリカ大陸の一隅で捕食者を恐れて細々と暮らしていた取るに足らない動物がこの21世紀までたどってきた道のりを振り返り、将来を見据える。
「取るに足らない動物」というのは、私たち、現生人類に他ならない。ホモ属多くの人類史の1つで、「取るにたらない動物」だったその私たちが、一体どうやって食物連鎖の頂点に立ち、万有の霊長を自称し、自らを(厚かましくも)「ホモ・サピエンス(「賢い人」の意)」と名付け、人地球を支配するに至ったのか。
それは多少の見知らぬ者同士が協力し、柔軟に物事に対処する能力をサピエンス(著者は他の人類種と区別するために、現生人類であるホモ・サピエンスを「サピエンス」と呼んでいる)だけが身に付けたからだ、と著者は言う。
ハチやアリも多数が協力するが、それは近親者に限られ、彼らの行動は進化によってプログラムされており、柔軟性を書く。狼やチンパンジーはある程度の柔軟性を持っているが、ごく親しい少数の仲間としか協力しない。
このサピエンスならではの力を可能にしたのか、想像力だ。サピエンスだけが、約70,000年前の「認知革命(新しい思考と意思疎通の方法の登場)」を経て、虚構、すなわち架空の物事について語れるようになった。客観的な現実の世界だけでなく、主観的な世界、それも大勢の人が共有する「共同主観的」な想像の世界にも暮らせるようになった。伝説や神話、神々、宗教を見出し、それを共有するものなら誰もが柔軟に協働する能力を獲得した。虚構を作り変えればすぐに行動パターンや社会構造も変えられるので、サピエンスは遺伝子や進化の束縛を脱し、変化を加速させ、他の生物を凌げたのだ。
なお、こうした虚構は、伝説や神話にとどまらない。企業や法制度、国家や国民、さらには人権や平等や自由までもが虚構だと言うから驚く。
こうしたものに、あまり慣れきっている私たちには意外かもしれないが、やはりこれはすべて虚構なのだと著者は指摘し、私たちの価値観を根底から揺るがす。
さて、サピエンスを歴史は、約10,000年前に始まった「農業革命」で新たな局面を迎える。農耕によって単位面積当たりに暮らせる人の数が爆発的に増加し、かつて狩猟採集をしながら小集団で暮らしていたサピエンスが定住し、統合への道を歩み始める。やがてその動きを早める原動力となったのは、貨幣と帝国と宗教(イデオロギー)と言う3つの普遍的秩序だった。特に、「これまで考案されたものたうちで、貨幣は最も普遍的で、最も効率的な相互信頼の制度なのだ」と著者は言う。これまで、お金については悪いことが多々言われてきたが、例えばアメリカと政治、軍事、イデオロギー、宗教などの面で対立している国や個人さえ、ドルは受け入れられている例を考えれば、その普遍性は認めざるを得ない。「貨幣は人類の寛容性の極みでもある」わけだ。
やがてサピエンスは、人類の運命だけではなく、おそらく地上のあらゆる生命の運命をも変えることになる革命起こした。約500年前に始まった「科学革命」だ。サピエンスが空前の力を獲得し始めるきっかけが、自らの無知を認めることだったと言うのだから面白い。それまでは、知るべきことは全て神や賢者によって知られていると言う考え方が主流で、ほとんどの文化は進歩と言うものを信じていなかった。一方、科学は自らの無知を前提に、貪欲に知識を求めて行った。
知識の追求には費用がかかる。したがって、科学がどの道を進むかは、イデオロギーと政治と経済の力に影響される。そのうちでも、特に注意を向けるべきなのか、帝国主義と資本主義で、科学と帝国と資本の間のフィードバック・ループが、過去500年にわたって歴史を動かす最大のエンジンだった、と著者は主張する。進歩は、科学と政治と経済の相互支援に依存しており、政治と経済の機関が資源を提供し、そのお返しとして、科学研究は新しい力を提供する。政治と経済の機関はその力を使って、新しい資源を獲得し、その一部が、またしても科学研究に投資される、と言うループだ。アジアが遅れをとったのは、テクノロジーが欠けていたからではなく、西洋のような「探検と征服」の精神構造と、それを支える価値観や神話、司法の組��、社会政治体制を持たなかったためだ。
進歩の概念は資本主義と相性が良かった。将来はパイ拡大する(富の総量が増える)と信じることで、投資に弾みがつき、それが劇的な経済発展につながり、無尽蔵と言えるエネルギーと原材料が手に入るようになり、物質的に豊かな社会が実現した。
このように述べると、サピエンスの歴史は良い事作りだったようにみえるが、果たして、そうだろうか?地球上の生物を工夫と言う尺度で評価すると、様相は一変する。「私たちの祖先が自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない」と著者は警告する。サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動物種を絶滅に追い込んだ、生物史上最も危険な種なのだ。そして、サピエンスが直接あるいは間接的に絶滅に追い込んだ可能性がある種には、ネアンデルタール人など、私たち以外の人類史も含まれている。こうした生物や、家畜化されて不自由で短い生涯を送っている動物の幸福度の観点からは、サピエンスの歴史は参事の連続となる。
サピエンス自身にとっては、どうなのか?確かにサピエンスは、かつてないほどの数に増えているのだから、生物種としては大成功だが、個々のサピエンスの幸福が増したとは決して言えない。人口の爆発的増大を可能にした農業革命のせいで、サピエンスの暮らしの質は、資料採集時代よりも落ち、未来への不安も招いたと言うのが実情だ。大規模な協力を可能にした虚構は、人種や性別等に基づく格差や差別、搾取も生んだ。また、進歩や物質的な豊かさと幸福が相関すると言う証拠もない。国家や市場の台頭は、家族とコミュニティの衰退を招いた。「進歩」に伴って起こった地球の温暖化や広範な汚染が自らの生命環境を悪化させている可能性も高い。
もっとも、著者は時とともに全て悪くなる一方だと言ったいった極端な見方は取らない。近代に入り、小児死亡率が大幅に低下したし、大規模な飢饉もほぼ一掃された。現代は暴力に満ちた時代なのと言う言説は、歴史的事実に反する。もちろん、暴力は今もあるが、これほど安全の時代はかつてなかった。国家間の武力紛争も、これまでになく減少している。戦争は採算が合わず、平和の利益はあまりに大きく、国際関係の緊密化によって、各国の独立性が弱まっているから、そして、次第に多くの人が、特定の民族や国籍の人でなく全人類が政治的権力の正当な源泉であると信じ、人権を擁護して全人類の力を守ることが政治の指針であるべきだと考えるようになってきているからだ。たとえ虚構ではあっても、自由や平等、人権の概念が以前よりも受け入れられて差別や搾取が減っている。
いずれにしても、過去の出来事が、他の生物種や個々のサピエンスの幸せや苦しみにどのような影響与えたのかについては、これまでほとんどかえりみられなかった。著者はこれを「人類の歴史理解にとって最大の欠落」とし、「この欠落を埋める努力をを始めるべきだ」と提案する。
「サピエンス全史 下」2016/267〜271p
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