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#白馬国際クラシック
ren19790209 · 2 years
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実はトレランレース、初めての経験でした。 獲得標高がかなりあるので厳しい事は想像していました。(ミドルのトライアスロンくらいかなと思ってました。) 多めに補給を持って、いざ参ります! @salomon_japan #trail #trailrunning #trailrun #trailrunner #トレイル #トレイルランニング #トレラン #run #running #ランニング #白馬 #白馬岩岳マウンテンリゾート #八方尾根 #スキー場 #salomon #サロモン #トレランシューズ #白馬国際クラシック #model #モデル #エステサロンオーナー (長野県白馬村白八方尾根スキー場) https://www.instagram.com/p/CiMPystBixT/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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siteymnk · 4 months
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2023年の文化活動(一覧)
昨年もたくさん行脚しました。特筆すべきはコロナ禍からの本格的な脱却、夏休みの北海道旅行、勤続30年目のリフレッシュ休暇で西日本周遊、だろうか。行きつけの美術館は展示替えの都度、再訪するルーチンが確立。思ってたよりコンサートにもたくさん行ってた(クラシック系が多い)。地方の美術館(県立レベルの)を攻略する楽しさを知ってしまったので、今年も隙を見て行ってみたい。
星野道夫 悠久の時を旅する@東京都写真美術館
プリピクテジャパンアワード@東京都写真美術館
野口里佳 不思議な力@東京都写真美術館
パリ・オペラ座─響き合う芸術の殿堂@アーティゾン美術館
ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台@東京都現代美術館
MOTコレクション コレクションを巻き戻す 2nd@東京都現代美術館
DOMANI・明日展 2022-23@国立新美術館
クリストとジャンヌ?クロード 包まれた凱旋門@21_21 DESIGN SIGHT
ハンドメイドジャパンフェス冬2023@東京ビッグサイト
室内楽・シリーズNo.22 デュオの世界 <チェロとピアノのための>@東京文化会館
驚異の声、驚異の言葉─未体験の音空間へようこそ!@横浜みなとみらいホール
Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎@東京オペラシティーアートギャラリー
3331によって、アートは『    』に変化した@3331 Arts Chiyoda
恵比寿映像祭2023@東京都写真美術館へ
同潤会アパート渋谷@白根記念渋谷郷土博物館・文学館
引き寄せられた気配@トーキョーアーツアンドスペース 本郷
東京都水道歴史館
開館60周年特別展「横山大観と川端龍子」@龍子記念館
0~8848M・地上の紋――中国空撮写真展@日中友好会館美術館
毎年恒例の岡本太郎現代芸術展@岡本太郎美術館
六本木クロッシング2022展:往来オーライ!@森美術館
わたしたちは生きている!セタビの森の動物たち@世田谷美術館
それぞれのふたり 萩原朔美と榎本了壱@世田谷美術館
平原まこと 50周年 メモリアルコンサート@東京国際フォーラムCホール
吉松隆オーケストラ傑作選 吉松隆の<英雄>@東京芸術
動物会議 緊急大集合!@ギンザ・グラフィック・ギャラリー
VOCA展2023@上野の森美術館へ
藤子不二雄のまんが道展@豊島区立トキワ荘マンガミュージアム
昭和レトロ館
ヴォクスマーナ 第49回定期演奏会@豊洲シビックセンターホール
第52回邦楽演奏会@国立劇場
ダムタイプ|2022: remap@アーティゾン美術館
アートを楽しむ 見る、感じる、学ぶ@アーティゾン美術館
画家の手紙@アーティゾン美術館
重要文化財の秘密@東京国立近代美術館
明治美術狂想曲@静嘉堂@丸の内
今井俊介 スカートと風景@東京オペラシティアートギャラリー
収蔵品展076 寺田コレクションハイライト(前期)@東京オペラシティアートギャラリー
ブルターニュの光と風@SOMPO美術館
情景の地 ブルターニュ モネ、ゴーガン、黒田清輝が見た異郷@国立西洋美術館
エドワード・ゴーリーを巡る旅@松濤美術館 応挙と蘆雪@東京黎明アートルーム
「ラ・フォルジュルネ2023」 公演番号:313止まらない!若き活力の横溢と抒情 公演番号:324大作曲家に楽器の制約ナシ!SAXカルテットによる名曲の解答
島じまん2023@竹芝桟橋
デザインフェスタ vol.57@東京ビッグサイト
東京みなと祭@東京国際クルーズターミナル
ルーヴル美術館展@国立新美術館
清澄庭園
大阪の日本画@東京ステーションギャラリー
第63回 海王祭@東京海洋大学 越中島キャンパス
マティス展@東京都美術館
都美セレクション グループ展 2023
夢と自然の探求者たち―19世紀幻想版画、シュルレアリスム、現代日本の作���まで@群馬県立館林美術館
原始神母 THE DARK SIDE OF THE MOON 50th ANNIVERSARY@日比谷公園大音楽堂
本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語@東京都写真美術館
TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見@東京都写真美術館
田沼武能 人間讃歌@東京都写真美術館
発掘・植竹邦良 ニッポンの戦後を映す夢想空間@府中市美術館
プレイプレイアート展@ワタリウム美術館
下町七夕まつり@かっぱ橋本通り
モネ・ルノワール 印象派の光@松岡美術館
フィンランド・グラスアート 輝きと彩りのモダンデザイン@東京都庭園美術館
川崎水族館
F.A.T.2023 Summer Concert FireBird & AzBand & TAKEBAN@月島社会教育会館ホール
山下清展 百年目の大回想@SOMPO美術館
ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ@アーティゾン美術館
野又 穫 Continuum 想像の語彙@東京オペラシティー アートギャラリー
没後10年 映画監督 大島渚@国立映画アーカイブ
熊谷守一美術館
三井高利と越後屋@三井記念美術館
北海道旅行 ファーム富田 旭山動物園
恋し、こがれたインドの染織@大倉集古館
ブラチスラバ世界絵本原画展@うらわ美術館
特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティワカン@東京国立博物館
誰かのシステムがめぐる時@TOKAS本郷
東京大学総合研究博物館
第21回東京音楽コンクール(ピアノ部門)の本選@東京文化会館
テート美術館展@国立新美術館
ガウディとサクラダファミリア展@国立近代美術館
ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会@森美術館
コレクション展2023-3@青森県立美術館
大巻伸嗣 地平線のゆくえ@弘前れんが倉庫美術館
弘前昇天教会
旧五十九銀行本店本館(青森銀行記念館)
旧東奥義塾外人教師館
旧弘前市立図書館
山車展示館
弘前城
津軽藩ねぷた村
カトリック弘前教会
荒木珠奈 展@東京都美術館
ARTBAY TOKYO アートフェスティバル2023 CIRCULATION -ひともまちもせかいもめぐる‐@臨海副都心エリア
生誕140年 モーリス・ユトリロ展@横浜高島屋ギャラリー
全日本模型ホビーショー@東京ビッグサイト
デヴィッド・ホックニー展@東京都現代美術館
「あ、共感とかじゃなくて。」@東京都現代美術館
ステファン・サグマイスター ナウ・イズ・ベター@ギンザグラフィックギャラリー
福田美蘭 「美術ってなに?」展@名古屋美術館
生誕120年 安井仲治YASUI NAKAJI: PHOTOGRAPHS@愛知県美術館
フランク・ロイド・ライト  世界を結ぶ建築@豊田市美術館
漆の彩り・黒と金の幻想 - 高橋節郎@豊田市美術館(髙橋節郎館)
コレクション展 歿後20年 若林奮@豊田市美術館
2023年度 第2期 コレクション展@豊田市美術館
山田寅次郎展@ワタリウム美術館
Japan Mobility Show 2023@東京国際展示場
黒田記念館(特別室開室)
横尾忠則 寒山百得展@東京国立博物館
東京国立博物館の寒山拾得図
デザインフェスタ vol.58@東京ビッグサイト
永遠のローマ展@東京都美術館
上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす ―菌類、植物、動物、人間@東京都美術館
動物園にて ―東京都コレクションを中心に@東京都美術館
第64回 日本版画会展@東京都美術館
「今こそ、ルーシー!」 ~LUCY IS HERE~@スヌーピーミュージアム
大原美術館
そして船は行く@高知県立美術館へ。
大塚国際美術館
コレクションハイライト@福岡市美術館
芥川龍之介と美の世界 二人の先達─夏目漱石、菅虎雄@久留米市美術館
遠距離現在 Universal / Remote@熊本市現代美術館
第3期コレクション展:宮崎県立美術館
MOTアニュアル2023 シナジー、創造と生成のあいだ@東京都現代美術館
MOTコレクション歩く、赴く、移動する 1923→2020 特集展示 横尾忠則―水のように 生誕100年 サム・フランシス
大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ@国立新美術館
第4回カルチャー芸術展@国立新美術館
第12回 躍動する現代作家展@国立新美術館
21世紀アートボーダレス展(2023)@国立新美術館
JAGDA国際学生ポスターアワード2023@国立新美術館
第63回全国矯正展@東京国際フォーラム
ゴッホと静物画―伝統と革新へ@SOMPO美術館
ピカレスク・ニュー展 Vol.8@ピカレスク
モネ 連作の情景@上野の森美術館
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travel-akikazoo · 2 years
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【TREKKING】白馬国際クラシック、ゴールデントレイルシリーズのトレイルランニングを走った夜は 車中泊して、2日間の登山撮影をしたのですが、まだ公開前なので、昨年の夏に登った西穂高岳の写真を載せます この日も台風が近づいているなんて予報だったものの晴れて最高の景色でした。植生限界まで来ると一気に寒くなりましたね 山の上は秋です 大腿四頭筋が筋肉痛のまま、今も💦 #登山 #山 #mountain #finetrack #thule #asolo #トレッキング #アウトドア https://www.instagram.com/p/CiPsp4jBH5C/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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rakiax · 2 years
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白馬国際クラシック応援で岩岳山頂からリフトでの景色。めちゃ気持ちいい! (白馬岩岳 Hakuba Iwatake) https://www.instagram.com/p/CiEMT1ZBcPK/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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telling4u · 5 years
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期間限定のインターネットラジオ放送がスタート! ヴェロニク・ニシャニアンが語る、「ラジオエルメス」のメッセージとは。
写真:高木康行 文:飴李花 2019.09.06
9月1日から29日まで、約1カ月間限定で放送しているインターネットラジオ「ラジオエルメス」は、エルメスのメンズの豊穣な世界観をラジオというメディアを通して表現する、画期的なイベント。その収録風景やアーティストによるライブ演奏まで体験できるという東京・原宿のポップアップ・ラジオステーションに、来日中のヴェロニク・ニシャニアンを訪ね、話を聞きました。
エルメスのメンズ部門のアーティスティック・ディレクター、ヴェロニク・ニシャニアン。ところどころに新作バッグがディスプレイされた、ヴィンテージ・ラジカセが築かれた壁面の前で。
いま再び脚光を浴びているマスメディアであるラジオ。エルメスのメンズコレクションに30年以上携わっているヴェロニク・ニシャニアンは、自身もラジオの愛好家だといいます。まずは大人もワクワクするこのイベントの仕掛けを、隅から隅まで堪能。そして約2年ぶりに来日したニシャニアン氏に、「ラジオエルメス」の魅力や、エルメスのメンズコレクションで表現し続けてきた世界観について、大いに語ってもらいました。
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期間限定でスタートした、「ラジオエルメス」が発信するもの。
インターネットラジオというメディアの特性を意識し、外壁を飾るのはモダンでスタイリッシュなネオンサイン。もちろんエルメスらしいオレンジがキーカラーとなっています。
インターネットラジオ「ラジオエルメス」のポップアップ・スタジオが東京・原宿の「CASE W」に出現。エルメスにとっては意外なロケーションですが、幅広いライフスタイルや年齢層にメッセージを届けたいという、エルメスの熱い思いがうかがえます。会場がコンクリートや金属、ネオンサインなど、都会的かつ近未来的な要素で構成されている点にも注目。伝統と革新をバランスよく織り交ぜ前進し続ける、メゾンの世界観を見事に表現しています。
本格的な機材を揃えるレコーディングブースでは、期間中毎日実施される公開生放送を見物することも可能。壁の吸音材には、さりげなく「H」ロゴがあしらわれている。
スタジオ内には、実際に生放送を行うための本格的な設備や機材が備わっていて、生放送風景を見物することも可能。あっと驚くゲストに偶然出会えるなんてサプライズもあるかもしれません。スタジオ公開は11時~20時のみですが、ラジオではエルメスの世界観やクリエイション、文化的な背景の一端に触れることのできる、多彩で魅力的なプログラムを24時間聴くことができます。
会場全体の内装デザインは、気鋭の若手デザイナーYOSHIROTTENが監修。クラシッ��な機材とフューチャリスティックなデザイン、メタリックな素材感が見事に調和。
「ラジオエルメス」のロゴはもちろん、さまざまな内装設備や空間の監修・デザインを担当しているのは、国内外から熱い注目を集めるYOSHIROTTEN(ヨシロットン)。グラフィックアーティストやアートディレクターなど多彩な顔をもち、あのスティーヴィー・ワンダーやボーイズ・ノイズなどのミュージシャン、エースホテル、ナイキ、ユニクロといったグローバル企業と協業する気鋭のクリエイターです。
レコーディングブースに併設されたエンジニアリングルームでは、機械計のようなモニターに今シーズンのネクタイに使われているテキスタイルをモチーフとしたアニメーションが流れる。
会場内ではエルメスのメンズの世界観を構成するさまざまな要素が、YOSHIROTTENのフィルターを通した近未来的な表現として「夢のラジオステーション」を形づくります。たとえばエンジニアリングルームに設けられたモニターは、エルメスのメンズコレクションを象徴するアイテムであるネクタイのテキスタイルをアニメーションとして視覚化。またヴィンテージのラジカセを無造作に積み上げたレトロフューチャーなウォールには、最新のレザーバッグのコレクションが額装されたかのようにディスプレイされています。
ラジオ局のバックヤードのようなオリジナルのレコード棚には、ヘッドフォンが設置されランウェイショーで使用された楽曲を聴くことができる。
棚を移動させる際に握るハンドルにも、自然な形で「H」ロゴを使用。新作のカレがエレガントな彩りを添える。
本物のスタジオのように膨大なレコードのアーカイブが収められたシェルフでは、今シーズンのファッションショーで使用されたさまざまなBGMを聴くことができます。しかもヘッドフォン脇のパネルにレコードジャケットを置くだけで再生が開始されるという、先進的なテクノロジーを採用。レコードジャケットには、ネクタイ同様にエルメスのメンズコレクションにとって大切なカレの新柄がプリントされており、この色とりどりのグラフィックを眺めているだけでも十分に楽しめます。
世界的音楽家・坂本龍一と三味線奏者の本條秀慈郎による共演、RADWIMPSの野田洋次郎、フランス発オルタナティブ・ロックバンドのキャンプ・クロードなど、錚々たるアーティストが国内各所で行ったパフォーマンスを映像で楽しめる。
2階には「ラジオエルメス・ツアー」と題した、アーティストたちによる無観客ライブパフォーマンスのVR映像を視聴できるコーナーもあります。このように会場内は、ただ見るだけでなく、聴く、触るなどの五感を幅広く駆使する体験型の仕掛けが盛り沢山。ラジオプログラムを聴くだけでなく、このポップアップ・ラジオステーションを訪れて実際に体験することにより、エルメスのメンズの世界観への理解と共感がさらに深まることでしょう。
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ヴェロニク・ニシャニアンが語る、「ラジオ」と「エルメス」
ポップアップ・ラジオステーションの開場時間は夜8時まで。放送を聴きながら会場を見て回る、なんてことも可能だ。 Photo: Nácasa&Partneres Inc.
エルメスのメンズ部門のアーティスティック・ディレクター、ヴェロニク・ニシャニアンが私たちを迎えてくれたのは、スタジオの屋上に設けられたVIPルームともいうべき空間でした。
「私は世界中のラジオ番組に何度も出演しているけれど、エルメス独自のラジオ放送を始めるのは初めてのこと。だからとてもワクワクしています。もともとこのプロジェクトは、2年ほど前に日本社のスタッフとディナーをしている時に思いついたもの。その頃から私たちは、エルメスのメンズの世界というものを多くの方に知っていただきたいと取り組んでいました。いろいろな会話をするなかで、エルメス独自のラジオ番組を日本全国に向けて発信したら面白いんじゃないかと考えたんです」
ポップアップ・ラジオステーションは2フロア構成。階段を上がると、エルメスのロゴでお馴染みの従者がミュージシャンやDJに変身したかのような楽しいグラフィックが迎えてくれる。
ニシャニアン氏はちょうどその頃、人々がSNSやスマートフォンに支配されてしまっているかのように感じていたといいます。
「みんながスマートフォンの画面ばかり見ている。コミュニケーションの仕方が、変わってきてしまっていると感じていました。そんな時代だからこそ、目で見るのではなく、耳で聴くというパーソナリティをもったメディアであるラジオが面白いと考えたんです。エルメスや私自身が何を考え、どんなメッセージを発しているのか、ラジオを通して伝えたいと思いました」
そんな彼女の“世界”の一角をなしているのが、音楽であるという点も重要でしょう。パリのオフィスで仕事をしている時も、日常生活を送っている時も、世界中を旅している時も、音楽は常にともにあるのだとか。ランウェイでのファッションショーにおいても音楽をとても大切にしており、「服、モデル、空間、そして音楽があって初めてショーは完成する」というのが、ニシャニアン氏の信念です。
「昔から音楽がとても好きで、ラジオもよく聴いています。家には古いレコードプレーヤーがあり、CDよりなによりレコードを愛しているんです。だって音質が一番いいですからね。ジャケットも大切にしているんですよ」
馬車を離れ、前方へ駆け出していく従者を表現したネオンサイン。翼の生えたスニーカーが導く先は……?
音楽を愛し、ラジオに親しみ、ラジオを通してエルメスのメンズの世界観を発信しようと考えたニシャニアン氏。では、いまという時代にラジオを使って表現する意味やメリットは、一体どこにあるのでしょうか。
「レコードでは私と家族や友人くらいでしかシェアできない大好きな音楽も、ラジオなら大勢の人と共有することができます。ラジオの魅力のひとつは、自分の思いや好きなものを、世界に向けて発信しシェアできることだと思うんです。私が興味をもっているゲストと私、ゲスト同士の対話などもシェアしたい。それにラジオは、映像や文字では伝わりづらい、会話の機微を感じてもらうのにも適した、ライブで、ダイレクトなメディアでもあるんです。私はこのあとパリに戻らなければいけないけれど、収録したトークを流すことはできるし、スタジオではライブのDJプレイや演奏などを楽しんでもらうこともできます。これって、とても素敵なことだと思いませんか?」
VR体験コーナーでは、アーティストによる無観客ライブパフォーマンスのムービーを視聴できる。
テレビ以前の主要マスメディアであり、ときに前時代的とも思われがちなラジオを、「とても現代的」と評するニシャニアン氏。その背景には、彼女自身のクリエイションに対する姿勢と共通する、ラジオならではのある特性があります。
「エルメスのプレタポルテやオブジェをデザインする時、私が最も大切にしているのは、軽やかであること、動きがあること、そして自由であることです。これは30年以上仕事を続けてきたいまも、決して変わることがありません。テレビやスマートフォンなどは画面をずっと見ていなければならないけれど、ラジオなら聴きながら仕事をすることもできるし、クルマの運転だってできます。ラジオというメディアと接する時、人は軽やかさや動き、自由さを損なわれることがないんです。マルチプルな人生、つまりさまざまなことを同時進行できるというのは、とても素晴らしいことだと思います」
2階の壁面にはレコードを模した装飾も。タイトルには今季のメンズウエアに採用されている生地の名が刻まれ、レコードジャケットにそれぞれの素材が使用される。
「タイムレスでありながら、時代に合っている」というニシャニアン氏の理念を実践し続けている、エルメスのメンズプレタポルテ。2019-20年秋冬コレクションにおいても、軽やかで自由な男性像を描き出す。 Photo: Jean-François José
そんなラジオと数々の魅力的なプログラムを通して伝えたいと願うのは、ほかでもないニシャニアン氏の思考や価値観、すなわちエルメスのメンズの世界観です。
「エルメスならではのエスプリやオリジナリティを、どのようにファッションとして表現しているのか、どんな思いをもってデザインやものづくりを行っているのかを表現したいですね。そこには最上質の素材や膨大な時間とコストがあり、伝統的な手仕事のよさ、革新的なテクノロジーのよさがある。そういったプロセスを経て生まれる繊細で微妙な素材感なども、日本のお客様には共感していただけていると感じています。美しい製品が、時の流れとともにさらに美しく熟成されていく、そんなエルメスならではの価値観を、さまざまな音楽や声とともに伝えたい。家族や友人同士で意見交換をしていただけるような知識や体験を提供し、私自身とエルメスの世界観をより深く理解していただきたいのです」
踊る従者とラジオエルメスのロゴ。輝くネオンサインがこのイベントの楽しさや斬新さを物語るかのよう。
1988年にエルメスのメンズのプレタポルテのディレクターに就任し、既に30年以上。その旺盛な好奇心と飽くなき探究心、エネルギッシュな情熱は、衰えるどころかさらに輝きを増しているようです。
「自由であること、そして情熱的であることがなにより大事。エルメスというメゾンではクオリティにおいてもデザインにおいても、完璧である必要があります。一流のダンサーやバレリーナのようなもので、練習では細部に至るまでこだわり抜き、地道な練習を必死の思いで繰り返す必要があるけれど、いざ本番となったら動きはとても自然で美しく、シンプルで軽やか。完成されているのに、その裏側にある苦労は感じさせませんよね。最終的に、目に見えるものが軽やかで美しい。そのためにできることは、すべてやるということです。私はこの仕事が大好きなんです。人生をかけて取り組む価値のある仕事で、大切なのは、どんな結果を成していくか。毎日ワクワクするような仕事に取り組める、こんな素敵なことはありませんね」
「ラジオエルメス」の会期は9月29日まで。特設サイトで番組を楽しみつつ、機会があればぜひポップアップ・ラジオステーションに足を運んでみてください。
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kentarouchikoshi · 3 years
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 僕は美術もクラシック音楽も大好きですが,先に好きになったのは音楽のほうです。美術に関心を持つようになったのが30代も後半になってからなのに対し,クラシック音楽は中学生の頃から愛聴しております。そういうわけで音楽のほうに長く親しんでいる僕は,美術に長く親しんでいる方たちとは少し考えの異なるところがあると感じることもあります。今回取り上げる「贋作」という問題も,或いはその一例かもしれません。  無論,贋作を本物と称して販売することは詐欺であり,そんな行為が許されないのは当然のことです。またそれはアーティストが長年の創意工夫や努力によって築いた名声や技法に何らの敬意も払わずにタダ乗りする行為であり,人として許されることではありません。何より「この作品��実は贋作かもしれない」と人々が��惑を抱く状態では,真作の販売にも支障を生じてアーディストや画商としては大迷惑でしょう。そのあまりにも当然な大前提については僕にも全く異存は無いことを明言した上で,以下の議論に移らせて頂きます。  美術の世界において,一旦贋作と判明すればその作品が芸術として評価されることは無くなってしまうようです。東京の国立西洋美術館はかつてフランスの画商フェルナン・ルグロに騙されてエルミア・デ・ホーリーの描いた贋作(アンドレ・ドランの「ロンドンの橋」とラウル・デュフィの「アンジュ湾」のそれぞれ偽物)を購入するという苦い経験をしたことがあります。これは天王寺大氏原作・渡辺みちお氏作画の劇画「白竜」の『虚実の森』というストーリーの元にもなった有名な事件なので,ご存じの方も多いと思います。フィクションである『虚実の森』の中では,美術館は贋作という事実を握り潰して展示を続けるという凄まじい対応を行いますが,実際には国立西洋美術館は上記の贋作を現在は非公開にしています。一方でこの記事に紹介されているオランダのボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館はハン・ファン・メーヘレンが1937年に描いたフェルメールの贋作「エマオの食事」をその翌年に54万ギルダー(単純計算では23万5千ユーロ相当。物価変動を勘案すると464万ユーロに相当します。2020年11月18日の相場で計算すると前者でも2894万6145円66銭。後者だと5億7153万2407円86銭になります)という高額で購入してしまい,今もその作品の展示を継続していますが,これは稀有な例外というべきでしょう。そして同美術館も「後世への戒め」として展示しているのであって「美術的価値が高いから」展示しているわけではありません。  これらは一見当然の話のようですが,僕のような素人は素朴な疑問を感じます。「それらの贋作は,芸術的に劣ったものなのか?」と。フェルメールはそもそも「エマオの食事」という作品を制作しておらず,本物自体が存在しません。存在しない以上は本物との優劣という問題も発生しようが無く「フェルメール風の作品」として鑑賞し楽しんでも良さそうなものなのにそれは駄目なのか,と。或いはドランの「ロンドンの橋」やデュフィの「アンジュ湾」には本物が別にありますが,贋作が本物よりも芸術的に劣っていると確実に断定出来るのか,と。 勿論,この疑問に対しては筋の通った反論が可能です。「そもそも芸術家であるならば己の技量で名声を勝ち得るべきだ。他人の名声に乗じて作品を発表するなどという邪道で世に出た作品,或いは世間で評価の高い作品に擬態した偽物の芸術性を認めあまつさえ美術館で展示などすれば,それは卑怯な振舞を公認し賞賛するも同然。そういうことは芸術以前の問題として,人間として許されないことだ」と。そのとおりです。しかしその反論に敢えて再反論することも可能でしょう。「美術品の評価はその作品の美術的価値に対して行うべきものだ。作者の名前によって作品がいきなり価値を下げたり甚だしくは無価値になったりすること自体が間違いである。贋作などというものが横行するそもそもの原因は,そういう間違いが世の中に横行しているからではないのか」と。贋作を作ったり売ったりという不当な行為を行った本人がこれを言えば「絵に描いたような」盗人猛々しい態度でしょうが,世の中には「盗人にも三分の理」という言葉も存在します。仮にファン・メーヘレンが「エマオの食事」を自身の名義で発表したら,果たして「歴史的価値こそ無いが,フェルメールにも劣らない高い芸術性を持つ」と評価され,5億円とは言わないまでも数億の価格で購入されたでしょうか?  ここで目を音楽に転じてみたいと思います。  「アルビノ―二のアダージョ」はその美しいメロディで大変有名な楽曲であり,恐らく皆様もよくご存じだと思います。「アルビノーニ」というのはバロック時代のヴェネツィア共和国の作曲家トマゾ・アルビノーニのことですが,実はこの曲は20世紀のイタリアの音楽学者・評論家であるレモ・ジャゾットの作曲であることが判明しています。ジャゾットは自身の作品を「アルビノーニの作品を新発見」と偽って発表したのでした。またオーストリア出身でアメリカに移住した大ヴァイオリニストであるフリッツ・クライスラーは作曲家でもあり「愛の喜び」といった楽曲が今日でも人気ですが,その「愛の喜び」も「ヨーゼフ・ランナーの作品を発見」と偽りの作曲者名と来歴とで発表されたものです。他にもクライスラーは自作のヴァイオリン協奏曲を「ヴィヴァルティ作曲」と偽って発表したことを後年自ら明らかにしていますね。そして極めつけはヴィオラ協奏曲の事例でしょう。ヴァイオリンと異なってあまり独奏楽器として扱われなかったヴィオラの協奏曲は少なく,そんな中でヘンデルとヨハン=クリスチャン・バッハ(「大バッハ」ヨハン=ゼバスティアン・バッハの末息子)の作品が数少ないヴィオラ協奏曲の名曲としてしばしば演奏・鑑賞されています。しかし何と,この2曲は両方ともフランスのヴィオラ奏者アンリ・カサドシュが作曲者の名を偽って発表した贋作です。  「いやはや,音楽の世界にはファン・メーヘレンが大勢居るんだなぁ」という感嘆を禁じ得ないところですが,これらの作品が贋作だからという理由で演奏されることが無くなったかといえば,そんなことは全くありません。「アルビノ―二のアダージョ」も「愛の喜び」もクラシック音楽愛好者のみに留まらない人気を保っていますし,カサドシュによる贋作はヴィオラ奏者の貴重なレパートリーとして今日でもコンサートにおいて頻繁に演奏され愛聴され,また練習曲としても盛んに用いられ続けています。  美術でも音楽でも贋作とは「アーティストが長年の創意工夫や努力によって築いた名声や技法にタダ乗り」した行為であり「他人の名声に乗じて作品を発表するなどという邪道」であることに関しては同じであるにも拘らず,美術の世界では贋作と露見したら作品自体が評価の対象外になるのに,一方の音楽の世界ではそうはならないのは何故なのでしょうか。この違いを正当化するとすれば「贋作者の目的が違うから」ということが言えるかもしれません。絵画の贋作者はそれを真作と偽って販売することで不当に金を儲けることが出来るのに対し,楽曲の贋作者は自身の作品を別人の作と偽ることで本来なら手にすることの出来た楽曲使用料を貰えずに損をしてしまいます。つまり美術における贋作は「金目当て」だが音楽における贋作はそうではないということであり,美術と音楽とで贋作へのペナルティの重さが全く違う理由はこの点に求められるでしょう。ペナルティである以上,芸術的価値の有無は問題になりません。これは入学試験においてカンニングを行った受験生が無条件で失格になるのと同様で,その受験生がカンニング無しでも合格出来る能力を持っているか否かとは無関係な話です。  しかし,この点を逆に捉えれば「贋作だからといって芸術的価値が無いとも低いとも言えない」ということも可能でしょう。実際に上述のとおりクラシック音楽の楽曲など無数に存在する中,ジャゾットやクライスラーやカサドシュによる贋作は今日でも頻繁に演奏され鑑賞されています。その理由の一つは,それら贋作楽曲が高い芸術性を持っているからでしょう。カサドシュについてはヴィオラ協奏曲自体の少なさに助けられた面もあるかもしれませんが,それでも出所に問題の無いヴィオラ協奏曲が他に無いわけではありません。また上述の美術の事例においても,比較的早く疑惑が持ち上がったデ・ホーリーの贋作についても数年間,ファン・メーヘレンの贋作に至っては第二次世界大戦後に本人が自白するまで10年近くの長きに渉ってその信憑性を疑う者は誰一人存在しませんでした。「真贋についてはともかく,駄作だと思われていた」という可能性もゼロではありませんが,それらは議論のための議論,考える必要の無い事柄です。美術館は「優れた美術作品を収蔵し展示する」場なのですから,美術館のスタッフが「信憑性に問題は無いが,駄作だ」と考えていたらそれらの贋作をそもそも高額で購入などした筈がありません。或いは研究資料として購入したにせよ,それらを大々的に展示はしなかったでしょう。またそれらを展示して観客が「随分とつまらない作品だ」と声を上げ続ければ「もしや贋作では?」という疑念も持ち上がったに違いありません。そういう事態が発生していない以上「これらの贋作には芸術的価値があり,人々を感動させる力はあった」と考えるのが妥当です。  それほどに人を感動させる芸術的価値のある作品を作れるアーティストが,贋作造りなどという卑劣な行為に手を染めたのは何故なのでしょうか。  一つ目には「金目当て」という理由が挙げられるでしょう。ファン・メーヘレンも画商ルグロも贋作によって莫大な富を手にしていました。一方でデ・ホーリーはルグロに搾取されてあまり良い思いは出来なかったようですが,やはり生活費を得るために贋作を描いていたようです。「合法的な模写を制作して売れば良かったのに」と僕などは思いますが,それでは高く売れないのでしょう。これはある程度は当然のことで,歴史ある美術品というのは芸術的価値と同時に骨董的価値も評価されるものです。これは日本人であればすぐにピンと来る話ですね。日本においては優れた茶道具は大変な高価で取引されますが,それは芸術性の高さのみならず「茶人である誰それが最初に使った」「その後何某という大名家の家宝になった」などという来歴を加味した評価です。茶道具を評価する際の来歴確認の徹底ぶりは,約束手形の振出人や裏書人を確認する金融機関にも劣りません。僕はそれを知って「ああ,茶道具というのは美術品であると同時に骨董品でもあるんだな」と感じましたが,これは決して日本の茶道具に限ったことではない話でしょう。しかし美術品である以上は,もっとも重要なのは「観る者を感動させる芸術的価値を持つか否か」であるべきです。美術品とは何よりも芸術なのですから,骨董的価値よりも美術的価値をより重視してその価格を決定するのが道理ではないかと思います。  一方,贋作造りの動機の全てを「金目当て」で説明することは出来ません。上述のとおり,ジャゾットやクライスラーやカサドシュは著作権に基づく楽曲使用料を失うことを承知で敢えて他人の名前を騙り,贋作造りに手を染めました。何故でしょうか。二つ目の理由として「時勢に合わない古い様式による作品を制作したいから」というものがあるのではないかと僕は想像します。クラシック音楽は現代でも作曲されていますが,それらの新曲の多くは無調であったり騒々しい音を鳴らしたりで,歌いたくなるような流麗なメロディを含む曲は稀です。同様に美術の世界におけるコンテンポラリーアートも,やはり観る者をうっとりとさせるような魅力を持つ作品は少ないように思われます。無論,そうした前衛音楽やコンテンポラリーアートも良いものですが,僕などは馴染み深い形式で制作され鑑賞時に心地良さを感じさせる新作に触れたいとも願ってしまいますし,恐らくそれは僕だけの願いではないでしょう。一方のアーティストの中にも,同じように「鑑賞者に馴染み深い様式で,かつ心地良さを感じさせる作品を制作したい」という��いを持つ者もきっと存在すると僕は思います。しかし音楽大学卒業の友人に言わせると「そういう試みは時代錯誤と一蹴されてしまう」のだそうです。或いはそれもまた,贋作造りの動機なのではないでしょうか。バロック様式の新曲を制作しても時代錯誤と馬鹿にされてしまうというのでは「バロック時代の楽曲を発見した」と嘘をついて自作を発表したくなる動機も理解出来ます。それは音楽に限らず美術でも同じなのではないか。「ファン・メーヘレンが現代美術を嫌悪し,それが故に『時代錯誤の画家』として低い評価しか得られなかった」という話を聞いて,僕はそのように感じます。画家がバロック様式で自身の作品を制作したいと願ってもそんなことをすれば「時代錯誤」と相手にされず,勢い「これはフェルメールの作品である」と偽って世に問うという面もあるのではないか・・・と。  無論,だからといって贋作造りに手を染めることは正当化出来ません。しかし芸術的価値ではなく「時代様式に合っているか否か」で作品の評価が決まってしまうという気風がもし存在するのであれば,自作を世に問う際に出自を偽るアーティストの出現は防げないのではないでしょうか。これに関しては,世間のほうも考えを改める必要があると思います。芸術家にはそれぞれの好みもあれば得意もあり,全員でコンテンポラリーアートの制作を行う必要などありません。アーティストが「自分にはバロック様式が一番フィットする」というのであればバロックの様式で,「ロマン派の様式が好みだ」というのであればロマン派の様式で作品を制作しても何ら問題無いし,我々鑑賞する側もそれらについて「時代の流行に乗っているか」ではなく「芸術的価値はどうか」で評価すべきなのではないでしょうか。ルネサンス様式の絵画の傑作は,それがルネサンス時代に制作されたものであれ21世紀に制作されたものであれ,同じく傑作である筈です。因みにファン・メーヘレンの贋作ですが,これはフェルメールが制作を行わなかったとされてきた「『空白期間』の作品」と考えられたのも高く評価された理由です。金目当てに制作された贋作である以上は素直に評価するわけにはいかないにせよ,カサドシュの贋作がヴィオラ協奏曲のレパートリーの一つとして今日でも演奏され鑑賞されているように「もしフェルメールが空白期間にも制作活動を行っていたら,きっとこのような作品だったろう」という留保をつけた上であれば,バロック(風)絵画の一つとして楽しく鑑賞することも可能なのではないでしょうか。  贋作造りは決して許されることではありません。しかしそういう行為が横行するのは芸術的価値とは無関係な「古いから価値がある」という骨董的評価の過度な重視や,或いは「流行の様式で制作しないと評価されない」という風潮にも原因があるのではないかと僕は思います。  これをお読みの皆様は,どのようにお考えになられますか。
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skf14 · 4 years
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10241557
「ご飯よ、了。」
「...はい、お母様。」
地獄の時間が始まる。
僕は、食事の時間が、この世界で一番、嫌いだ。
時代がいくら進んでも、人がいくら手の中の小さな機械に支配されるようになっても、効率よく3大欲求を叶えることは叶わないらしい。僕は今日も味気のない、テーブルに並べられた大量の食物を前に、まだ口にしていないのに吐き気がこみ上げてくる。目の前にはキラキラと目を輝かせた母親と、食い入るようにテレビを見つめながら、ドロドロとした何かを口にかき込む死んだ目をした父親。吐き気がする。ああ、気持ちが悪い。この空間が、この家が、この人間たちが。全てだ。
「了、今日はお母さん、腕によりをかけてご飯作ったから。食べなさい。」
「...はい。」
耳から入る音声が全て、耳障りなノイズにしか聞こえない。すぐそばでくちゃくちゃと、父親の食物を咀嚼する汚らしい音が聞こえる。母はそれなりに食事のマナーにうるさいのに、隣の豚へ口を開けて物を噛むのをやめろ、とは言わない。
母親の目はキラキラとリビングの照明を受けて輝いている。いつか読んだ本に、「いくら正気を保っているように見せても、狂人は目を見ればすぐに分かる。狂人の目はまるで無垢な子供のように、田舎の星空のように、ただ光を受けて爛々と輝くからだ。しかし、その目には何も映らず、ただただ彼らの世界は我々とは違う狂った世界だ。」と書かれていたことを思い出した。目の前の母親はまさしく狂人じみていて、己の作った得体の知れない半固体を有り難がって啜っている。
「ねぇ、さとる。とっても美味しいわよ。お母さん、頑張ってシチュー作ったの。ほら。食べて。」
「......うん。」
スプーンを持つ手が震える。目の前の皿に盛られた、白いどろどろとした食物。僕は耳を塞ぐことも、目を伏せることも許されず、拷問でも受けているかのような気分になる。母親も父親も、テレビを眺めては時折笑いながら、楽しそうに食事���していた。やはり、狂っている。あまりこの表現を、腐っても血縁者の二人には使いたくないが、それでも僕の目に映る二人は紛れもなく狂っている、そう見えた。手が動かない僕に痺れを切らした母親が、固まったままの手を握り、僕の口先へと掬った食物を近づけさせた。ぷん、と漂った、牛の乳の生臭いニオイ。ごろごろと転がる野菜と、形の崩れた肉。
「食べなさい。了。今は家族の食事の時間なのよ。分かるでしょう。」
「......僕、食欲が、湧かないよ、」
「またあなたはそうやって我儘言うのね。食べなさい。」
「お母様、」
「食べなさい!!!!!!」
あぁ、また癇癪。母親にはヒステリーのケがある。金切り声を上げた母親は僕の口に食物をねじ込もうと腕に力を込めて、唇にそれが触れる。スプーンの先端が歯に押し付けられて痛い。仕方なく開けた口にそのドロドロが流し込まれる。ノイズがうるさくて、頭がぐわんぐわんと揺れて、脳が、脳頭蓋にぶるんぶるんとぶつかる。ああ、揺れる、人が進化の過程でやっとの思いで手に入れた叡智の結晶が、揺れて、馬鹿になる。キチガイになる。
「やめて、お母様、食べたくない、気持ち悪い、」
「食べなさい!!!どうしてなの!!??」
「...騒がしいな。」
「お父さんも何か言ってよ!!!」
「......放っておけ。好きにさせたらいい。」
「あなたがそんなだからこの子が我儘に育つんでしょ!?」
「お前の躾が悪いんだろう。仕事で疲れてるんだ、飯くらい静かに食わせてくれ。」
「あなたはいつもいつもそう!!どうしてあの子のことを、私のことを考えてくれないの!?」
また始まった。僕はとりあえず感謝の意だけでも示しておこうと手を合わせて、リビングから姿を消し、自室のベッドの中へと収まった。明日の給食はしっかり食べて、コッペパンを持ち帰ろう。ストックのパンが切れてしまったから。ああ、ひどく眠たい。目を閉じてしまおうか。僕は二人の喧嘩の声をBGMに、目をそっと閉じた。
「......嫌な夢を...」
目が覚めて第一声は、己の脳が見せた過去の記憶への悪態だった。当たり前だ。人が心の奥底に秘めた忌まわしい記憶を、ほじくり出して安らぎの時間に再生するなど、ポンコツも甚だしい。
が、まぁ、仕方がない。脳についての解明は何も進んでいないし、何をしでかすかコントロールするのは不可能だ。
朝のルーティンを規定通りにこなしつつ資料の確認をしながら、あぁ、きっと今日だからあんな夢を見せたんだろう、と思い、考えていたシナリオの一部を脳内で改変する。無機質なリビングには穏やかなクラシックのみが流れている。こんな環境で育てば、僕はもう少し、屈折した子供時代を過ごさずに済んだだろう。など過去に想いを馳せても、変わりはしない。無駄なことはやめよう、と、冷めたコーヒーを飲み干した。
「皆様。こんにちは。...はは、驚かれた方もいらっしゃいますよね。すみません。こんなご時世ですから、主催者の方に、講演の代わりに匿名と、顔出しNGという条件を飲んでいただきました。と言っても、名乗らないのは少々来ていただいた方に対して不躾で、なお不便でもありますので、簡単に自己紹介をさせて頂きます。私の名前はサトルと申します。東京の某所で医者をしております。専門は、主に精神・神経についてです。この風貌、ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、所謂『ペストマスク』と呼ばれるものを着用しております。何も、昨今のコロナ禍を揶揄する意図はありません。ではここで少し、ペストについてお話しさせていただきます。ペストは14世紀ごろに大流行した伝染病の一つで、当時の地球の人口のおよそ22%にあたる約1億人が死亡した、驚異の感染症です。知識や治療法もまだ確立されていない中、対応する医師が不足した状況で、このように予防、といっても効果は限りなくゼロに近いですが、彼ら医師はペストマスクを身につけ、ペスト医師、として分け隔てなく治療にあたりました。いわば、ヒーローのようなものです。しかし、民衆の間には根も葉もない噂が広まりました。ペスト医師こそがペストを広めている、だとか。それらは全て民衆の知識不足と、知能の低さがもたらした不幸でした。私はそんな状況に屈さず人を救い続けた彼らに敬意を評して、本日このペストマスクを着用いたしました。私の性格上、少し耳障りな言葉やはっきりとした物言いが飛び出すこともあるやもしれませんが、どうか皆様、お手柔らかにお願いいたします。」
「さて、本日の講演テーマに関係して、一つ、お話をさせていただきます。実は、今日の朝夢に見たので、急遽お話ししようとさっき案を考えたのです。したがって、少し雑談めいた内容になってしまいましたが、ご了承を。私の両親は、とても真面目な人間でした。兄弟もおらず、私は両親の愛情を一心に受け、育ちました。過不足なく、衣食住、そして教育を与えられました。そんな私の母は、1点だけ、どうしても許し難い行為を私にし続けました。皆さんは、食事の際、どのような食卓で召し上がっておられますか?子供と向き合い、さまざまな日常会話を交わしながら、暖かく交流しておられますか。...えぇ、そのようですね。皆さん頷いておられる。心底、羨ましいです。」
脳裏にいた、過去の、子供だった頃の己が目を覚ます。暗闇の中でピンスポットライトを浴びた彼が、体育座りのまま閉じていた目を開き、僕に向かって語りかける。
『僕、ずっと間違ってなかったよね。』
『あぁ。間違ってない。いつだって、君は正しかった。主義主張を曲げることなく、心の奥底に持ち続けたことを、僕は心から誇りに思うよ。』
『...ありがとう。僕。』
「私は、毎度夕食の際、あるビデオを見せられ続けました。母親も、母親に従順で家庭から目を背け、家族を養うために働く機械と化した父親も、そのビデオを狂ったように見続けていました。思考を放棄していたのか、心底素晴らしいと思っていたのか、それはもう、確かめようがありません。彼らは、私に、"障害者が様々なチャレンジをする"、"障害者を介護で支える人々の特集"、"重度の障害を抱えて生まれた子供が精一杯の人生を生き抜いたドキュメンタリー"、等々...タイトルを口にしただけで私の脳裏には、鮮明な映像と、音声と、全てが蘇るほど、それらは私の記憶に深く深く刻まれました。...皆様がどよめく気持ちは痛いほど分かります。悍ましい、というお声。ありがとうございます。私も、そう言っていただけると、少しは傷が癒えるような気がします。すみません。そもそも私は、小学生の頃、同じクラスに知的障害のマサトくんが現れた時から、言葉にし難い不快感と嫌悪感を彼に抱いていました。子供の頃の私にはとても説明出来ない、複雑な感情でしたので、幼い私はただ単にその感情を、"気持ち悪い"と片付けておりました。それが間違っている、と両親に強く言いつけられ、両親は私を"正しく"矯正しようと画策しました。叱咤し、感情論を説き、彼らだって頑張って生きている、素晴らしい、差別は良くない、皆同じ命、分け隔てなく対応し、地球で人々が共存することの素晴らしさを私に言い含めました。...まるで響きませんよね。彼らは私が、「じゃあ、お母様とお父様は、そのように生まれることができるなら、選択しますか。」と聞くと沈黙するのです。私はそうして彼らが沈黙するたびに失望を募らせ、うちに秘めた私の保つべき矜持を守り、世間に迎合する姿勢を見せながら、今まで生きてきました。あえて言葉を選ばす講演するスタイルですので、言わせていただきますが、この世に、人間として機能しないヒトモドキの生き物を、ただ生かしておく必要性がありますか。生産性、と言う言葉には語弊がありますが、欠けて生まれ、欠けたまま生き続け、生き恥を晒す生き物を、社会全体で支える必要性がありますか。メリットは、我々にもたらされる恩恵は、ありますか。皆心の奥底に、"生まれてしまったものは仕方がない、殺すわけにもいかないから面倒を見なければ"と言う思考がある、と私は思っております。心の底からそう言った方々の助けになりたい、と思う人間が仮にいたとして、彼らが、仮に障害者のいない世界に行っても、それを思うでしょうか。他人を助けて生きることに快楽を覚える人間は一定数いますが、それは例えば怪我人や病人、不可抗力で手足や身体の機能を失った人間に対して行われるべきで、知能の足りないヒトモドキ、人のフリをして、人間を搾取することしか能の無い生き物に対して行われるべきではない。私はそう思います。彼らの労力は、補助されることで社会の、人間の役に立つ者たちに対して、使われるべきだ。」
『あの時、マサトくんを屋上から突き落としたこと、悪いことをしたって、思ってる?』
『いや。思っていない。後悔するくらいなら、そもそもやらないだろう?僕はそんなに愚かじゃない。』
『僕、あの時、手に残った温もりがただただ気持ちが悪くて、屋上のコンクリートに掌を擦り付けてたんだ。罪悪感も何も浮かばなかった。もちろん、快楽も。』
『当然だ。だってあれは、掃除だ。何も生み出さない、ただ生きているゴミを片付けた。何に罪悪感を感じる必要がある?』
『やっぱり僕は、正しいね。ずっと。あの時の苦痛と傷が痛む度、僕は僕に会いに来るから、何度だって肯定してあげる。』
『ありがとう、僕。』
「ここで私は、どこに問題があるのか、それを考えました。そして、問題の根底は社会でも、人の思想でもなく、ただ単に、仕組みがないことだと思い立ちました。私は政治屋ではないので、政策を立て、法律を立案することは出来ません。こうして、私の思想を広めて、賛同者を集めることしか出来ません。何も、私はホロコーストを再現しよう、とは思っておりません。私が必要ないと思うのは、重度の精神障害者、そして知的障害者等です。彼らはただ産み落とされただけで、生きることを強いられます。彼らの意思は、どこにありますか?生きたい、と言うのは、家族の意地と世間体を守るための、エゴと私は考えます。彼らは本心から、そのような姿で、ウン10年生き続けたいと、本当に思っているのでしょうか。要は、彼らに対して、我々人間が選択肢を与える必要がある。それは民間、医者や病院などではなく、国が、です。今進んでいる安楽死議論では、対象は余命宣告を受けた重症の特定疾患の患者、とされており、そこに、知的及び精神の障害は含まれていません。私は、それを変えるべく、動きます。我々の住む世界を、綺麗にすべく、尽力したいと考えております。」
『僕、僕。』
『何だい?』
『賞賛の拍手が聞こえるね。』
『あぁ。僕と同じ人間は割といるんだよ。皆、口に出さないだけで。ネット配信の向こうで頷いている人間だって、腐るほどいるはずだ。』
『よかった。僕が一人にならなくて。』
『僕は一人でも戦えるさ。君がいてくれるからね。』
『そうだね。僕、よく頑張ったよ。』
「さあ、みなさん。声を上げましょう。我々による、我々のための、我々人間の社会を作るため、皆に優しい世界にするため、ただ一つ選択肢を増やすだけの行為を、誰が止められましょう。さあ、さあ。この同意の拍手を、私は一生忘れません。心に刻み、これからも、邁進してまいりたいと思います。ご静聴、ありがとうございました。」
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mao-daimao · 4 years
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honryu-report · 4 years
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《あなたの知らない奔流中国の旅》
前書き:                                      
前から奔流の参加者の思いが募る文集を作りたいと思っていた。張さんは旅に生きていた。自分の思想を人に押し付けることなく、いつも自分らしく自由闊達に生きていた。その生き様は、一つの芸術作品のようでもある。私たちも張さんから受け継いだ精神というべきかその思想を何らかの形で残したいのだが、文字にしてしまうとそれはとても小さく見える。私たちの旅は書き尽くすことができない。しかし、今は奔流にとって大変な時。自分たちの青春の中でもっとも素晴らしい思い出を、生涯の誇りを守るために、ここで一丸となり、形のない、奔流という旅を語り合いたい。奔流は人の流れ、私たちの中への流れでもあるのだ。
そうして気づいたことは、自分を深く見つめ、深く知り、世界を深く見つめ、深く知り、世界と自分を深く思索することで、奔流の旅は私たちの未来にもつながる。 この旅の意義を社会に証明し、あなたの今まで見ることのできなかった世界とも出会ってほしい。
そんな世界を提示してくれた張宇氏に感謝!
奔流中国 参加者 2020年1月
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旅は芸術
私は旅をしたくありません。世界各国をめぐられた私の仲間たちには申し訳ないのですが、旅を積み重ねたところで善い人生を    送れることなどなく、また優れた人格を形成できるわけでもありません。むしろ若く貴重な時間を無駄にし、虚しく偽りの自信に捉われる危険性を持つ旅を、私たちは忌避すべきです。このことはアウグスティヌスが鋭く言い表しました。
「人びとは外に出て、山の高い頂、海の巨大な波浪、河川の広大な流れ、広漠たる海原、星辰の進行などに賛嘆し、自己自信のことはなおざりにしている」
(『ルネンサンス書簡集』近藤恒一編訳より抜粋)
 まさしくこの言葉の通りで、我々人間は自然の現象ではなく自らの精神の鍛錬、つまり日々の生活こそを大切にし、より善く過ごせるように努めるべきです。成し遂げたい目標があったり、大きな夢がある場合は、なおさら時間と金銭の浪費となる旅は避けるべきではないでしょうか。だから私は、旅をしている時間があるのなら、日々の日課に打ち込み、与えられた仕事を精一杯こなした方が遥かに自分のためになると考えています。それをせずに旅ばかりにうつつを抜かしているとすれば、それは現実逃避以外のなにものでもありません。
 ところで、今このように述べ上げたことは、これから私が話す内容とは無関係です。この話はここで忘れて頂きたい。私がどうしても話したいことはもっと別の問題なのです。
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラーという人物をご存知でしょうか。彼は二十世紀を代表する伝説的指揮者で、クラシック音楽界に与えた影響は計り知れず、死してなおその威光は輝き続けています。彼の演奏は心の奥底に響き、魂を揺さぶり、ひと度その演奏を体験すれば、人は音楽そのものの意味を再考せざるを得ないと言います。彼の著書である『音と言葉』には、その偉大なる人物の心に汪溢する音楽への愛念が滲み出ています。自著の冒頭にて、彼は「すべて偉大なものは単純である」という箴言を用います。この言葉こそ私がこれから拠って立つ原点であります。
 なぜ偉大なものは単純でなければならないのか。この言葉は芸術家のためのものです。単純とは「全てを見通して正しくその全体をつかむ」という意味で、ここでの全体とは「この世界を全様態において反映する、世界の分離した一部分」です。つまり、この世界の一部分の全てを正しく見通している作品が、偉大だということです。このように世界を作品の中に単純化することは容易ではありません。不断の努力から得られる強靭な力と、意識の変化を鋭く読み取る直観がなければそれを成し遂げることはできません。芸術家にとっては、作品は単純であるからこそ偉大たりえます。
 ・・・・・・
 ところで、私は2011年9月、奔流中国グレートキャラバンの旅に出ていました。バインブルグ草原やゴビ砂漠を、時には馬で駆け、時にはギターを弾き歌を歌いました。そこでの生活は至極単純で、本当の意味での旅がそこにありました。朝起きて、日中は馬に乗り、夜は食事を火を囲みながらとり、歌や踊りを楽しみながら目的地を目指す。その生活の中にいったいどれだけの苦痛と喜びが混在していたことか!
この旅行の引率者でありNPO法人の代表である張宇氏は、「旅とはアートである」と言います。旅が芸術だと一般的には受け入れ難いでしょうが、まさに旅とは芸術そのもので、世界のさまざまな要素を時間と空間に閉じ込めて、人びとに体験させるものです。私たちが体験した場合では、圧倒的な自然やそこで暮らす人びと、馬や遊牧民たち、歌や踊りとそれらの全てを通じて私たちの心の中に湧き上がる感情を要素として、限られた時間と場所に旅の芸術が集約されていました。音楽が時間の芸術と言われるに対し、旅は時間と空間の芸術と言えます。もっと突き詰めて言えば、旅とは人生そのものを有限的な世界に表現する芸術です。青く広大な空やその中を飛ぶ白鳥も、また雄大な草原やその中で咲くエーデルワイスも、あの旅の要素の一つでした。
ですから、この場合も芸術として旅を見るならば、それは単純であるべきではないでしょうか。古代シルクロードはまさに旅を人生とした人たちによって作られていきました。もちろん彼らは日々を生活する人間であり、決して旅を創り出す芸術家ではありません。ですが、私たちが体験した古代人が創り出したシルクロードへの旅は、なんと芸術的だったことか!そこには人間の人生そのものが、単純に集約されていました。人が生きていく上で求める最初の根源的なものと、日常生活を善く生きるために必要な知恵や力を、私たちは擬似的に体験したのでした。あの旅は張宇氏の人生そのものでもあり、私たちの人生そのものでもありました。思うに、全ての芸術において最も大切な始源はこの点にあります。
 つまり、どんな芸術も、最初はそれを創り出す人、または体験する人の人生そのものでした。それこそが偉大なる単純さの源であり、私たちに感動をもたらす泉です。そこから芸術は大いなる奔流となって人びとの生活を満たしていったのです。
 私ははじめに、旅などしたくはないと言いました。しかし今となっては、声を大きくしてこう叫ぶことができます。
旅をしよう。記憶に新しいあの旅が私たちに教えてように、日常を旅しよう。それが芸術にとって、また人間にとって大切なことなのだから。
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奔流の旅                               
奔流の魅力は旅、そのままの姿を体験できることだと思う。予定外想定外のことが起こるのが旅だ。人生だって同じ、予定表なんてない。思い通りにいかない事もあるし、思いがけない幸せもある。 馬が来なかったり、6時間飲まず食わずでぶっ通しで砂埃の中を走ったり、氷点下の中で寝たり、肉体的精神的苦痛が伴った。だからこそ普通の旅行では味わえない絆が生まれる。
この旅は素材であり、それを使っていかに自分の求めるものを創りあげるか。そこに他人からの評価はいらない。上手く出来たら誇らしげにその喜びを仲間と共有すればいい。上手く出来なかったら取り組むべき課題を見つけられたと喜べばいい。いずれにしろ昨日の自分よりは一歩前に進んでいる。 毎年の事ながらこの旅は参加者各個人の内に秘めた力を見事に開放させる。旅を終え、皆キラキラした目でやりたい事を語り、出発前より元気になって帰ってくる。 奔流の旅は、ひと夏の草原の思い出ではなく、新たなスタートである。
私は今年、以下のインスピレーションを頂いた。私はこの牧場を必ず設立させる。私の旅は始まったばかりだ。
それに向けてのまず第一歩は、日々の仕事を着実に頑張ること。夢を大切にし素直に生きる張さんからそれを学んだ。
  『奔流牧場』 【コンセプト】”創造”、"絆"、”国際交流”、”楽しい!”、”人材育成”、”挑戦” 【概要】日本の若者に情熱と感性を与え続けてきた��流。たくさんのエネルギーとインスピレーションを頂き、たくさんのことを学びました。そんなパワーステーションを日本にも作りたいといこうことで設立したのがこの牧場です。忙しい日常から離れリラックスするとともに、時代に流されない美しさ強さを再認識し、新たなスキルを習得できるような牧場です。週末に家族連れて気軽に遊びに来てください! 【設立】20XX年 【場所】湘南国際村(東京から近い、古都鎌倉から近い、海が近い、富士山が見えるetc)
【施設概要】 ・牧場:乗馬 ・農園:organicな感じで。 ・Cafe/Restaurant:牧場・農園からの食材で。 ・Lounge:暖炉を囲み、夜通し語ろうぜ! ・Lodge:基本は青空ゲル(寝袋/銀紙シート提供有)。希望者はlodgeに泊まれます。 ・Dormitory:世界からの留学生が短期/長期滞在できるように。 ・Studio: Language:各国の留学生から直接指導。 Fitness:乗馬/ジム/武道/ダンス/ヨガ/水泳/ゴルフ/テニス/サーフィンetc Art:写真/映画/絵画/音楽etc Japanese culture ”道”:茶道/書道/華道etc 世界に誇る日本の”道”。 Business:第1線で活躍しているbusiness person(君達のことです。)によるセミナー講座。 料理教室:各国の食文化の継承と創造。 ・温泉/プール ・大富豪ルーム ・Gallery: 奔流中国の歴史と変遷。 遊牧民の文化や生活を写真/映画/音楽で保存。  ・茶室:日本芸術の粋。 ・図書館:世界の絵本・各種専門書・自習室。 ・診療所:健康講座・人間ドッグetc ・国際協力:海外留学・留学生の受容。そこから生まれる新たな発想とそれらが生かせるような仕事の創造。 ”医療チーム派遣”:世界の無医村へ医療提供キャラバン。 【リンク】奔流中国主催者張宇氏による”パインブルグ乗馬基地”:シルクロードの中央に位置し、世界の若者や芸術家たちが集い、旅の心を知り馬のスピリッツを共有できる奔流の本山。東方騎馬文化の保全とともに騎馬文化から生まれたファッションブランド基地でもある。
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「人馬一体」に生きる
「切り撮る」×「切り開く」=「突き抜けMAX」…!?
旅の3A,それは人生の3Aでもある―Adventure・Amazing・Art。
冒険心をもって自分自身を世界に投じるところに美しき発見があり,驚嘆がある。それは写真活動にも似て,限りない可能性から,かけがえのない意味とエネルギーに満ちた絵(私自身)をフレーミング(創造)してゆく営み(Art)でもあろう。……(略)……大学を卒業してちょうど10年,社会実践(職場)と研究活動(大学院)に股をかける両立生活は今,自分の中で間違いなく大きな節目を迎えている。「苦悩と渇望」にあって,そこにどんな風景を,どのように切り撮って焼きつけることができるだろうか?(参加動機書より)
キャラバン前に綴った私の思いである。なんとも浮き足立った感が否めない。けれども,少なくとも何かはこの旅に求めていた。頭でアレコレ空想してもダメだ,とにかく自分の足と体を動かそう,そうしたら頭と心も働くはず…そんな思いでついに奔流へ飛び込んだ。
キャラバン中,そしてキャラバン後,心の中にずっと離れず残り続けた,あるおぼろげな風景があった。この文章(旅の証)をまとめるプロセスは,その風景にピントを合わせ,できる限り見通しよく視覚化し,時を得てシャッターを切る(言葉化する)機会となった。あえて最初に屁理屈な結論を先取りすれば,私はこの旅を通じて,ある究極的な華々しい「何か」を得たというよりは,その何かに到達するための,「術」とか「コツ」というものを身につけたように思う。そのために切り撮られた風景は,全くもって想定外だったが…。
さて,中国の表玄関・上海を皮切りに,我々キャラバン隊の進路はひたすら西へ,西へと向かった。奥行きの深い壮大な自然と,そこに堆積する時の厚みにひたすら圧倒された。その我々を運ぶ列車やバスも,強い風雨や泥にまみれ,険しい地形とうまく格闘しながら,黙々と邁進し続けた。その時々の思いは,まるで流れゆく雲のように,旅仲間の思いとくっつき,変化しつつ膨らみ,ゆっくりと漂い,やがて心地よく彼方へと消え去ってゆく…そんな繰り返しだった。そしてついに,この旅の珠玉の乗り物である「馬」にありついた。
乗馬初日から,しかも初めて乗る馬で,いきなり草原を颯爽と駆け回ったあの感慨は,奇跡だと思った。そして小高い丘から見渡す蛇行川,またそこに強く差し込む夕刻の斜陽の照り返しは,ただただ雄大で,豊かで,固唾を呑むしかなかった。そんな心地に導いてくれたその馬に,私は躊躇なしに感謝と愛着を抱いた。
事態が急変し始めたのは,舞台が砂漠に移ってからのことだった。事情あって私の乗る馬は日替わりとなり,馴れない悪戦苦闘の繰り返しが余儀なくされるということもあったが,さてここからは,砂漠上の事故と二次被害を防ぐ策としてとった「基本,並足一列」のキャラバン隊の風景に,話の焦点を絞っていきたい。
容赦なく照りつける直射日光。そこは気候と地形の条件が実に厳しかった。何の潤いも楽しみもない。ただひたすら,相も変わらず馬に乗って進むだけ。次第に疲労感と徒労感に包まれる。皆,口数も少なくなる。引き戻せない辛さ。せっかく馬に乗りに来たのに…。喉カラカラ。命カラガラ。荒涼殺伐~まさにそこは「無味乾燥」地帯!
そして次のような自問自答が,自分の頭を支配し始めた。
「360度見渡す限り,一体どこに方向を定めればここを切り抜けることができるのか?」
「そもそも自分は一体,何のために今ここにいるのか?」
しかし,しばらくしてふと,同じ頭の中でこんなシミュレーションもしてみた。
「この“空虚”な状況下で,ただ一人取り残されたら絶望的だ。だが,もしもここから切り抜けられる可能性があるとしたら,それは一体どのような仕方においてか?」
この問いにおいて,自分にとって絶対不可欠と実感するものが,大きく三つあった。
①キャラバン隊であるということ:【心のシャッター】
実は自分だけが苦しいのではない。皆たいてい辛かったはずだ。にもかかわらず,否,だからこそ,そこには労り合いや励まし合い,分かち合い(特に水!)が自然発生した。
やがて互いの心に動きが起こり,潤いが生じる。他人同士だった者が仲間となってゆく。そこに,先を目指すための燃料と何某かの風景が,胸の内に「切り撮られ」ていった。
②馬の存在~馬とのリズム:【人馬一体】
とはいえ,仲間の力だけで切り抜けられるほど甘くはない。何らかの術が必要である。そこであらためて,「馬」である。今ここに,途方に暮れる私と共にいる馬。その意味で,馬ははじめ私を目的地へと運んでくれる「道具」であった。しかし,自動ではない。故に手綱をしっかりと握り締め,馬を技術的に支配し,甘えさせることなく走らせるのだ。
ところが言うまでもなく,一方的な支配関係ではダメだ。馬にも体力や性格,そして心がある。こちらが縦になおも鞭打てば,そのうち馬にも限界が来る。反抗的にもなろう。だがそうかといって,そこで安易に無為に甘やかせすぎてもいけない。馬も人を見ている。いつの間にか,今度は自分が馬に支配されてしまう落とし穴と,隣り合わせなのだ。
この,支配か-被支配かの次元を超えて,馬をうまく乗りこなすというのは実に難しい。そしてキャラバン内でのこの見えざる孤独な葛藤…それは馬の数だけあったことだろう。しかしそれだけに,馬に乗るという動作には,異次元の奥深さがあるということでもある。
ところで今,「馬に乗るという動作」と言ったが,これは果たして,「人が,技術的に(うまく),馬に乗る」というだけの意味だろうか。ここで少し見方を変えれば,それは「馬が人を乗せる」,あるいはこれを,なお自らを主体として表現し直すなら,少なくとも,「馬に乗せてもらっている」という謙虚さが伴うはずの次元とも重なり合いはしないか。
馬との関わりの困難さ=奥深さが突きつけられた今,もはや私の側のvisionに沿った思惑だけで推し進めることはできない。それを相対視し,それを実現してくれるはずの馬の側の心情や呼吸に沿うこと,ひいては,馬の魂の域にまで触れ合うような私自身の息遣い,心遣いが求められるのではないか。馬は人を見ているのである。いみじくもここのところ、張氏は「なるべく馬は乗り換えず,一つの馬に乗り続けるように」と何度も強調し続けた。そしてそのことに忠実に成功した何人かの参加者の感慨は,実に豊かで,何かを見通せるほど透き通っていた。馬と格闘し,「変化」と「一体」をものにしたかれらの言葉は,心からの喜びそのものだった。馬との不可抗力的な相性の良し悪しを超え,時宜に叶ったタイミングや仕方で馬と呼吸を合わせ,「手綱」の意味を豊かにし,新たなリズムを生み出してゆくこと。この馬との共鳴,あるいはもはや,主体と客体が未分化した境地でまさに文字通り「馬が合う」こと。果たしてこれが,古より受け継がれてきた「人馬一体」の神髄に,幾ばくかでも迫るものとなるだろうか…。
③鐙(あぶみ):【足場の確保】
「人馬一体」への補足として、本能的に常に不可欠としていたものに,「足場感覚」がある。初めての乗馬。スピード感覚よりもバランス感覚に慣れない。死の恐怖がよぎる。そんな時,再び張氏の言葉で印象的だったのは,足場を担保する「鐙」への足のかけ方に関する助言だ。「足は鐙に深く入れない。いざという時,足が外れにくくかえって危険だから。けれども,  
単に足を飾りのように「置く」とか「乗せる」というのでもない。踏ん張るのだ」。
この絶妙な言い回し。力みすぎず,油断もしすぎず。心身の安定を支える「足場」は,実際私にとっては何よりの拠り所だった。しかしそこには,‘絶妙なほど加減’なるものがあるようだ。おそらくそれは,馬と私との間の,身体的・精神的な関わりや呼吸において初めて独自に見出され得る,これ以上ない相応しい着地点としての足場感覚,ではないか。
短い時間で実際に得たものは僅かだが,感じるものはとてつもなく重厚で,大きかった。キャラバン半ば,私がほんの一瞬だけ,馬と共に颯爽と駆け巡っていると体感できたある場面を今思い起こすと,私はあの時,馬に「乗る」というよりは,馬に身を預けつつ「立つ」ていた。あるいはより比喩的に表現するなら,私はあの時,大地の上を,何かに導かれながらも,「親指感覚」程度に,自らの足で一歩ずつ踏み出していたようだ。
以上の三つを,砂漠上で,馬上で,考えていた。そして次第に,このシミュレーションとその前提は,自分のこれまで/これからの生き方とも重なってくる事柄のように思えてきた。「この砂漠上で抱く空虚感は,現実の己が既に抱いてきた心の風景ではないか?」
仕事と研究の両輪を回転させてきた自分。だがその二輪車は,いつしか,ある地点から先へと進むことができなくなっていた。思うにそこには,社会における比較や評価という,値踏みの巨大モノサシが立ちはだかり,自らもその既成の枠の中で「自分の力で,(結局は)自分の満足のために」突き進もうとし,一喜一憂しながら振り回されていた姿がある。
否,もしかしたら,そのはるか前から己の内に通底していたであろう,総じて言えば,これまでの「自己拡張」的な生き方が,今や完全に頭打ちとなり,自らをある一定以上に,大きく突き破らせることができなくなったばかりか,ただただ,孤立感と虚無感という,足場無き深淵の闇に突き落としてしまったのだとさえ言える。そしてこうした自己分裂,ひいては自己無化という結末の境地は,無味乾燥にしか映らずただ徒労感に打ちひしがれていた,「あの」砂漠上での心地にピタリと重なり合ってゆくのを禁じ得なかった。
根こそぎ足元をすくわれ,もはや拠って立つ足場が失われつつある危機にあってなお,何にも揺さぶられず,流され得ない確固たる基盤や自分自身の根本的あり方に飢え渇く日々。これ自体,私の中に「生きんとする志」が潜んでいることを示しているのだろうか。けれどもこの期に及んでは,よもや己の力になおもしがみつこうとする自己執着(我執),ましてや,己の生命やそこに隠された神秘の意味を徒に投げ捨ててしまうような自己放棄,といった極端なあり方に右往左往する愚かさには,もはや甘んじられまい。
…では,どうすればよいか?
それは,苦悩(渇望)をちゃんと「苦悩する」,ということに尽きるのではないか。新たな足場は,どこか他に予め用意されているのではなく,自らの態度のあり方においてこそ,その足元から自ずと築かれてゆくのではないか。そしてそのヒントは,あの「親指感覚」にある。力みすぎず,油断もしすぎず。自ら踏み込んで「立つ」(自力)感覚と,自らを超えるものに身を「任せる」(他力)感覚。自問自答でなく自己拡張でもない,この,ある種緊張を伴う絶妙なる呼応関係。こうして,空虚な深淵にあって「苦悩」はその足場となる。
ところで,「足場」とか「親指感覚」とは,そもそも「馬」の話から出たものだ。そしてその馬は,今や私を単に楽しませ,目的地へと運んでくれる道具のみではあり得ない。私自身の足場を常に問い,確保させた先に,私の夢や信念を叶えてくれる導き主である。否,「人馬一体」の域にあっては,既に馬は私の信念そのものであり,辿るべき道そのものだ。
今回の旅の舞台となったシルクロード,また草原と砂漠を分け隔てた天山山脈にしても,その厳しく壮大な自然条件に我々は幾度も驚嘆し,愕然とした。それまでに抱いていた,ある種のロマンティックな空想は,あの実像を前にしては音を立てて見事に崩れ去った。果てしないのである。とはいえ,我々は既にある程度備えられたコースを,主催者側の最善の配慮のもと安全に導かれていた。その意味で,旅ではあったが真の冒険ではなかった。しかし思うに,この地に初めて足を踏み入れた先代達は,いかにしてあの大地を駆け抜け,あの山々を越えて行けたのであろうか。予め用意された道など無かったはずだ。おそらく,孤独を分かち合う同志と共に描いて切り撮った希望や物語を胸に,まさに未だ知られざる「未知(みち)」なる地平を切り開いていった跡に,自ずと「道(みち)」はできたのだろう。「人馬一体」となって突き抜けたであろう,その真の冒険精神は,今回の旅から響いたメッセージであり,来るべき自らの人生の冒険に向けて,かけがえのない贈りものとなった。
「親指感覚」を起点とした乗馬奮闘記,自己探訪記,歴史追随記,未来設計図…なんとGreatなCaravanだったことか!そして今,確かな手応えとして感じている自由。現実のしがらみに束縛されつつも,真に束縛され得ない境地としての自由。かつまた真に現実へと立ち向かってゆく自由なる冒険心。この旅は非日常ではありながら,しかし,現実逃避した幻や夢物語ではない。冒険という名の私の人生そのものとして,風景を変えてこれからも続いていくのだ。
この旅を導いてくれた人、張宇氏に感謝。
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「〜過去への回帰 そして未来へ〜
 奔流中国グレートキャラバンに参加して」            
自分自身にとって「グレートキャラバン」の旅に参加するということは
まずは、「過去への回帰」でもあったかもしれません。
2011年5月6日。
私はこの日に大切なものをなくしました。
人生がちょっと複雑になってしまった瞬間。
「生きる」ことがちょっとめんどうくさくなってしまいました。
「記憶を消せるなら消してしまいたい。忘れよう。忘れよう。」
一方、「忘れたい記憶があるから忘れた記憶を取り戻したい。」
そんな欲求にかられていました。
2011年6月23日。
そんな中、14年前、まだ大学2年生だったころ、
奔流のシルクロードの旅で出会った張さんをはじめとする仲間と再会。
14年前と変わらない、でもちょっと大人になった人たちの笑顔。
忘れていたものをまず1つ取り戻した瞬間がありました。
そして、聞かされた、「グレートキャラバン」という旅のこと。
「馬で旅をする」しかも
「かつて商人たちがアジア、ヨーロッパ間を馬で走っていたであろうシルクロードを馬で駆け抜ける」
「この21世紀になんておかしな旅なんだろう」
「張さんってば最高じゃん!」
私にはちょっとした非日常が必要だったみたいです。仕事の都合をつけて参加することにしました。
そして、記憶にケリをつけるためにあることをしようと、心に誓いました。
2011年9月18日。
トルファンで合流したら、電車の中から出てくる出てくる
たくさんの学生さんたち。
14年前の記憶が一瞬で戻りました。
「おーこの感じこの感じ。19歳のときは、とにかくなにもかも新鮮ではしゃいでいたっけ」
19歳のときに初めて参加した奔流は、その後の私の人生の大きな起爆剤になりました。「あこがれの中国に初めて行けた。しかもあこがれのシルクロード。」
その後、私の学生生活といえばさらに西へ西へ。中国の隣の国、そしてまた隣の国。シルクロードをひたすら旅して、思春期をすごしたヨーロッパへ。
そこで出会った、宗教にからむ紛争、でもその状況下でも笑顔を絶やさない人々。
「この人々のことを伝えたい。」
忘れていたもの、2つめを取り戻した瞬間。
さすがに33歳になった今、あのころみたいにはしゃぐことはできなくなっていましたけど。。。心の中でちょっと興奮状態。
2011年9月19日。
さて、興奮状態さめやらぬままバインブルグ草原で出会った 
額には白い三日月の模様、そして背中につむじのあるステキな馬、
つむじちゃん。つむじちゃんは兄弟の馬とつねに寄り添っていました。
もう一目惚れ。なんてかわいいんだろう。
「運動神経ないけど乗れるのかな」
そんな恐怖、不安はなんのその。気づいたら草原を駆け抜けていました。
つむじちゃんの走るときの体温、息づかい、汗、、、
そしてちょっと張り切りすぎて自分一頭だけになってしまったとき、
兄弟を探している不安げな表情、いななき、そわそわとしている足取り。
最初は顔を近づけても全然そっぽをむいてしまうつむじちゃん。
でも1日、1日しつこくつむじちゃんを探しては乗っているうちに、そして私も兄弟を探して常に寄り添っているうちに、家族みたいな気分。最後は顔を近づけてくれました。
「かけがいのない存在」「家族」「寄り添う」「体温」「息をするということ」
「生きる」「生きている」「必死で生きて行く」
つむじちゃんにとっての「日常」。
つむじちゃんから学んだちょっとしたこと。
一方、草原は人間を寄せ付けない圧倒的な美しさと厳しさが容赦ない。
圧倒的な静寂。圧倒的な朝日そして夕日。圧倒的な星空。圧倒的な寒さ。
でも、そこに住んでいる人々、そして馬たちにとってはこれが「日常」。
私なんか1人でいたら一晩で死んでしまう。私にとっては「非日常」。
ある日見た、草原のさきにそびえる雪をかぶった山脈。南の方角。
そのさきにかつて訪れたチベットが。。。 
「ここにはなにもない」
「でもすべてがある」
忘れていたもの、3つめを取り戻した瞬間。
その瞬間、悪夢のような記憶にケリをつけるのをやめました。
一生私はこの記憶とともに生きて行く。
そしてまたここへ戻ってくる。
そして帰国後、東京である日。こんなことを感じました。
店がオープンする30分前の街のざわめきが好き。いつものざわざわ。

いつものデスクまわりのざわつきが好き。
いつものざわざわ。

日常に感謝。

日常がそこにあるから、生きていく。なんのために生きてるのかわからなくなったなんて考えちゃダメだ。

日常をこなすのが生きて行くことなんだ。
これが私にとっての日常。
そしてちょっとした非日常、奔流にありがとう。
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備忘録
大学2年生の4月、偶然youtubeで西安からウズベキスタンを旅した方のスライドショーを見た。炎のような火焔山、キルギスの石人、サマルカンドの青いモスク・・世界にこのような美しい場所があることを初めて知った。中国には青い目を持つ人々が住んでいることを知り衝撃を受けた。私の中国とシルクロードへの憧れはこのとき初めて生まれた。
私は観光目的でグレート・キャラバンに参加してしまった。そのためがっかりさせられることも多かった。寝台列車の遅延や馬の到着が遅れたせいか、楽しみだったベゼクリク千仏洞や羊さらいを見ることができなかった。このことは今でも心残りだ。
しかしあるとき、私は間違っていることに気付いた。
~シルクロードの旅は観光ではない~
シルクロードという言葉は美しい響きがあるが、私の見たシルクロードはそうでなかった。草原の昼は汗をかくほど暑くなるが、朝は霜が降りるほど寒かった。映像で見た美しい天山山脈も、実際登ると吹雪と霧で前が見えなかった。横を見るとそこはもう崖だった。 シルクロードには多くの国が現れては消えた。多くの血も流れた。旅人も盗賊に襲われることもあっただろう。この旅でシルクロードはデスロードであることを悟った。
それでも古来の旅人は死ぬ覚悟でシルクロードを旅した。何故なら彼らには命をかけても成し遂げなければならない使命があったからだ。
ローマ帝国を目指しシリアまで辿り着いた後漢の甘英
仏教の経典を求めインドへ向かった三蔵法師
莫大な富を求めフビライ��ハンの元へ向かったヴェネツィアのマルコ・ポーロ
この他にも多くの旅人がシルクロードを歩いた。勿論、志半ばで倒れた名もなき旅人も大勢いるだろう。シルクロードを旅するというのは、観光などという甘い気持ちで旅してはいけないのだ。砂漠越えでの喉の渇きと腹痛が、私に教えてくれた。
馬は現代では娯楽のための生き物だが、古の時代はそうでなかった。カザフ人の遊牧民スタッフと相撲を取ったが、相手は屈強な体で私は勝つことが出来なかった。モンゴル人と握手した時、彼らの手の皮がとても厚いことに気付いた。寒暖の激しい草原に住んでいるからだろうか。遊牧民スタッフは皆人懐っこかったが、彼らには勇敢な騎馬民族の血が流れている。火器や戦艦が登場するまで、騎馬民族は世界最強の戦士だった。高速移動しながら矢を浴びせ、高い場所から敵を切り裂く。敵の反撃が始まる前に瞬時に離脱する。馬を操れるというのは、今でいえば戦車や戦闘機を操れるようなものなのだろう。騎馬民族が歴代の中国王朝を苦しめ、ヨーロッパまで攻め上がりユーラシア大陸を支配できたのも何となく理解できた。
~奔流中国~
奔流中国最大の存在意義は、自分の道を自分で創り切り開く人材を世に送り出している点だと思う。大学を長年留年したり、定職につかず、会社を退職し留学へしたり・・張さんや奔流の先輩方を見てみると、社会の枠組みにはとらわれない人が大勢いて驚かされる。先輩方の表情はとても明るく、今の自分に後悔しているという感じは見られない。
彼らは中国の雄大な大地を知ることで、そしてシルクロードを旅することで気付いたのだろうか。
 道無き道を旅したシルクロードの旅人のように自らの人生の道を創り全力で駆け抜け、そして歴史に名を残すような偉業を成し遂げる素晴らしさを。
奔流が教えてくれる、我々は確かにシルクロードを旅したのだ。
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昔から女性のハイヒールのコツコツという音が好きだった。
朝の通勤ラッシュ時の渋谷駅で、私は無限の行軍に耳を傾ける。
何故この音は心地よく体に響くのだろう���
今日、前を颯爽とゆく女性の足音を聴きながら、もしかして、と思い当たる節があった。
これは、馬のひづめの音に聞こえはしないか。
面白いことに、音だけでなくそのリズムまで、女性と馬のそれは同じに思えるのだ。流石に人にはギャロップは出来ないだろうけど。
何人ものOLが行き交うコンコースで目を閉じると、大都会でキャラバンしているように感じる。
一方でそう思うと、競うように高いヒールを履き合う女性たちが少し滑稽に思えるのだった。
東京でのキャラバンは、灰色の天井と疲れた二酸化炭素ばかりだ。
エスカレーターは一定の速度で人を運んでいく。
私は朝だからご飯を食べ、昼だからご飯を食べ、夜だからご飯を食べ、そして25時を過ぎたので眠りにつく。
私は日々螺旋階段を一定の速度で登ってゆく。
あの旅は違った。
無秩序という秩序。
例えばゴビ砂漠へ向かう道中。天山山脈越え。
身体が「ここは知らない」「ここは知らない」と呟いている。
髪もゴワゴワ。服も4日間同じ。それでも生きてる。
痛む背中と凍てつく寒さに震える。それでも眠りにつく。
お腹がすいたからご飯を食べる。身体が砂だらけだからシャワーを浴びる。
私はそんな環境の中で、飽きのきていた自分という存在を変えたかった。
変わらないことを恐れた。
しかし、そうしたある種の極限状態の中で私が気づいたことは、私は絶対に変われないということだった。
私はどんな場所にあっても、私として生きなければならない。
空っぽのままだ。
それでも、草原のただ中で、星空を見上げつつ、死にたい?と問いかけると、まだいい、と答える声がある。同時に、でも、死んでもいい、という声も。
それが「生きる」ということだと思った。
プランに沿って、完結しない限りは不満足な人生ではなく、一瞬一瞬をスライスしたときに、それだけでいいと思えるような。
何より、張さん、遊牧民の人たち、そして80人の素敵な仲間に出会えたことに感謝感謝。
愛している、
そう思えた旅だった。
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私は旅が好きだ.でも,旅にトラブルは必ずといってついてまわって,でもそのトラブルからの産物も必ずといっていいほどある.極論を言えば,私はそれが楽しくて毎回旅に出ているのかもしれない.
今回だってそうだった.馬運車が速いスピードで走れないこと,草原には鍵付きの厩舎があるわけではないこと,天候,移動中の諸問題.60人規模の団体旅行と聞いただけでも十分トラブル要素は満載なのに,それに生き物である馬が旅に付随した時,例えば馬が予定通りにこないことも,馬が夜逃げ出すことも,裕に想定の範囲内だった.
草原や砂漠での生活と,衣食住の充実が当たり前な日本での生活を比べた時,草原や砂漠でのそれは,私たちにとって決して豪勢で満足いくものとは言えなかったかもしれない.けれど皆,毎食のご飯の時,ぬるいミネラルウォーターを飲む時,腹の底から「ありがてーー」「うめーーー」と迸るような声をあげていた.極寒の中,明らかに人数と面積があっていない狭いゲルの中で「足を伸ばして眠れることって本当に幸せだよね」と話す声が聞こえた.薪ともいえぬ木々を自ら集めて火を焚いて,ギター片手に仲間たちとただ声を合わせる,それだけのことを皆すごく幸せとしていた.
何時間も草原で待ったからこそ,ご飯を何倍も美味しく感じることができたのではないか.仲間のことをより深く知ることができ,また,このようにトラブルに対する自分の反応を通してより一層の自己覚知ができたのではないか.もし日本で,大都会東京で,同じことを体験したならば,一瞬でも心底“幸せだ”“満たされている”と考えることができる人は何人いたのだろうと,そんなことを何度も考えた.
キャラバン中,馬を乗り替わった時に現地スタッフに「その馬はもう走らせないで」と言われた時があった.馬の疲労は明らかで,出来ることならすぐさま降りて休ませてあげたかった.けれど,「馬で旅をする」このキャラバンでは,休ませては,馬も人も目的地には辿り着くことはできない.馬をどう操つるかも,どの道を選ぶかも全ては乗り手次第なのだ.放牧中に馬が逃げて,皆より少し遅れて出発した日があった.常に仲間の群れが視界の中にいたこれまでとは異なり,見渡す限りの砂漠に現地スタッフ2人と私だけしかおらず,この時ばかりはまるで自分たちで道を切り開いているかのようだった.馬と自分たちだけしかいないこの状況で,馬を信じることは言うまでもなかった.馬に“乗せてもらう”のではなく,“共に歩む”感覚を覚えた.普段から馬に敬意をもって接しているが,この時ほど馬に感謝したことはない.
キャラバン中は,馬上で見える世界が多くあったように,地上にいなければ見えない世界もまた多くあった.キャラバン最後の2日間,私は仲間よりも馬に乗る時間が少なかった.馬に乗らずにいた間,私が目にしたものはゲルを手際よく片づけ,私たちの荷物をトラックに積んで何往復もしながら次の場所に運んでくれているスタッフの姿と,60人分の食事をたった2人で作るスタッフの姿だった.主催者をはじめとする見えないところでうごいてくれている多くの人の支えがあったからこそ,私たちは,「馬で旅をする」ことが実現できたのではないのだろうか.毎日気付いた時には,ご飯もゲルも荷物も私たちの目の前にある状況.「馬で旅をする」上では決して当たり前なことではないはずなのに,その状況を私たちは勝手に当たり前と捉え,甘んじていた人も少なくないのではないか.参加者のうち何人が,この“当たり前”と思わせる環境をつくってくれていた人々に,直接感謝を伝えていただろうか.私だってきっと十分にはできていない.
これまでのキャラバンで得たものとは明らかに違う今回3回目の参加.これまで同様,あの広大な大地を馬で駆けることができることに激しい興奮と達成感を覚えたのはもちろんで,3回目の参加にして,初めて「馬で旅をする」という実感が掴めたのも事実だ.しかし今回私が「馬で旅をする」ことで得たことは,自分自身の乗馬の技術上達でも,馬で駆けたいという自分の欲への満たしでもなかった.改めて自分は周りの人々に支えられて初めて生かされているのだということ,五感を奮い立たせながら生きるという困難さと大事さ,そして何より,自分の跨っている馬を,横で一緒に駆けている馬を,一緒に参加している仲間を,そして自分自身を思いやることを自然と意識することができたことだった.それは目にみえた収穫ではなかったが,きっと自分にとっては何よりも大きな収穫だったと考えている.
10日間,喉も身体もカラカラだったけれど,心だけはずっと満たされていた.もしかしたら日本にいる時の私は,喉も身体も全て満たされているけれど,心だけどこか満たされきれていないのかもしれない.
今年も奔流を提供してくれた張さんに、ありがとう!
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旅をする時は、いつも日記をつける。本当は家を拠点に生活している時も毎日つけたいのだが、そうはいかないのは私の怠惰によるものか。けれども、もう少し考えると本当の理由はそこにはなくて、どうやら思考に終着点を求めているか否かの違いらしい。普段の生活では頃愛を見計らって考えることをやめて、ひょっとすると次の日か、はたまた何カ月も先にその続きを始めることが少なくない。それでいいと思っているので、いつも思考の気まぐれに身を任せる。対して非日常の世界では少しだけ意図的に自分の脳みそを支配する。光をあてたい側面を意識して、そこがはっきりと見えてくることを目標に旅の毎日を過ごす。留学であれ、旅行であれ、一人旅であれ、全て同じ。ここを消化したい、これが何なのか知りたい、等、自分の中に何かしらのテーマを掲げて出かけるようにしている。だから、日記をつける。文字に起こさないと無意識のうちに考えることを放棄して、残された曖昧なものは全て美化されていくから。何かを見聞きし、感じ、考え、文字に起こし、そしてありのままを留めておくのが、私なりの旅の味わい方である。
 およそ三分の一を前置きに費やしてしまったが、私にとってのこの旅のテーマは「リベンジ」であった。そして、それを達成できたことによる深い安堵が旅の記憶の多くを占めている。この文章を書くにあたり、17日間の日記を読み返した。そこには驚きから喜び、それからちょっとした不満や焦りの気持ちまで、今読むとむずがゆく感じるような表現が並んでいた。ただ、そこには一貫した安堵の念があった。
 リベンジには大きく分けて二つの意味があった。一つは乗馬に対して、もう一つは自分に対してのリベンジである。前者は至って単純である。昨年乗馬キャラバンに参加した際、馬に乗せられている感覚を拭えないまま帰国したのが悔しかった。もう一度馬に乗り、今度こそ「私が」操って草原を駆けたいと思った。その思いをぶつけに今回の企画に参加して、自分の意思で手綱を引き、膝で胴をしめ、草原を走る感覚を知ることができた。
 後者については少し説明を要する。私は何度か短期留学を経験したり複数のサークルや団体に所属したりと、顔を出すコミュニティが比較的多い。そのどれにも愛着があり、活動中か否かに関わらず、たとえ細くとも末長い繋がりを持っていきたいと思っている。しかし前回参加したキャラバンは例外的にそう思うことができなかった。理由は「当時の自分が苦手だから」。背景は色々あるのだが、要は全く自分らしさを出せなかったため、メンバーに再会して当時の自分を思い出すのを避けていたのである。もう一度奔流に参加して、この煮え切らない思いを拭い去りたかった。そして、それは意外なほど簡単に達成された。この17日間は細かいこと抜きに本当に全力で楽しかったし、帰国後の自分は驚くほど身軽で、前回のメンバーとも約1年振りに気持ち良く会うことができた。あの馬が、大地が、空気が、食物が、星空が、仲間が、そして少し変化した自分がこれを叶えてくれた。
 主催者が意図しているものはもっと違うところにあるのだろう。けれども、今回の旅は私にとって間違いなく克服を意味していた。「理由」というものは、自分の中に見出し、向き合い、そして乗り越えうるものだということ。自分は今までそうやって生きてきたし、きっとこれからも同じように生きていくのだということを教えてくれた旅だった。
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幼い頃から他人の目が怖かった。いつだって「いい子」「いい人」で居たくて。自分がどんな風に思われているかばかりが気になって仕方がなかった。100点を取って褒められたいから勉強した。そのまま大学に入り、訳も分からず履歴書を書いて就活に失敗した。自分の中に誇れるものが何一つ無いと、漸く気が付いて愕然とした。そして私は大学を出させて貰っただけの社会不適合者になった。
中身がない。それを取り繕うための建前が日々増えていく。隣の芝が青く見えても「あれはああいう品種だから」と、常に心が壁を作る。でも本当はそうじゃない。隣人の庭が輝いて見えるのは、彼らがそれに見合う努力をしたからだと知っている。比べて私は何もしていない。自業自得だ。わかりきっていた。独り言が増えた。ちくしょう、こんなんじゃないのに。ちくしょう。本当は、本当はこんなんじゃないのに。
…じゃあその「本当」は、どこにあるのか。
1年前。内モンゴルの大草原で見た景色が心に浮かんだ。そして、旅に出ることを決めた。
旅の間私は、心に一切の嘘を吐かないことを自身に課した。くだらない自尊心に塗れ、奥底で眠ってしまった自分の感情を取り戻さなければならない。
誰からも嫌われたっていい。いい人なんて思ってくれなくていい。
自分の心のままに、生きていける場所に行きたかった。
蒙古馬に乗るということは、魂と会話することだ。
膝に力を入れ、馬のリズムに乗る。鞍や鐙の金具が当たっていても、痛みに気を取られれば落馬する。躊躇なく手綱を引ける意志と腕力がなければ馬を走らせることはできない。そこでの優しさとは、厳しさとほぼ同義語だ。生きようとする力が闘争心を生む。妬みや怒りを乗り越えた先に思いやりや協調性がある。
物言わぬ魂に触れていると、自分の心の動きが見えてくる。全ての感情が��まれ、消える瞬間が手に取るようにわかる。苦痛や寂しさ、憤りを感じている時ですら心が満たされていた。叫びたい時に叫び、笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣く。そんな当たり前の行動がどんなに幸福だったことだろう。
ヒトは一個の受精卵から胎児に至るまでに母親の子宮の中で進化の過程を辿る。有性生殖を始めた原始生物から今に至るすべての歴史が、私たちのDNAには流れているという。
人間を野生動物と同じく考える場合、その寿命は約30年とも言われるらしい。
私の動物としての生が終わるまであと7年。
人間としての生を授かる前に用意された準備期間のうちに、私はどれだけ本能を研ぎ澄ますことが出来るだろうか。
さあ360度。「本当」を探しに。どこへ向かって走ろう。
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「しぜんと」
中央にそびえる白亜の城、回るメリーゴーランド、人々の笑顔。キラキラと輝く遊園地は、幼い私を異世界に誘ってくれる唯一の空間で、大きくなってからも暫く憧れを抱きつづけていた。しかし、旅を終えて久しぶりにその遊園地に遊びに行くと、何か違和感を覚えた。以前感じていた面白みを実感できなかった。乗り物に乗るための長蛇の列に並びながら思い描いていたのは、砂埃の中で馬を走らせていた私自身の感覚だった。
キャラバンの旅は自分の体ひとつで、異世界に飛び込んだようなものであった。視界の限り何処までも続く草原、ゴビ砂漠そして澄み切った空。耳には馬の駆ける音と風を切る音、遊牧民の声。馬の振動や体温、目に入る流砂、降り注ぐ日光。この旅では常に自分の五感と体で、世界と向かいあっていた。
だからこそ、良いことばかりではなかった。様々なことがあったが特に印象に残っているのは、速馬に乗ったときにバランスが上手く取ることが出来ず、尾骶骨周辺が裂けて出血したことだ。乗馬の最中には傷と鞍が擦れ痛む一方で馬を降りる訳にもいかず、その苦行に奥歯を噛み締めながら乗り続けた。馬は大変不便であり、車もバイクもあるこの近代に文明に逆行してまで馬での移動をする、この旅への参加を何故決心したのか自分でも分からなくなっていた。
次の日、傷休めをするため遊牧民の車で移動をすることになり、快適な車内で私は車が如何に優れているか理解した。車は運転手に従順であるし、基本的に運転の際の運転手の負担はそれほど無い上、快適である。そのように車を賛美していた時、私の乗っていた車が皆のキャラバン隊の横を追い越した。その時の車窓の光景は今でも目に焼きついている。広大な空と大地を背景に馬を駆けさせている、みんな。そのあまりの躍動感や美しさに、見知ったはずのみんなが知らない人の様に見えた。その時に私は、あの集団の一部に私も入りたいとぼんやりと思った。キャラバンは一人ではなくて、他の仲間が居て成り立つ隊列だ。自然が相手の過酷な旅路を仲間と支えあって、目的の地へ向かう。このグレートキャラバンはその様なキャラバン隊を体験できる機会で、そんな掛け替えのない経験を積みに私は参加したのを思い出した。そう考えると尾骶骨の怪我も此処でしか体験できない貴重な事柄のように感じ、遊牧民の人と一頻笑い種にしながら次の日からまたキャラバンに再参加する決意をしていった。
あの場所で起きたことは全て自分の身に直結していた。だから、こんなに生活環境の整った日本に帰ってきても、瞼を閉じれば不便で過酷であったあの旅がしぜんと思い出されて仕方ないのだ。愛している、と言える人たちに出会い、自然と己の身ひとつで向かい合う旅なんて滅多に体験できない。この旅で様々な事象に出会って、私は一回り成長した。そう確信している。
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奔流の旅で私が得たものは、乗馬体験、見知らぬ土地の旅、それらを差し置いて人々とのつながりだ。
私は無類の漫画好きである。にも拘らずアウトドア大好きな人間��ある。そんな裏表な人間は少数��なのではないかと思っていたが、参加初日にしてその考えが間違っていたことに気づいた。参加者の多くが漫画などに理解があったり、美��や音楽が好きだったり、文化を愛する方達で、そうした、普段から夢や理想を描いている人達だからこそ旅に惹かれる傾向があるのかもしれない、などと根拠のない考察をしてしまった位だ。日本では普段、「漫画好きなオタクキャラ」として生き、またそうした自己を過度に演出するばかりな自分は、ここに来てその云わばアイデンティティのようなものを剥奪されてしまったわけである。そんなもの普通じゃないか、と。それよりもお前の本質は何だ、と。旅の間、同行していたモンゴル遊牧民の一人が、ゴビ砂漠キャラバンの休憩中に、砂で自分に似せた埴輪のような人型を作っているのを手伝った。「これ、貴方?」と身振りで聞くと、さぁ、分からない、と言われた。ただ作っているだけ。自分かもしれないし、誰でもないかもしれない。私もそのようなものなのだろう。だだっ広い砂漠に棒人間一人書いて、これが私です、と定義すれば、それが私になる。わけもなく。
変な話だが、私は私としてではなく、定義されない一個体として、参加者や現地で出会った皆と関われたように思う。
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中国はでっかい!世界はもっとでっかい!!         
 もともと、夏休みには海外旅行に行くつもりでいた。旅行会社のパンフレットを物色していたある日、学校でポスターを見かけたのが奔流中国との出会いだった。観光地を巡るだけのツアーなら爺さんになっても行ける。どうせなら今しか行けないようなツアーに参加したい。そう思って、奔流中国、その中でも特に異彩を放っている馬の旅、キャラバンへの参加を決めた。
 今回の旅のメインイベントは、シルクロードでの乗馬キャラバンだ。世界一の大陸、ユーラシアを西から東へ横断するシルクロード。古代の人々の冒険心が切り拓いたこの道を馬で駆け抜ける、というロマン溢れる旅なのだ。
 このように書くと何だか格好いいが、キャラバンの間は、普段とは比べ物にならないほど辛いことが多かった。日差しが強いのに夜は凍えるくらい寒い。馬はなかなか思い通りに進んでくれない。体中の関節が痛くなる。パンフレットに「旅に慣れている人だけ参加してください」というようなことが書いてあるだけのことはあった。正直、最初はここまでとは思っていなかった。シルクロードの開拓者たちも、これと同じような、いや、それ以上の困難を味わったことだろう。
 それでも、キャラバン最終日の本当に最後だけだったが、馬を完全に乗りこなせたような気がした。馬の走るリズム、呼吸の音、風の匂い、全てが混ざり合って、不思議な感覚を覚えた。もしかしたらこれが、張さんの言っていた「馬との一体化」の入り口だったのかもしれない。この一瞬があっただけで、辛かったことも全て楽しい思い出に変わってしまうほどだった。
キャラバンを通して、分かったことがある。現地の空気は現地でしか味わえない。草原の風景を作っているのは、テレビや写真でもわかる要素だけではなかった。音、風、気温、匂い、時間、景色の移り変わり、全て合わせて一つの草原が出来上がっている。世界はでっかい。このような場所、このような体験が世界のあちこちにまだまだ眠っていると思うと、ワクワクしてきませんか?
 これからもたくさん、あまり人の行かないような所へ行き、誰もやったことのないようなことがしたい。ただ、その原点として、奔流中国は一生忘れないだろうな、と思う。張さん、ありがとう!
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・馬、自由
旅から帰った。
バックパックを広げると、舞い上がる砂埃とともに、旅から持ち帰った様々なモノが溢れ出た。
くたびれた乗馬ブーツ。
何かの骨。
石。
この旅に彩りを添えた、形あるモノ達は
今は家の片隅で少し居心地悪そうにしながら、日常に溶け込もうとしている。
帰国から少し時が経ち、この旅を形に残す機会に恵まれた。
そして、気づく。バックパックでは持ち帰れない、形のないものを持ち帰ってきたことに。
今やっと、おぼろげながらそいつの輪郭が見えてきている。
2010年、夏。
カラダは痛むし、馬は言うことを聞かない。不自由しか感じなかった、初めての乗馬キャラバン。
何もしなくても勝手に群れの先頭を走る馬。周りが言うほど実は楽しくなかった、馬の旅。
見渡せば歩く気すら起きないほどだだっ広いモンゴルの大草原で
もし馬がいなければ、と思うと途端に突きつけられる、人間のちっぽけさ。
いつ暴走し出すかわからないこの馬に頼るしか、此処で生きる術はないと知った時、覚悟は出来た。
そして、知った。
勇気を出して前に進む、ということ。
命をかけて手綱を握る、ということ。
切り裂く風の中で聞いた「生きたければ、前へ進め」
まさに人生のように。
いや、そこには23年間のどんな場面よりも、はっきりとした輪郭をもって迫ってくる「実感」があった。
持ち帰ったものは、大きかった。
2011年、夏。
「グレートキャラバン」というものがあるのは知っていた。
それが復活すると聞いた時、震えた。
ここに挑戦の場がある、と思った。
今度こそ、「自らの意志」によって馬で駆けよう。
願わくば、人馬一体の境地まで。
「自由」を得るために流す血を、今度こそ厭わない。
「本当に馬で駆けるという事を知る旅に出よう。」そう、決めた。
そして、何を思うか。
今度はどんなものを持ち帰れるか。
天山山脈麓。古の隊商路。草原というより、高原。
ここにいる意味を問う。
正直に答える。
行く手を遮る馬の群れ
群れの先頭から出ようとするのを制止する声
すべてが、ひどく邪魔だった。
それらを全て蹴散らして、地上の流れ星になりたかった。
とことん、我儘になってやろうと決めていた。
それは、「自分の意志」で「全力」で駆けることでしか、ここにいる意味を確かめられなかったから。
真摯に、馬と、自分と、向き合うためにとった不器用な手段だった。
ある方法を知った。
手綱をギリギリと引き続け、群れの後方に下がり距離をとる。
駆けるのに十分な距離ができたら、手綱を一気に緩める。それがGOサイン。
一瞬で空間が縮んでいく。
キャラバン隊で進む限り、駆け足で存分に駆けるには、この方法しかなかった。
勢い余って前方の群れに突っ込んで、ひんしゅくをかうこともあった。一向に構わなかった。
ふと周りをみると、同じようにのろのろと後ろに下がる奴らがいる。
自由に駆ける味をしめ、よからぬことを企んでいる目をした、迷惑な奴ら。
なぜか、嬉しくなった。
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自由。
その言葉の意味するところ、考えてみたことはありますか。
本当の自由を、感じようとしたことはありますか。
70人が東を向いても、おれは西へはなむける。
70人が早足なら、おれは駆け足を。
別に、人と違うことしたからって、自由でいるとは少しも思わない。
でも、人と違うことするときってのは、それなりの覚悟がいる。
それだけの力がいる。
帰国後、参加者の一人が馬について語っていた。
馬に乗りながら、他の参加者の安全に気を配っているという。
鞍を縛る紐が緩んでいないか。鐙に足を深く突っ込みすぎてないか。
金網などの障害物が無いか。地面にでかい穴はあいてないか。見つけたら、即座に周りに伝える。
それは、ただの優しさから来るお節介じゃない。単なるコミュニケーションの手段じゃない。
馬が好きで、自分の意志で共に駆けたくて、血を流しながらやっと得た、力。そして、自由。
そいつは、やっと得たそれを、自分ではなく他人のために使えるやつだった。
力と自由に裏打ちされた、本当に人のためになることだった。
「お前とは格が違うんだよ」と冗談っぽく言うけれど、それは本当かもしれないと思った。
歩く度、今でも違和感を覚える右の足首。
握ると、少しだけ厚みが増した気がする手の平。
それに対し、確実に厚みが増した尻の皮。
自由に駆けたくて足掻いた跡。
自由が拠って立つものは、いたるところに刻まれていると気づいた。
強烈な、願いや切望。
手を伸ばし、足掻き、追い求める、何か。
そこに感じる、力の無さ。
不自由の塊である自分を自覚した時、血を流す覚悟はできる。
ワレモノ注意の五体を、馬に完全に委ねる決心ができる。
わかりきった事、なんかじゃない。
心からほんとに何か為したいと思わないと、自分を縛る鎖はそもそも見えない。
不自由を自覚する機会は生まれない。
おれはそれを、馬から教わった。カラダに叩き込まれた。
頭じゃなくて、心で感じた。
そうして手が届く、自由のかけら。
もしも、あなたが馬で自由に駆けたいと思うなら
おれは、絶対に追いつけないと思わせるスピードで後ろから抜き去ってやります。
「追いついてこい」と笑顔の中ギラついた眼をして訴えます。
あなたの不自由さを、わからせます。
この四肢を賭けるに値する何かを、背中で示します。
馬と人を隔てる境界線が溶けてなくなる、この何物にも替え難い喜びを、全力で見せてやります。
今までただ目の前の行く手しか見ていなかったこの視界を、少しだけ左右に広げて。
それがおれにできる精一杯の伝え方。
次に草原に帰ってくるときは
「馬で自由に駆ける喜びを知ってもらう旅に出よう。」そう、決めた。
旅から帰った。
心の中を覗くと、もう一人の自分が真っ直ぐにこちらを見ていた。
問うている。
この旅は、何だったのか。
狂乱のあとに、残るものは何か、と。
これは、答えのない問いに答え続ける、心の中の、もう一つの旅。
~~~~~~~~~~~~~
これから・・・。
 嫌で嫌で仕方なかった。
 日本に帰りたくて帰りたくて仕方なかった。
 一刻も早く故郷の地を踏みたくて毎日イライラだけが募っていった。
 退屈で平凡な大学生活に嫌気がさし、少し別の世界を見てみたいと思っていたころに
 見つけた「馬と旅する 奔流中国」のポスター。
 このキャッチフレーズに引かれて参加する人たちはきっと変わっているに違いない。
 私のこの平凡な毎日に刺激を与えてくれるだろう。
 深くは考えずに勢いで思い申し込んだ。
 旅が始まってみるとこれまでに受けた事の無いような衝撃の連続だった。
 リアルを見ていない人に説明する事もままならない衝撃を受けつづけた。
 参加者の皆が皆、「我」をはっきりと意識してた。
 自分の中では今まで20年間それなりに色々な経験をしてきたと思っていた。
 いじめ、中学受験、登校拒否、起業、不登校、高校中退、海外生活、大学受験。
 けれどここではそのどれもが意味をなさなかった。
 肩書きは関係ない。過去も関係ない。あるのはただ「今」だけ。恐怖だった。
 その仲間達と見た中国は偉大だった。
 経済発展のまっただ中、上海の町は「希望と自信」に満ちていた。
 そして、内地では雄大な自然に人間の小ささを感じさせられた。
 山や湖、人間の手が加えられていない自然に久しぶりに出会った。
 乗馬に関しては私は何も述べる事が無い。
 ただ馬達には「おつかれさまでした。」その一言を送りたい。
 この旅の最中「馬の気持ち」というのを考え続けた。
 けれども途中で見えなくなってしまった。私に気持ちの余裕がなくなったから。
 自分の小ささに気がつかされた旅だった。
 精神的にも肉体的にも限界を超えていた。
 自信という自信は打ち砕かれ、
 私はいったい何のために生きているのかと考える日々が始まった。
 これから先私はどの道をどのように歩いていけばいいのだろう。
 「参加するんじゃなかった。」それが私の感想。
 ただ、この今感じている孤独と苦しみとむなしささえ乗り越えれば
 この旅に参加した意義が手に入り、実りのある人生が待っているのではないか。
 そのように感じる。日本に帰ってきた今、私がすべきことはなんなのだろうか。
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もともと私はモンゴルとか中国の歴史とか、そういった文化的な類のものには詳しくなくて、 今回奔流中国グレートキャラバンに参加したのも、単純に大草原で馬に乗ってみたかったからだった。
 でも草原や砂漠を延々と馬で走っている時に、少しシルクロードに想いを巡らせてみた。そこで、初めてシルクロードを渡った人たちは、もっと遠くのものを見てみたい、何があるのか知りたいという単なる好奇心から、あの長い長い道のりを越えて行ったのかなと、ふと考えた。  道なんてないから迷うかもしれないし、馬はいつ死ぬか分からないし、下手すれば自分だって死んじゃうかもしれない。そんなリスクを負ってまで、好奇心の赴くままにシルクロードを行く。正直最初は、命を賭ける必要なんてあるのかって思った。だって死にたくないもん。でもさ、実際自分が大草原と砂漠を馬で走っていると、もっと遠くに行きたいって思っちゃうらしい。  乗馬2日目のこと。「この先は岩場で危ないし、何時間かかるか分からない。遊牧民も進むことを反対している。もし落馬しても助けてくれるジープはない。そんな道を行きますか?それとも来た道を引き返しますか?みなさんが決めてください。」
そう言われて私は即座に、引き返すのだけは嫌だ!と思った。それと同時に、道が危険と聞いてわくわくしている自分がいた。リスクを楽しむなんておかしい。でも何時間かかったとしても、危険だとしても、前に進みたいと思った。戻ることはしたくなかった。  その先にどんな素敵な場所があるのだろう、どんな達成感を味わうのだろう・・・そう考えると、早く前に馬を走らせたくなるのだ。  その時、ああ、この気持ちこそがシルクロードを渡った人たちの原動力だったのかって思った。彼らにとって大事なのは、行けるかどうかじゃなくて、行きたいかどうか。そしてその行きたいところへ自由に馬を走らせることが、どんなに気持ちのいいことか。  私はまだまだ未熟で、完全に馬を乗りこなすことはできなかった。でもあの快感はやみつきになる。ずっと馬に乗って、もっと奥地へ、もっと人が足を踏み入れない場所へ行きたいと思った。人間の好奇心というのは、いつの時代も共通しているらしい。  私はシルクロードに触れて、何にも縛られない自分の純粋な好奇心を発見した。そしてこの気持ちを、日本でも大切にしたいと思った。
私たちが暮らす今の社会では、やりたいことがあっても、リスクを怖れてどうしても制限がかかってしまうことがある。でもその中を突き進んで何かに辿り着こうとすることは、命懸けでシルクロードを渡るのと同じでわくわくすることなのではないか。とりあえず行ってみよう、やってみようってすごく大事。奔流はこのことを教えてくれた。  日本人はどちらかというと保守的な人が多い気がする。だから私は、この好奇心のままに動くというわくわく感をもっと多くの人に伝えたい、そう思ってこの文章を書かせてもらった。少しでも多くの人が、奔流に興味を持ってくれますように。
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剥ぎとる
シルクロードが好きだった。日本を出てみたかった。知らないことを知り、見たことのないものを見たかった。大学3回生の春、この夏が最後だと思い、参加を決めた。「感じる」旅にしようと思った。先入観とか知識とかプライドとか、余計なものは捨てて、ありのままの自分で勝負したい。初めての海外、知らない人たち、中国語も分からなかった。他のどんな感情よりも怖さが先行していた。出港して、海の色が変わっていくにつれ、固く緊張していた心がだんだんほぐれていった。大きな世界の小さな自分を感じていた。
まるで自分が子どもにかえったようだった。素直に喜び、歌い、踊った。そして、子どもになった私は、草原や砂漠に、人の心に、美しいものに触れるうちに静けさを求めるようになった。聞いて感じているだけで満足だった。一言でも言葉を発したらうるさいような気がした。砂漠の風の音が心に染みた。自分の中で燃えている炎があった。
乗った時急に背が高くなった気がした。視点が高い。遊牧民はこれを毎日見ているのか。自然を征服したような気がする。馬で駆ける。心地よい緊張感が体をまとっている。ぴりりとした空気。油断は許されない。砂ぼこりがもうもうと巻き上がる。圧倒的な迫力。すごい。馬の脚が砂にめりこむ。穴を飛び越え、よける。躓きそうになる。しかし馬はどんなに疲れていても止まらない。走り続ける。すごいことをやっている実感があった。馬とともに何かを飛び越えた気がした。叫びたかった。ためらいや躊躇など遥か遠くに行ってしまって、そのときやるかやらないかだけしかなかった。それまで馬と私の間にはなにもなかった。そこでつながりができた。張さんに、私が乗って馬は重くないのかと聞いた。張さんはふっと笑って、「重いよ」と言われた。そうか、重いのか。馬は私の重さを引き受けた。私はその重さを分かって乗っていただろうか。
私の馬は1日目、全く走ろうとしなかった。それは私が馬がかわいそうだと思って接していたからだろう。馬が痛いだろうと手綱を緩め、出発の時も腹を強く蹴ることはしなかった。馬を心の底で怖がる気持ちを「馬がかわいそう」という態度で覆い隠していた。しかし、一日走って分かったことがあった。馬は犬や猫のようなペットではない、中途半端な感傷や動物愛護の視点からは何も見えてこない。態度を変えた。何よりも指示を明確にしようと心がけた。甘さを捨てた。2日目、馬は見違えたように指示に従うようになった。同じ馬とは思えないほど。馬の目。優しく、そしてさびしそうな目。静かに遠くを見つめている目。馬には私の気持ちなど全てお見通しだったのだ。未熟な心の乗り手になど従うものかと。冷静に、しかし情熱的に、自分のはやる心を抑えて手綱を引く。
多くのことを気がつかないままセーブして生活していたことに気がついた。感動することを、そのまま受け止めることを忘れていた。できないと思ってやらなかったことが多すぎた。最後なんかじゃなかった。もう始まっていた。始まりだった。やりたいことをやるために生きているんだと分かった。もっともっと自由に生きたいと思った。
本当に生活に必要なものってもっと少ないのかもしれない。ただ頼りになる自分があればいい。旅はまだ終わらない。
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旅と日常
 結局、奔流は自分に何を教えてくれたのか、それについて綴っていこうと思うのですが、この文章から私の考える馬との旅の意義、そしてそこから浮かび上がる日常での生の有り様を汲み取って頂けると幸いです。
 日常とは飽きるものです。私は生活の中での刺激のなさにうんざりしていましたし、何に対しても無感動のきらいがありました。生きている実感がないというのが適切であり、自分が存在しているといえるのかわかりませんでした。でも、それが他者への不信から生じる私の反応だということは自分でもわかっていました。今のままでは無感動の日々が続いてしまうため、何かに能動的に関わらなければと思い、偶然にも参加することとなったのがこのグレー���キャラバンだったのです。馬や中国にこだわったわけではないのですが、結果としてこの旅は強い影響を与えてくれました。
 「馬に乗ると見える世界が変わる」と旅の中で何度か耳にしましたが、ただ物理的に視点が高くなるというわけではありません。馬上での視点は遊牧民やシルクロードの商人の視点であり、そこにおいて私は日常の自己を超越しています。つまりこの自己の他者化、相対化が可能となっているのです。新疆での馬の旅は、日本で生活を送る私を見つめる良い機会となりました。遊牧民としての可能性にある私、もはや旅の生活を新鮮な刺激とは認められない私はいたのです。しかし興奮させる刺激とは感動に必要なのでし��うか。いえ、そうとはいえません。旅の中で私は懸命に食べ、馬に意志を伝え、仲間と語りました。食事、乗馬、団欒、睡眠の繰り返しの中でも私は生きている実感をもつことができました。これは馬との旅の中でだけの感覚では決してないはずです。
 旅は普段の倦怠から逃れるリフレッシュの場ではなく、むしろ日常を見つめる時間を提供する積極的な意味をもった場であり、逆説的ですが普段よりも自分の日常に近寄れたように思えます。食事、勉学、音楽、睡眠に満たされた毎日に自覚的、能動的に生きることが実存感覚と密接しており、行動の内容よりも自分の主体的な在り方こそが重要なのだと、馬の背中で気付きました。他者から受け取るときも然りです。他者から伝達されるというのではなく、他者から受け取るといった主体性が肝要であるはずです。馬と同様に世界はそれに語りかけることなしに乗りこなせません。世界の中にあっても、その美しさを感じるには能動性が必要不可欠なわけです。
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中国の夜から
 中国でわたしは闇に包まれた。光といえば星以外に見当たらず、目を開こうが閉じようが大差はなかった。そこにあったのは恐怖と同居する心地よさであった。
 人はわたしを他の誰でもないわたしとしようとする。ここにいるのが自分でなければいけない理由、すなわち他人に決して取って代わられることのない自分の確証を欲するのだ。なぜなら、その確証を得られなければ、わたしとしての存在を否定され、何者でもない誰かであることを認めざるを得なくなるからだ。この欲求に基づく行動は光を求める行為といえよう。より強い光の中に自己を置くことで、わたしの輪郭はより鮮明に浮かび上がり、外界とわたしとの差異をよりはっきりと確認することができる。ここに今確かにいるという感覚は得られるだろう。
 ところで、奔流の重要な語句の一つに「人馬一体」というものがある。「自分の行きたいと思うように馬が進んでくれた」と誰かが言っていた。しかし、騎手と馬との意志の一致という意味は、この言葉に似付かわしくない。この言葉が指し示すのはもっと高度な次元での「一体」ではないのかと考えた結果、「人と馬との存在の一致」と説明する考えに至った。
 人の視点からすると、人は自己であり、馬は他者である。だが不思議なことに乗馬を媒介としてそれらは溶け合う。ここにおいて人は乗馬中にも関わらず、馬に乗っていない。自己も他者もいなくなっているが、代わりに「自己と他者」という一つがいる。この状態こそが「人馬一体」ではないか。わたしはもはや自己ではなくなっている。冒頭で闇について触れたが、この存在の溶け合いは闇に身を置くことを比喩としても差し支えないだろう。闇の中では自分の手すら見えず、自己と他者には境界が見当たらない。自己と他者は混ざり合っているのだ。その時、確かに自己を保持し続けられない恐怖はあるが、同時に世界に拡散されるような快感すらある。
 大衆社会、没個性、一般人などの言葉に対してわたしは悪い印象を抱いていて、人は何者でもない自分であるべきだと考えていた。そして今もそう考え続けている。だが、ただ単に光を求め、それを浴びて生きるというのも違うように思えてくる。「人馬一体」が代表するような自己と他者との存在の関わりの肝要さを発見したからだ。ここで注意したいのは、闇にある自己と他者の関係は自己の埋没とは区別されなければならないところである。溶け合いと埋没という語からもその相違は歴然としている。埋没の際には自己は自己としてあり続けるのだが、世界でそれは覆われ視界に入っていないだけのことなのだ。この状態の快楽と闇での快感もまた区別しておきたい。快楽は自己を埋没させることで得られた、これもまた自己を表面的に覆う快に過ぎないが、快感は自己と他者という一つの存在で湧き上がり、その存在の内部で揺蕩っている快である。エピクロスが唱える「心境の平静」は、わたしがここで述べた快感から基づくものであると認識し、わたしは彼に賛同の意を表する。
 蓋し、存在は自己の唯一性を追求するものであり、その活動の結果として自他をより強烈に色分けしてゆく。そのことについて反対はしないし、わたしも例外でなくそのような存在であることを否めない。問題はその自他の完全な分離から感じる不快である。ここでいう不快とは疎外や孤独を感じていることなど、状況に応じて生じる好ましくない感情を指していると考えてもらいたい。自ら望んだ結果であるにも関わらず、不快を感じるとは皮肉なものだ。わたしはこの不快を見てみぬ振りをする仕方ではなく、根本から快に覆す可能性を「人馬一体」の中に見た。逆説的ではあるが、存在が自己を自己とあらしめんとする際には、同時に自己と他者の綜合が存在の精神の涵養という面において必要となっているのである。
絹の闇は優しく、世界は一つとなる。
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旅が好きになった。
この安全で,快適な日本を出て,旅に出る。それは非常に馬鹿げていて,非常に贅沢なことなのかもしれない。
でも,旅は人を強くする。
どんなトイレでも使えるようになるし,並の不潔さには慣れる。どこででも眠れるようになるし,寒さだって我慢できるようになる。つまり,不自由さに直面して,それを乗り越えられるようになる。
文化交流とか,他者の理解ってこういう所から始まるのかな,とふと思うことがあった。自分が感じている不自由さも,原地の人にとっては既に「住めば都」状態なのだ。そんな生活は不自由なようで,実は意外な喜びに満ちている。食事のおいしさ,水の気持ちよさ,音楽の美しさ,本当にたくさんあった。だから,社会の教科書を開くだけでは違う国の生活は理解できないのだと感じた。そこは,ただの不自由な汚い世界ではないし,ロハスで優雅な自然生活,というのももちろん幻想だ。現場で自分が感じる様々な感覚が積み重なって初めて,文化は交流し,現地の人を少しは理解できるようになるのかな。とにかく,自分から一方的に持ったイメージなんて大した物でないのだと思った。
現場主義の重要性,なんて表現をしてしまうと思い出は一気に乾燥して,変なゼミ資料みたいになってしまうのだけれども。でも,グローバル,なんてキーワードのもとにズームアウトしすぎると,案外こういう所から足下を掬われるのかもしれない。
ここまでだったら,別に一人旅でも感じられたかもしれない。でも,集団の旅だからこそ起こる出来事だってある。
精神的,肉体的疲労の前ではその人の持つ内面の多くが表に出てしまう。集団生活の中で,強さ,弱さ,色々な側面が,乱暴に暴きだされる。テント移動,薪集め,緊急の対応。どれだけ状況を良くしたいのか,全体の中で自分には何ができるのか。リーダーとかフォロワーとか,さんざん講義され,勉強してきたかもしれない。でも案外,乱暴で粗野な形をとってそれらは試されるのだ。都会のビルのなかでは,なかなかその人の内面なんて閉じ込められたままだ。だから,一回旅に出て,自分の内面,他人の内面がぶちまけられる様子を目にうつして,(すごく恥ずかしくなったりして),そしてまた成長できたらいいのかなと思った。
そして,その人の内面がさらけ出される状況では本当に暖かい触れ合いだってあるのだ。
疲れて,自信も持てず,旅に不安を感じていた時。自分にできることはないのかと探して,それはあまりに小さい気がしてどうしようもなかった時。そんな時に,ふと一緒に食事を食べてくれたり,お茶をもってきてくれたり,そういう経験の中で僕はとても人間的な暖かさを感じた。
誰かにそんな暖かさを,僕もあげられるのだろうか。
なんて原始的な強さ,優しさなんだ。
旅に出て,感じて,そして帰ってきて研鑽する。また旅に出て,感じて・・・
とても健康的で,生産的な生活だと思う。
どうやら,本当に旅が好きになってしまったようだ。
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馬と人との関係は何か。 馬は私達に何を与えてくれるのか。 現代社会での日本の馬の役割は昔のように移動や仕事としてではなく、ほとんどが人間社会に組み込まれ、人間によって飼育され管理されている。馬といったら何を想像するかと日本人に聞けば、ほとんどの人が競馬か乗馬と答えるだろう。それは、私達が身近に馬に接することができるのは競馬や乗馬くらいしかないせいではないか。「馬で旅にでる」という感覚は交通機関が発達している日本で持つのは難しい。魅力的でちょっと好奇心をくすぐるこの言葉、「馬で旅をする」これだけを頼りに私はこの旅に参加した。それは想像を超えるものであり、期待以上の満足感と喜びで満たされた。 今回のキャラバンはかつて交易の路シルクロードに添って歩んでいく。それは、日本のコンクリートではなく、道があるわけでもない。ゴールもなく右や左、振り返っても前も後ろもない世界であった。道無き道を自ら決めて進んでいくのである。ひたすら自分の信じた道を進み行き、道標となっていくのだ。バインブルグ高原では遠くの小高い山々に囲まれ馬で群れとなり、時には馬の腰まで浸かる川を渡り、時には息を飲むほど美しい川に映る夕日を見た。ゴビ砂漠では越えても越えても続く砂漠の山を、埃を被りながら何十頭もの馬で一列になり、何時間もの間進み歩いた。この中で馬と自分だけの道を切り開いていくのだ。 このキャラバン中は何十頭の馬の群れの中でも乗り手は馬のことも考えながら、各々のペースで進み行く。馬を休ませるのも走らせるのも自分次第なのである。 これは日本の乗馬クラブでは決して出来ないことである。まず、馬の数をそろえることから難しいだろう。 もちろん日本の乗馬クラブの外乗も素晴らしい点はいくつもあるが、ある程度決められた大きな柵の中を、誰かが何度も通った補正された道を歩いている気がしてしまう。しかし、ここは違う。キャラバンは全く異なる。何も囲われていない地を自分で決め進んで行く。しかも自分だけのペースで。また、このキャラバンでは決められた馬に乗るわけもなく、同じ乗り方を教わることもない。乗る姿勢や馬をきれいに見せることを習うわけでもない。 参加者全員が自分の道を自ら決め、馬から乗り方を教わり、身につけていく。ただ、自分の好きな道を好きな乗り方で馬と決めていく。それだけだ。たとえ初日に馬に乗る事が困難であった人も時を増すごとに自分の持ち馬を知り、試行錯誤しながら人馬一体に近づいていく。ここも日本の乗馬と異なる点である。一時間ほど馬に乗り、また午後に他の馬に乗るというのではなく、同じ馬に1日中朝から夕方まで縦の揺れの中にいるのだ。しかも数日間。だからこそ、人からではなく馬から教わることで身体を通して学ぶことができる。私はこれがグレートキャラバンにしかないもので、一番の魅力な点だと思う。大自然の中で人が自然と馬に慣れて、乗り方も道筋も自分と馬で決めていくのだ。今までずっと出来無かったことで、挑戦したいことの一つが叶えられたのだ。
この感覚は一ヶ月、二ヶ月経った今も覚えている。このキャラバンに参加して馬の大切さと騎乗の楽しさと喜びを再び実感することができた。想像以上の実体験があったからこそ帰国してからの寂しさと空虚感は大きかった。見えるようで見えない道を進む乗馬と普段の生活を照らし合わせて日本の日常生活に戻った。いつかまたこのキャラバンが開催されれば参加したい。完全にキャラバン中毒になってしまったようだ。
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なんで今私ここにいるんだろう?って自問自答しながら旅を続けて
時には酒におぼれた夜もありました。
でも最終日、ハッと気付いたんです。これは“トキメキ体験ツアー”だと。
奔流にはいろんな人間が集まる。入れ替わりもあるが最大で70人の人間が
同じ土地で、同じ��気を吸い、同じ飯を食べ、同じ生活をする。
70人の人と一気に知り合えるなんてそうそうない。
旅で出会った全員と仲良くなれたわけじゃないし、
一言二言しか話さないでよく知らないままの人もいるけど、
とにかく奔流にはいろんな人間、いろんな考え方、いろんな知識を持った人がいるなぁ、ってすごく刺激になった。
70人も集まれば、その中でそりゃあ魅力的な人もいたし、気が合う人が現れ、
彼らと話していると楽しくって嬉しくって、毎日トキメキだらけだったように思う。
帰国後facebookで友人ポチからの質問に
「自分が失ったらいけないものは何?」という項目があったんだけど、
それ、自分の場合は“トキメキ”かな、と。
トキメキって恋愛感情ももちろんあるけど
人間として好きになったり、見た景色にときめいたり、
羊のお尻にキュンキュンしたり、いろんなものにときめくことが
私の中ですごく大切なことなんじゃないかって考えた。
ときめくって言葉を辞書で引いてみた。
“期待や喜びなどで胸がどきどきする”“心が躍る”
ドキドキしたり、ワクワクするようなことが無くなった毎日だったら
楽しくないじゃないか。生きているのに。旅行はドキドキワクワクが倍増する。
しかもツアーは奔流。ときめかない訳がない。
お金に換算するのはえげつないけど、結局自分の勘違いでこの旅に20万という大金を払って良かった、と思う。
旅が終わってからも、ときどき集まって遊んでもらって、ずっとつながっている感じ。
今もすごく楽しい。奔流友達大好きです。
一言で言うと、
奔流中国、ありがとう!!
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一人対一頭
馬は私をドキドキさせるのだ。
自分を乗せて歩き始めたとき、ものすごいスピードで駆け出したとき、馬が止まらないとき、馬上で出発を待つとき、
馬上だけではなく、馬のそばにいるどの瞬間にも心は高揚していた。
一方でケガや死に対しても警戒している。相手は動物なのだから。
調教によってある程度の扱い方や性質は把握できているため、「乗り物」として支配することは可能であるが、自動車や自転車とはわけが違う。個々の性格も違う、替えの部品なんてない乗り物の中では危険性に溢れた存在なのだ。
そんなリスクと同時に、生きた彼らとやりとりにドキドキするのだ。
乗れば彼らが呼吸をし、熱を持っていることがわかる。生きているのだから当たり前なのだけど馬に乗ることが同じ生物とのやりとりであることが実感できて嬉しいのだ。
乗馬キャラバン一向を後ろから眺めていると、一人対一頭とのやりとりが50以上の群れをなして走っている光景は圧巻だった。
もちろん自分の力だけで馬を走らせていたわけではない。馬の習性をよく利用した遊牧民達の下でキャラバンは統率されていた。
遊牧民の人が走りだせばまわりの馬が走りだし私の馬も勝手に走り出す。そんなときはいつもぐっとたずなを後ろに引き、減速の指示をする。 もっと一人対一頭のやりとりをしたいからだ。
群れの後方まで下がったところで走れと馬のおなかを蹴る。「待ってたぜ」と言わんばかりに馬はスピードを上げて駆け出す。
草薮や他の馬に激突しないようにコースを考え指示して、減速させないように馬の跳ねるテンポに合わせて体を動かす。
スピードへの恐怖はいつだってあるけれど、スピードを恐れたら姿勢が乱れて馬の走りを阻害するので走る速度を上げることに集中する。
自分の体が限界を超えたっていいからもっと走れと感じていた。
駆け足の間は否が応でも馬と自分のやりとりが激しくなるのだ。
広い砂漠の真ん中で群れから離れ、物理的にも精神的にも一人対一頭になれる機会があった。
この馬はこの砂漠を抜けるために必要な手段であるし、私は馬にとって最適なルートと走りを選択しなくてはいけないことを感じて馬で旅をしている実感が深まった。
そんなドキドキさせる行動と環境がこの旅に求めていたものなのだ。
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奔流とは (張宇氏のFBより) 奔流は毎回必ずしも同じ形でない。だけど、奔流は目指す形がある。屈折しながらもいつか必ずそれに成るように努力する頑な姿勢が、それが奔流である。 奔流の理解は必ずしも同じものでない。そこにそれぞれ人間の生い立ちがある。だけど、泥でも沼でも、奔流を汚すことができない清らかなところ、それが奔流である。 奔流に求めるものは必ずしも同じものでない。奔流が求められるものを応えるために存在したわけでもない。だけど、奔流は、もっとも大切なものに気づかせてくれる。「人」の中のなにかを呼び起こすことができる。 奔流が必ずしもすべての人は必要とは感じない。大樹でも、野薔薇でも、弱草でも、必要とする人もしない人も居ると同じように。だけど、そもそも奔流がだれかが必要のために存在しているわけではない。奔流は尊厳のために存在している。 奔流は自由である。社会主義の崩壊と同じように、奔流の自由は、人々はより強い人間を目指す、より賢い社会を目指す、ことが絶対必要条件である。だから、自己堕落が奔流じゃない。 奔流はまた必ずしも自由ではない。自由を選択する人には最大の自由がそこにあると同時に、自由を選択しない人にも自由でなくても生きていける道はそこにある。 奔流は、傲慢、貪欲、堕落愛、原始的、保守的、非民主的である。 奔流は、尊厳、渇望、ブラトン式愛、固執、超時代的、反政治的でもある。 奔流は一種の無為の中で為したものである。
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記憶は草原の風のように、砂漠の砂のように消えていく。 もう忘れてしまったことがたくさんある。 音も、景色も、日程も、遊牧民の名前もすべて曖昧になってしまった。 しかし、形のない大きな感動は、今も心に焼き付いて離れない。 いつかまた同じ場所に戻ったとしても、同じ記憶は蘇らないだろう。 生きものは、常に変わってゆくのだから。 人間であっても、動物であっても、植物であっても。 自分が変わる。仲間が変わる。自然は秒単位で移り変わり、二度と同じ景色を作り出さない。 馬と私、息を切らせて駆け抜けた。���おしくなったりいらついたり、まるで人間同士のように。 人間と人間、音楽や景色を通じて、ことばに出来ない感覚を共有した。ぐっと本能的に、まるで動物のように。 まためぐり合うとき、私たちは必ずどこか変化していて、同じような感覚は戻らないかもしれない。 それでもまた、新鮮な喜びを見つけ合えるようなお互いでありますように。 キャラバンは終わらない。
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世界で一番海から遠い場所               
 焚き火を囲む宴会の活気を遠くに聞きながら、地平線の彼方まで広がる草原の暗闇に一人ぽつんと仰向けになり、広大な星空を眺めていると少し離れた暗がりからぬっと人が現れて宴の方へと帰っていった。どうやら用をたしていたようだ。キャラバンの旅では男女問わず青空トイレが基本、とはいえとうとうライトも持たず星の明りのみを手がかりに用を足せるようになったんかぁ、なんてその人の耐性にいたく感服してしまう。しかし暫くしてから「柵の近くでしたから踏まないようにね!」っと大声で後発のトイレ隊に注意を促すのが向こうから聞こえると、ドキっとしながらつくづく思う「ちょっと遠いし汚いが便所はあるからそこでしたらいいのに。」と。言語を絶する大草原、彼方に霞む荘厳なる山々、息をのむ満天の星。ここはバインブルグ、トイレからも最も遠い場所。
 この旅に参加しようとした動機が何だったのか忘れてしまった。というよりそんなもの端からなかったと言ったほうが正しいかもしれない。別段見たいものがあったわけでもやりたいことがあったわけでもない。ただどっかに行きたかった。だから道中で知り合った仲間が堅牢で明確な参加理由を持っていることを知って感心しつつも幾分ばつが悪かった。この旅で生まれて初めて馬に乗った、数日乗っただけでえらそうなことは言えないけれど馬を操ることは自分自身をコントロールすることのように思える。不安や恐怖、焦燥や慢心といった雑念を心から取り去り馬に心を開くことが重要で、それが上手くいかないと馬も言うことをきかない、しゃくしも馬もとはよくいったもの。もしかしたら乗馬は禅のようなもので張宇氏の言う「人馬一体」とはその一つの境地であるのかもしれない。馬との旅はこれまでの自分の旅の中でも最も自己と向き合った旅だったかもしれない。
帰ってきた今、今回の旅を思い返せば旅に出る前に思っていた以上のものを得られたと思う。美しい風景とか異文化体験はもちろん、乗馬の感動、個性豊かな人達との新たな輪、信じられない程険しい山道を車で十時間かけて越えても折れない心、腹ブレーク。キャラバンでは信じられないようなハプニングが平気で起る。追い詰められたら人間誰でも地が出るもんで、そこでホントの自分に気付く。本性を鍛えるには、安全でルーティンな日々や紋切り型の海外ツアーでは決して成し得ない。やっぱり追い詰められなきゃいけないと思う。
驢馬が旅に出たところで馬になって帰ってくるわけではないと言う。例え驢馬は驢馬でもきっと旅に出る前よりもたくましい驢馬になって帰ってくる。そんなお金じゃ買えない価値がある、自分だけの旅は是非奔流中国で。
「驢馬が旅に出たところで、馬になって帰ってくるわけではない。」そんなアイロニカルな
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ren19790209 · 2 years
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スキーとMTBで何度も訪れた白馬岩岳。今日は自分の脚で。 見慣れた景色のはずなのに「ここはどこ?」状態。 アドベンチャー感、楽しいね。 @salomon_japan #trail #trailrunning #trailrun #trailrunner #トレイル #トレイルランニング #トレラン #run #running #ランニング #ランニング好きな人と繋がりたい #ランナー #ランナーさんと繋がりたい #マラソン #長距離走 #トライアスロン #白馬 #白馬村 #白馬岩岳マウンテンリゾート #八方尾根 #スキー場 #salomon #サロモン #トレランシューズ #白馬国際クラシック #model #モデル #エステサロンオーナー (Hakuba) https://www.instagram.com/p/CiOPuOthNJd/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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travel-akikazoo · 2 years
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【TRAILRUN】GOLDEN TRAIL NATIONAL SERIES 白馬国際クラシックのトレイルランニングのレース会場に来ています 明日はRENくんと出ます @ren19790209 #SALOMON #サロモン #トレイルランニング #トレラン #TRAILRUNNING #run #走る #白馬村 #HAKUBA (白馬八方バスターミナル) https://www.instagram.com/p/CiCcyFZOc9m/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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unicodesign · 5 years
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上海建築行脚その2
上海建築行脚2日目。この日は、友のご主人をゴルフ場まで送り届けたあとに、1日車でまわってもらえるとのおとりはからいで、早起き頑張りました!
朝6:45出発。
ゴルフ場は浦東の、割と都心から近いところにあります。そのまわりは、上海では『別荘』と呼ばれる戸建ゾーン。
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1軒10億くらいするんだそうです。中国ではないみたい。
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上海の不動産の高騰はすさまじく、10年で4〜6倍、15年前にくらべたら10倍になっているそうです。マンションは3LDK100㎡で3億くらいが相場だそう。
都心部からは少し離れたこの地域も、浦東国際空港に近いという立地もあって、これから開発されるようです。
私たちは、中心地旧フランス租界に戻って、朝のお散歩@上海瑞金洲际酒店(インターコンチネンタルホテル)
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某映画に出てくるホテル。クラシックでとても素敵。
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おのぼり丸出しで記念撮影
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おー!ここがまさに映画に登場する場所。がしかし。改装中。
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残念。でも喜んでいる。
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そこから、虹口地区、旧日本租界の多倫路へ。
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155棟の住宅と21件の店舗住宅から構成される永安里は1925年から第1期が建ち始め1945年頃に完成したもの。
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路地に入ったら、ずらっと長屋でした。石庫門住宅という旧上海の伝統的な建築様式。
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上海では、1846年から1945年の租界時代に建て始められた、里弄住宅(リーロン)という集合住宅が、租界の拡大に伴い大量に増え、住宅面積の約6割を占めていたといいます。これらは長屋で、メゾネット(2階)、トリプレット(3階)が並んでいる。石庫門住宅は里弄住宅の1形式です。
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イギリスのテラスハウスと中国江南地域の伝統的農家住宅が融合した中西合併様式の里弄住宅、長屋の端部に石の門がついて外部と遮断されているのが石庫門住宅の特徴。
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門の中。
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大きな里弄の中には井戸のある広場があったり、大きなものは幼稚園があったりするそう。
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手を加えながら住んでいるから、サッシュが新しくなっているところがあったり、様子もさまざま。
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路地によって風情が違う。レンガの壁と細ーい路地、ベネチアみたい?何かが違うけど。
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90年代以降、急激な経済の発展で、都市建設が大規模化し、都心部では里弄が取り壊され、高層マンションへと変化したそう。
もともと1家族用だったところに、都市人口の急増によって、3世帯、4世帯と住むようになり、高密化したそう。要はシェアハウスということか。
風情が素敵だなと思いながらまわった長屋が、里弄住宅という上海特有の住宅だったと、ブログを書き始めてから知りました。調べれば調べるほど面白い。次の機会があれば、ゆっくり里弄探索をしてみたいです。
多倫路の門。
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あちこちに銅像。
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中国語堪能な友が、『あれは日本人の作ったものだ』などと、親切なおじさんの説明を聞いてくれている。
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この建物イスラム風で素敵だった。
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魯迅の支援者となった内山完造の内山書店。魯迅は日本留学経験もあり、政情不安定だった当時、日本租界は彼らの避難所の役割もしていたそう。
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朝から散歩続きでおなかもすいたところに、食べたいねーと話していた煎餅(ジェンピン)発見!
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シャンツァイと甘辛味噌と卵と色々くるまれて、ものすごく美味しい!
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小吃(シャオチー)でお腹をみたして、また歩く。前日に友人から聞いた、かつての日本の海軍司令基地を見つける。
1937年11月の上海の崩壊後、上海を統治する日本海軍の中心地となり、日本が1945年8月に降伏した後、中央政府に受け入れられ、上海警察と港湾司令部がの上海港司令部がここに設置された。 1949年5月の上海の解放後、人民解放軍に引き継がれて使用された。ということが書いてありました。
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これがその建物。裏道に碑があります。
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ここから、1933老場坊へ向かいました。
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この建物、1933年にイギリスの建築家によって、建てられた元食肉処理施設、屠殺場。現在は、ギャラリーやショップなどのアートスペースとして使われています。
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こんなかっこよくデザインされた建物が屠殺場?でも牛や馬がわさわさと通れそうな大きな門。
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かっこいい門はおかまいなしに、お食事中のおばちゃんたち。
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中がまたすごい。ブリッジが飛び交っている。1933年のザハハディドか。
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スロープであがる。この傘型の柱が300本あまり、均等に配置され、巨大な建物を支えているそう。
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細い細い階段。
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目をみはるような造形。コンクリートはイギリスから輸入され、壁の暑さは50センチ(日本だと通常20センチとか25センチくらい)、中空構造になっているため断熱性が高く、低い温度が保てるようになっているそう。
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この看板の写真は戻ってきてからひとさまのブログで見つけました。ちょっと拝借。
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これによれば、異なるサイズの牛が異なる幅のブリッジを通過すると書いてある。
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確かに、このブリッジの壁はかなり高い。
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人が立って顔がでるくらい。つまり牛はすっぽり隠れてしまう。
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大喜びで笑っておりますが、屠殺エリアへいく牛が1頭ずつ進むブリッジです。家畜と人間の通路をわけるような機能的な設計とのこと。
橋がたどり着く中央の建物がこちら。屠殺エリアということか。
1933年、86年前のの創造力たるや。
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屠殺場とは、想像が追いつかない。宇宙船みたいだ。
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わいわい言いながら、迷路のような中を巡りました。
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戻って色々調べながら、この中に牛が歩���ている姿を想像するも、なかなかに強烈である。
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中には入れなかったが、広いイベントスペースもあり、まるでベネチア大運河のパラッツォのように外壁の装飾が見える。
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そうこうしているうちに上についた。シェアオフィススペースになっていた。
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デザイン事務所などが入っていました。
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ここから見えるこの景色に感嘆しました!上海の新旧。
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素敵素敵!と写真をとったあのレンガの屋根たちが、里弄住宅だったと、ブログを書いていて気づきました。あの中を探索してみたかった。
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よくみると、この配管はデザインなのか。
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下におりたら、こんなものがありました。
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やはりほんとに屠殺場。
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1934年から屠殺場としての利用開始、1937年に日本軍に押収され、国営の屠殺場に。第二次世界大戦後、上海市都市健康局にわたり、極東地域で最大の屠殺場に拡大、中華人民共和国になった後も、食肉生産と加工の拠点として発展したが、経済発展に伴い、徐々に屠殺場は郊外へ、2002年には完全閉鎖。2006年8月リノベーション工事がスタートし、現在の姿に生まれ変わったそうです。
デザインの斬新さや緻密な設計もさることながら、戦争も超えて、今世紀に入るまでその機能を維持して使われていたことにも驚きました。この20年の上海の変化と成長のすごさを感じる場所、とにかくここは面白かった。
次に行ったのは、黄浦江ぞいの造船所をリノベーションしたアート施設と演劇シアターが入る大型複合スペース『上海船廠1862』、隈研吾氏設計。
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レンガブロックのルーバー。
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巨大でした。飲食店や店舗が並ぶ商業ゾーン。人はまばら。
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ここに船が据え置かれたのかと想像をかきたてる。
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細かい組積と糸?の組み合わせがとても繊細で美しかったホワイエ。
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こちらシアターゾーン。
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造船所のおもかげを残す古い躯体。
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黄浦江側は、飲食店が並び、家族づれがちらほら。
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護岸も整備されているけれど、人の姿なし。暑いからか。
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調べていたら、ネットで元の姿をみつけました。なるほど。躯体以外は様変わりしている。
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1862、上海船廠の創立年。
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ここから浦東のビル群を通過し、外灘を一望できるところへ。前日の晩とは反対側から、外灘の建物を見る。
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このあとランチ。この日は、NPOでご一緒しているメンバーがちょうど上海に出張中ということで落ち合う。
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おしゃべりに夢中で、まともな料理写真をとっていなかったのですが、上海料理、どれも美味しかった。一番右の紅焼肉はとりわけ美味。
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それと上海焼きそば。
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上海姥姥(シャンハイラオラオ)というお店。楽しいひとときでした。柳原さんは、このあと、珠海というところへお仕事に向かわれました。
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私たちは、このあと、証大喜瑪拉雅中心(上海ヒマラヤセンター)へ移動。
磯崎新設計。ホテルや美術館、商業施設が集まった複合施設です。
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土曜日だったせいか、ワンピース展だったせいか、ものすごい人、そして、ものすごく遅いエレベーター、階段とかエスカレーターがあるのかどうかよくわからず、うまく移動できなくて、ややぐったり。
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圧倒的な造形でした。
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2013年オープンとあったから、そう古くもないのだけど、だいぶ痛みが激しかった。中国、メンテナンスの文化はあるのかないのか。
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そのあと、隈研吾氏が内装をてがけた中国発エルメスブランドのSHAN XIAへ。お店の方がぴたーーっとくっついて歩くので、隠し撮りもできませんでしたが、まるで鍾乳洞みたいな空間は、立体成形されたメッシュ状の布でできていました。
この日の建築見学は無事終了。朝早くからよく���りました。その後、田子坊へ移動。
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実はここも、里弄住宅のが更新モデルだそうです。1930年に作られたものを2004年から2008年の間に改造。もともと100戸あった住宅の1、2階を商業空間に更新し、今でも15%は住戸のままだそう。
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広い広い横丁でした。同じお店が何軒もあって、はぐれたら最後、という感じ。
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中国らしい実演販売も。
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お買い物楽しかったです。言葉通じなくても値切れます。しつこくめげずに値切るとさがります。ほんとはいくらなんだか。。。
そして、お食事は北京ダックの名店という『大董』へ。ミシュラン星付きのお店だそうです。
北京ダックひとそろい。
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お店の方が最初にサーブしてくれたのが、ざらめのお砂糖がついたもの。あっというまに口の中でとろけてびっくりしました。
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そのあとは、好きなように包んだり挟んだりしていただきました。香ばしさが忘れられません。
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スープまで。
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他にも、目にも美しいお料理たち。
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甘辛いひき肉のレタス包み。
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黒酢で食べる餃子。
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さすがの名店、おいしかったです。なかなか予約がとれないというお店を予約してくれた友に感謝!!
1日たっぷり建築をみて、美味しいものを食べて、大充実の1日、思い出すたび幸せです。
谢谢大家!
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genron-tomonokai · 5 years
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[友の会メール]『ゲンロン10』サイン本キャンペーン!/ゲンロン友の会9期かけこみ&10期更新受付中!
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[友の会メールvol.329]『ゲンロン10』サイン本キャンペーン!/ゲンロン友の会9期かけこみ&10期更新受付中!(2019年8月27日配信)
 ★noteで読む: https://note.mu/genron/n/n858d66f57782
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こんにちは、スタッフの宮田です。
ゲンロン最新号『ゲンロン10』の発売が近づいてきました。ついに今週校了し、印刷所に入稿します! 友の会の皆様には9月20日に発送予定です。もうしばらくお待ちください。 それにあわせて今回、『ゲンロン10』サイン本キャンペーンを開催します。 ゲンロンショップサイトで9月25日(水)までに『ゲンロン10』をご予約いただいたみなさまに東浩紀のサインがついてきます!
さらにゲンロン友の会に入会するならいま!超お得な「ゲンロン友の会 第9期かけこみ&第10期更新セット」を販売中です。 更新特典の『ゲンロン10.5』も鋭意編集中!ぜひ入会して『ゲンロン10.5』も手に入れてくださいね。 友の会への入会がまだの人はいまがチャンスです!
どちらもお見逃しなく!
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★『ゲンロン10』サイン本キャンペーン実施中!★
批評誌『ゲンロン』第2期リニューアル!その第一弾となる『ゲンロン10』がいよいよ来たる9月下旬に発売されます!
第2期にふさわしい充実の内容! 「投資から寄付へ、そして祈りへ」(家入一真+桂大介 聞き手:東浩紀)や、 東浩紀の4万字超の書き下ろし「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」など、 おおくの新連載、新企画など必見のコンテンツばかりです! 今回から完全リニューアルされた表紙にもぜひご注目ください!
さらに!ゲンロンショップサイトで9月25日(水)までに『ゲンロン10』を ご予約いただいたみなさまに東浩紀のサインがついてくるサイン本キャンペーンを開催します!
また、全国書店発売前にゲンロンショップにてご予約の方は、国内に限り送料が無料となります。 (国外発送は、1冊につき送料1000円を価格に含みます) たくさんのご予約をお待ちしております!
『ゲンロン10』 -ゲンロンショップ https://genron.co.jp/shop/products/detail/236
『ゲンロン10』に収録される、高橋源一郎×東浩紀「歴史は家である」のもとになった対談シリーズ、 「平成のおわり、文学のおわり」に加え、2015年に行われた対談「『論壇』はどこにあるのか 」を 一つにまとめたお得なvimeoパックが登場!
通常レンタル価格¥1,800→¥1,500(購入の場合は¥3,600→¥3,000)とたいへんお買い得です! 『ゲンロン10』発売直前の緊急配信となります!書籍を手に入れる前に、ぜひ実際の対談の模様をお楽しみください!
【ゲンロン10収録!】高橋源一郎×東浩紀「平成のおわり、文学のおわり」シリーズ https://vimeo.com/ondemand/genronbungaku1
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★ゲンロン友の会 第9期かけこみ入会&10期更新セット受付中!『ゲンロン10.5』を手に入れるチャンス!★
ゲンロン友の会の入会を考えているみなさまは、いまがチャンス! 超お得な「第9期かけこみ入会&10期更新セット」を絶賛受付中です!
「第9期かけこみセット」には、以下の特典が含まれます。 ・『ゲンロン10』印刷版&電子書籍版 ・『ゲンロンβ30』-『ゲンロンβ41』電子書籍
もちろん、こちらの商品の『ゲンロン10』も、9月25日(水)までのご予約で東浩紀のサインがついてきます! さらに、第9期から第10期への更新特典として、特別冊子『ゲンロン10.5』(非売品)を進呈! ゲンロンβの特選記事を集めた特装版です。 表紙に使用されている香港の団地写真は大山顕さんです!『ゲンロン10.5』は、ここでしか手に入りませんよ!
友の会第10期では、『ゲンロン11』、「選べる単行本2冊」、『ゲンロンβ42~53』をお届けするほか、 カフェ割引など多様なサービスがついてきます。詳細は以下のページからどうぞ! ゲンロン友の会へのご入会をお待ちしております。
ゲンロンショップ / 【期間限定】ゲンロン友の会 第9期かけこみ&第10期更新セット https://genron.co.jp/shop/products/detail/242
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★大好評イベントの生放送を公開中!ぜひ期限内にご視聴ください!冒頭15分ほどは無料!★
先日8/20(火)、香港の哲学者ユク・ホイ氏をお招きし、ゲンロン叢書002『新記号論』イベント第三弾を ゲンロンカフェにて開催しました! 本イベントは全編英語で行われましたが、大変な好評をいただいております。 視聴起源は8/28(水)まで!こちらぜひお見逃しなく!
◆8/28(水)23:59まで 【生放送】Hidetaka Ishida×Yuk Hui×Hiroki Azuma "Is a Post-European Philosophy of/in Technology Possible?" https://live.nicovideo.jp/watch/lv321143286 ※ご視聴は23:59まで可能ですが、ご購入いただけるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
また8/25(日)には、実に1年6ヵ月ぶり!人気シリーズ「サイバーパンク放談」が開催されました! 冒頭は『天気の子』からMCU、そしてもちろんサイバーパンクの話をたっぷりと! 今回も超充実のイベントとなり、生放送のご視聴も大好評です。 こちらの放送は9/2(月)までご視聴いただけます。ぜひご覧ください!
◆9/2(月)23:59まで 【生放送】佐藤大×さやわか×黒瀬陽平 「サイバーパンク放談 #3 ――海外ドラマ編!」 https://live.nicovideo.jp/watch/lv321281100 ※ご視聴は23:59まで可能ですが、ご購入いただけるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
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★ゲンロンカフェのInstagramは、インスタライブもやってます!★
ゲンロンカフェのインスタグラムも、おかげさまでフォロワーが増えてきました! イベント中の風景や新刊の書影のほかにも、イベントの模様をインスタライブで中継しております!
こちらはニコニコ生放送と同じく、イベントの冒頭15分ほどを配信しております。 イベントの日は、ぜひインスタグラムを覗いてみてくださいね!
https://www.instagram.com/genroncafe/
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★『テーマパーク化する地球』全国書店にて発売!電子書籍版も!★
ゲンロン叢書 第3弾 東浩紀著『テーマパーク化する地球』は好評発売中です! さらに、電子書籍版も販売中!ぜひご一読ください!
ゲンロンショップ [物理書籍版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/224 [電子書籍(ePub)版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/228
アマゾン [物理書籍版] https://amzn.to/2XvICFV [電子書籍(Kindle)版] https://amzn.to/2Ik7Emd
『テーマパーク化する地球』特設ページはコチラ! https://genron-tomonokai.com/themepark/
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★『新記号論』大好評発売中! Kindle版が値下げキャンペーン中!★
『テーマパーク化する地球』発売を記念して、『新記号論』Kindle版を値下げキャンペーン! 通常価格より524円お得な2,500円(税込み)に! [Amazon] https://amzn.to/2JgQlln
『新記号論 脳とメディアが出会うとき』特設ページはコチラ! https://genron-tomonokai.com/shinkigouron/
『新記号論』のベースとなった石田英敬氏によるゲンロンカフェのイベント全3回のVimeoアーカイブ動画を、 お得なセットで販売中! 通常レンタル価格¥1,800→¥1,500(ご購入は¥3,600→¥3,000)とたいへんお買い得です!
書籍と相互補完する超充実の内容です。お見逃しなく! https://vimeo.com/ondemand/genronshinkigou
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それでは以下、今週のカフェ&編集部からのお知らせです。
◆◇ ゲンロンカフェからのお知らせ  ◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◇◇ 発売中の会場チケット ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆8/30(金)19:00- 古田徹也×山本貴光 「言葉を選び取る責任について ――古田徹也『言葉の魂の哲学』をめぐって」 ☆会場参加: https://peatix.com/event/1141877 ☆放送視聴: https://live.nicovideo.jp/watch/lv321281148
◆9/3(火)19:00- 川内有緒×小松理虔 司会=瀬下翔太 「百年後に残るアートを巡る旅 ――『新復興論』刊行1周年記念イベント」 ☆会場参加: https://peatix.com/event/950528 ☆放送視聴: https://live.nicovideo.jp/watch/lv321473469
◆9/4(水)19:00- 糸谷哲郎×大井昌和×棋見理と 「なぜ将棋マンガは面白いのか? ――隠れた一大ジャンルの魅力を徹底検証!」 ☆会場参加: https://peatix.com/event/1208195 ☆放送視聴: https://live.nicovideo.jp/watch/lv321382769
◆9/10(火)19:00- 円堂都司昭×速水健朗 「悪夢の現実と対峙する想像力 ――円堂都司昭『ディストピア・フィクション論』刊行記念」 ☆会場参加: https://peatix.com/event/1059025 ☆放送視聴: https://live.nicovideo.jp/watch/lv321473604
★新着イベント!★ ◆9/16(月祝)12:30- 講師:黒瀬陽平×梅沢和木×藤城嘘 【ゲンロンこどもアート教室 #28】 「おばけやしきをつくろう! ――第8回 百鬼夜行を起こす」 ☆参加チケット: http://ptix.at/3mHDu5
★新着イベント!★ ◆9/18(水)19:00- 小泉悠×真野森作 「ロシアにとって国境とはなにか:ウクライナから北方領土まで ――『「帝国」ロシアの地政学』刊行記念」 ☆会場参加: http://ptix.at/palZza ☆放送視聴: https://live.nicovideo.jp/watch/lv321597487
★新着イベント!★ ◆9/23(月)19:00- 今泉力哉×青柳文子×渡邉大輔 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #21】 「『アイネクライネナハトムジーク』映画公開記念イベント ――ポスト映画論講義 #7」 ☆会場参加: http://ptix.at/us7fRb ☆放送視聴: 準備中
◇◇ 今週・来週の放送情報 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆8/28(水)18:00- 【再放送】筆保弘徳×山口宗彦 「台風についてわかっていることいないこと ――台風研究の最前線」 (2019/2/26収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321372646
◆8/29(木)13:00- 【再放送】大澤聡×山本貴光 「ほんとうの本の読みかた ──『百学連環』から知を再編成する」 (2016/10/28収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321372863
◆8/29(木)18:00- 【再放送】伊勢田哲治×三中信宏 司会=山本貴光 「科学と科学哲学 ――はたして科学に哲学は必要なのか?」 (2019/2/22収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321373079
◆8/30(金)13:00- 【再放送】菊地成孔×佐々木敦 「音楽/時/空間」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #10】 (2018/8/30収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321373230
◆8/30(金)19:00- 【生放送】古田徹也×山本貴光 「言葉を選び取る責任について ――古田徹也『言葉の魂の哲学』をめぐって」 https://live.nicovideo.jp/watch/lv321281148
◆9/3(火)19:00- 【生放送】川内有緒×小松理虔 司会=瀬下翔太 「百年後に残るアートを巡る旅 ――『新復興論』刊行1周年イベント」 https://live.nicovideo.jp/watch/lv321473469
◆9/4(水)19:00- 【生放送】糸谷哲郎×大井昌和×棋見理と 「なぜ将棋マンガは面白いのか? ――隠れた一大ジャンルの魅力を徹底検証!」 https://live.nicovideo.jp/watch/lv321382769
◆9/5(木)13:00- 【再放送】速水健朗×東浩紀 「新・東京から考える」 (2016/7/8収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321675305
◆9/5(木)18:00- 【リクエスト再放送】大澤真幸×吉川浩満 「社会学という物語について ――『社会学史』刊行記念特別講義」 (2019/7/5収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321675571
◆9/6(木)13:00- 【再放送】松永天馬×姫乃たま×吉田豪 「SNSとアイドルのゆくえ ――サブカル新時代の生き残り戦略会議」 (2018/6/28収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321675872
◆9/6(木)13:00- 【再放送】武富健治×切通理作 司会=さやわか 「神話、英雄、異形 ――『古代戦士ハニワット』単行本発売記念イベント」 (2019/6/18収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321676271
◇◇ 現在視聴可能なタイムシフト ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆8/28(水)23:59まで 【生放送】Hidetaka Ishida×Yuk Hui×Hiroki Azuma "Is a Post-European Philosophy of/in Technology Possible?" https://live.nicovideo.jp/watch/lv321143286
◆8/28(水)23:59まで 【再放送】片山杜秀×岡田暁生 司会=山本貴光 「クラシック音楽から考える日本近現代史 ──『鬼子の歌』刊行記念イベント」 (2019/5/14収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321371714
◆8/29(木)23:59まで 【再放送】さやわか×ばるぼら 「今からでも間に合う! 正しい渋谷系入門」 【さやわか式☆現代文化論 #26】 (2016/06/23収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321371821
◆8/30(金)23:59まで 【再放送】佐藤大×さやわか×東浩紀 「サイバーパンク・リバイバル ──復活した没入(ジャック・イン)的想像力とその可能性」 【さやわか式☆現代文化論 #30】 (2017/8/4収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321372020
◆8/30(金)23:59まで 【再放送】佐藤大×さやわか×東浩紀 「サイバーパンク放談 #2 ──『ブレードランナー2049』は傑作なのか、あともろもろ」 (2018/2/9収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321372339
◆9/2(月)23:59まで 【生放送】佐藤大×さやわか×黒瀬陽平 「サイバーパンク放談 #3 ──海外ドラマ編!」 https://live.nicovideo.jp/watch/lv321281100
◆9/3(火)23:59まで 【再放送】糸谷哲郎×佐藤天彦×戸谷洋志 「将棋、哲学、人間(あるいは人工知能) ――『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』刊行記念」 (2019/2/25収録) https://live.nicovideo.jp/watch/lv321372505
※ご視聴は23:59まで可能ですが、ご購入いただけるのは視聴終了日の18:00までです。ご注意ください。
◇◇ 今週のおすすめアーカイブ動画 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆【vimeo】清水亮×夏野剛×東浩紀 「男たちが語るトニー・スターク ──男たちが語る映画シリーズ #3」 https://vimeo.com/ondemand/genron20180918 (2018/09/18収録)
◆【vimeo】黒瀬陽平×坂上秋成×さやわか×梅沢和木 「平成にとって東浩紀とはなんだったのか? ──『ゆるく考える』刊行記念! 東浩紀本人は海外出張中なので思いの丈を語るイベント」 https://vimeo.com/ondemand/genron20190325 (2019/03/25収録) ※以上2つの番組は、以下のお得なパックにも収録されています。 ◆【vimeo】「合計ほぼ24時間! 怒涛の長時間イベント」パック https://vimeo.com/ondemand/genronlong
★『ゲンロン10』発売直前!緊急セット配信!★ ◆【vimeo】高橋源一郎×東浩紀「平成のおわり、文学のおわり 」シリーズ https://vimeo.com/ondemand/genronbungaku1 ※こちらの動画パックの収録内容は以下の通りです。 1.高橋源一郎×東浩紀 「『論壇』はどこにあるのか」 単品販売: https://vimeo.com/ondemand/genron20150710
2.高橋源一郎×東浩紀 「平成のおわり、文学のおわり」 【ゲンロンカフェ at VOLVO STUDIO AOYAMA #9】 単品販売: https://vimeo.com/ondemand/genron20180730
3.高橋源一郎×東浩紀 「平成のおわり、文学のおわり #2 ──『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』刊行記念対談」 【ゲンロンカフェ@VOLVO STUDIO AOYAMA#13】 単品販売: https://vimeo.com/ondemand/genron20181128
★ゲンロンカフェ Vimeo On Demand 公開動画一覧 https://genron-tomonokai.com/vimeo/
◆◇ 五反田アトリエからのお知らせ  ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
ゲンロン カオス*ラウンジ 五反田アトリエでは、次回展示企画の準備中です。 9月からは新芸術校の受講生の展覧会がいよいよ始まります。 五反田アトリエの最新の展覧会情報やアーカイブは、カオス*ラウンジの公式webサイトをご確認ください。 http://chaosxlounge.com/
(藤城嘘/カオス*ラウンジ)
◆◇ 編集部からのお知らせ  ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇
★『ゲンロン10』サイン本キャンペーン実施中!★ ゲンロンショップサイトで9月25日(水)までにご予約いただいたみなさまに 東浩紀のサインがついてくるサイン本キャンペーンを実施中! たくさんのご予約をお待ちしております!
『ゲンロン10』 -ゲンロンショップ https://genron.co.jp/shop/products/detail/236
★『ゲンロン観光地化メルマガ』セットで発売中!★
『ゲンロン観光地化メルマガ』は、東浩紀を編集長に、株式会社ゲンロンが2015年5月まで発行したメールマガジンです。 創刊時は別名称だったため、ナンバリングは#12からとなります。 現在ではリニューアルし、月刊の電子批評誌『ゲンロンβ』として刊行を続けています。 読者のみなさまの復刊希望の声にお応えし、『ゲンロン観光地化メルマガ』のEPUB版をセットにして 1080円(税込)にて販売いたします。
※配信当時のファイルをそのまま販売しておりますので、表示の不具合・リンク切れ等がございます。あらかじめご了承ください。
『ゲンロン観光地化メルマガ』セット1(#12-17) https://genron.co.jp/shop/products/detail/237
『ゲンロン観光地化メルマガ』セット2(#18-22) https://genron.co.jp/shop/products/detail/238
『ゲンロン観光地化メルマガ』セット3(#23-27) https://genron.co.jp/shop/products/detail/239
『ゲンロン観光地化メルマガ』セット4(#28-32) https://genron.co.jp/shop/products/detail/240
『ゲンロン観光地化メルマガ』セット5(#33-37) https://genron.co.jp/shop/products/detail/241
★東浩紀『テーマパーク化する地球』好評発売中!
批評家として、哲学者として、そして経営者として、独自の思索と実践を積み重ねてきた東浩紀。 その震災以降の原稿から47のテクストを選び出し、「世界のテーマパーク化」「慰霊と記憶」「批評の役割」を軸に配列した評論集。 ゲンロンショップ [物理書籍版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/224 [電子書籍(ePub)版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/228
アマゾン [物理書籍版] https://amzn.to/2XvICFV [電子書籍(Kindle)版] https://amzn.to/2Ik7Emd
→試し読みページはこちら! https://genron-tomonokai.com/themepark/no1/
★『新記号論 脳とメディアが出会うとき』Kindle版値下げキャンペーン開催中!
『テーマパーク化する地球』発売を記念して、『新記号論』Kindle版は通常価格より524円お得な2,500円(税込み)に! [Amazon Kindle版] https://amzn.to/2JgQlln
以下はゲンロンショップサイトのリンクとなります。 「脳とメディアが出会うとき――記号論は新たに生まれ変わる!」 [物理書籍版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/215 [電子書籍版] https://genron.co.jp/shop/products/detail/220
→試し読みページはこちら! https://genron-tomonokai.com/shinkigouron/no1/
★『マンガ家になる!――ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録』絶賛販売中! 絵がうまいだけじゃダメ、マンガが描けるだけでもダメ。業界騒然のマンガ家育成講義録! https://genron.co.jp/shop/products/detail/193 →試し読みページはこちら! https://issuu.com/genroninfo/docs/20181125/16
★小松理虔『新復興論』絶賛販売中! 第18回大佛次郎論壇賞受賞! 「課題先進地区・浜通り」から全国に問う、新たな復興のビジョン! https://genron.co.jp/shop/products/detail/178 →『新復興論』特設ページはこちら! https://genron.co.jp/books/shinfukkou/
★毎日出版文化賞受賞&朝日新聞社「平成の30冊」第4位!『ゲンロン0 観光客の哲学』絶賛販売中! https://genron.co.jp/shop/products/detail/103 →『ゲンロン0』特設ページはこちら! https://genron-tomonokai.com/genron0/
★友の会第9期への新規入会を受付中! https://genron.co.jp/shop/products/detail/183
◆「ゲンロン友の声」サイト、質問募集中です! 知られざるTumblrサイト「ゲンロン友の声」では、友の会会員のみなさまからお寄せいただいたご意見・ご質問に対して、 東浩紀をはじめとするスタッフがお返事を差し上げております。 また、ゲンロンnoteも開始いたしました。noteにも「ゲンロン友の声」を掲載していきます。
最新の記事は、「なぜ日本を良くしたいと思うのですか?」です!ぜひご一読ください! Tumbler: https://tmblr.co/Zv9iRg2jSJRVv note: https://note.mu/genron/n/n2334f1d7c37c
ご要望などもお気軽に! ゲンロン友の声 Tumbler: http://genron-voices.tumblr.com/ genron note: https://note.mu/genron
◆◇ 東浩紀 執筆・出演情報  ◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆『AERA』の巻頭エッセイコーナー「eyes」に、東浩紀が連載中! 最新の記事は、東浩紀「京アニ事件には憎悪ではなく穏やかなやさしさを」です。 https://dot.asahi.com/aera/2019080700017.html
これまでの記事は朝日新聞のウェブサイト「.dot」で全文をお読みいただけます。 https://dot.asahi.com/keyword/%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80/
◆『週刊読書人』(第3302号)に、東浩紀ロングインタビュー「ユートピアと加害の記憶」が掲載されました。 『テーマパーク化する地球』や、『ゲンロン10』リニューアルにまつわる話が書かれています。ぜひご一読ください。 https://dokushojin.com/article.html?i=5821#tokushuu1
◆河出書房新社より東浩紀『ゆるく考える』発売中! いつの間にか中小企業ゲンロンのオヤジ経営者になっていた。 人生の選択肢は無限だ。ゆるく、ラジカルにゆるく。東浩紀のエッセイ集! http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309027449/
◆◇ その他のお知らせ ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
◆友の会会員のみなさまへ
<クラス30以上の座席確保サービスについて> ご好評いただいております座席確保サービスですが、 お席の希望のご連絡を、当日16:00までに いただけますよう、よろしくお願いいたします。
<登録情報の変更について> お引越しなどの理由で、ご登録いただいている住所や電話番号、 メールアドレスなどに変更があった方は、 友の会サイトのフォームから申請をお願いいたします。
会員サービスページ https://genron-tomonokai.com/service/
※株式会社ゲンロンは、土曜、日曜は休業日となっております。 営業時間は、11時-20時です。 営業時間外のお問い合わせは、お返事が遅くなる場合がございます。 ご了承くださいますよう、お願いいたします。
◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆ーー◇ーー◆
株式会社ゲンロン 〒141-0031 東京都品川区西五反田1-16-6 イルモンドビル2F tel.03-6417-9230 / fax.03-6417-9231 http://genron.co.jp Twitter:@genroninfo
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daisukeendo · 5 years
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旅雑記キューバ編
早朝、まだ真っ暗なうちにカンクン空港へホテルゾーンからタクシーで移動。ホテルゾーンはuber使えないから予め発注しておいたエアポートタクシー。
メキシコを出国し、何かと話題のボーイング737maxにてキューバはハバナへ。飛行時間1時間ちょい。LCCのまずいクッキーとジュースを飲みながら着陸。
もともと軍の飛行場だったホセマルティ空港。
首都の空港だと言うのにターミナルも少なく老朽化著しかった。当然、大型機の着陸は不可能。���ニスカの空港職員に目移りしながらイミグレを通過。
不安だったATMも空港にあった。おろし過ぎて使い残してもキューバの紙幣を円に両替なんか帰国してからできない。街中にATMかある保証はなかったが、一か八かとりあえずの金額だけおろした。社会主義の国でネットがろくに使えないので、国の電話会社が提供するWi-Fiサービスを使う為に電話屋へ向かいWi-Fiのカードを買う。1時間1cuc(1ドル)で、とりあえず5時間分を購入。
当然ネットが普及していないので、uberなんかないしあっても使えない。
空港のタクシーはどこの国もそうだが、定額の場合にはなかなかの値段に設定されている。
このキューバの場合にも例外なく。そもそもメーターなんかないので交渉だ。市内まで20cuc。少し歩けば50円程のローカルバスはある。午前中だが日差しは暑い。
迷った挙句に、タクシー乗り場でタバコを吸いながらコレクティーボ(乗り合い)での交渉をドライバーや1人のバッパーに行った。セダンなら値段は1/4になるし、ワゴンなら1/10くらい。
数分後、タバコを吸い終わる頃に1人のイケメンドライバーと交渉成立。タクシーの中には既に白人女性が2人乗っている。
さあ、ハバナよ俺をがっかりさせないでくれ。
市内にはあちこちにカストロとゲバラの肖像画や壁画が。
小さな島国、ハバナは海沿いの街。潮風に耐え得る石造りの建物が目を惹く。弾痕の残る建物もちらほら見える。冷戦時代の革命戦争の名残り、50年前のクラシックな車が走り、半世紀前から街の様子は変わっていないようだ。
宿はアメリカ系のブッキングができなかったのでairbnbでホームステイを選択。
ハバナはマレコン地区に宿を構えて、ひたすらぷらぷら。観光とかあんま興味ないから、ビール飲みながら海沿いのベンチで昼寝したりだらだらして過ごした1日目。しかしまあ、飯がまずい。美味しい物は美味しいんだけど、何というか素朴な味。
仲良くなった馬車引きのカルロスに裏ルートの葉巻を譲ってもらう。
いいネタは現地で消費するからお土産のは粗悪品なんだと。ほんとかよw
2日目には少し観光はしつつ、相変わらずだらだらする。革命軍がハバナ入城した際にバティスタ軍が残した砲台とか、要塞とか見た。革命広場も。
ビール、昼寝、水、散歩。
こんな感じのハバナ。どの国行っても観光地は人ゴミであんまり好きではない。それなら現地でだらだらする事で人の流れや生活が見えるので、その方がその国の事がわかるので歴史とかよりもずっと自分には興味深い。
メキシコの博物館なんか、大陸跨いだからなんか面白いかなと思ったけど日本のそうゆう類と何ら変わりはなかったし。
日本の高床式やっぱすげーな、みたいな。確認ね。
宿のジェニーと最後の夜、ベランダでタバコを吸って騒がしい海沿いを見つめてたら星がめっちゃ綺麗で、なんかウケた。ゲバラもゲリラ戦の時に森の中でこの空を見ていたのかと、感慨深くなった。話は変わるがキューバは女性が強い。人種も様々だが価値観も多様なようで、先進国に比べて女性の喫煙率の高さに驚いた。そしてよく怒る。笑う。踊る。喋る。エロい。
3日目の昼、ジェニーにお別れをしてバスターミナルまでのタクシーを捕まえる。
が、80くらいのじーさん、速度が20キロくらいで遅い遅い。見事に逃すバス。仕方なくつぎのバスを待つ。しかし、予約無しの為に席があるかわからないと。とりあえず並ぶ事1時間。たまたま居合わせた日本人の男子2人組は痺れを切らして列から外れて乗り合いタクシーの交渉を始めた頃にバスが到着し予約客が乗り込む。余った席が当日席だ。なんとか乗車して、向かうはバラデロ。キューバ有数のリゾート地。
バスはひたすらさとうきび畑を抜けて海沿いを走りいくつかの街を越える。
エアコンが効きまくってたのでユニクロダウンで寒さを凌いで昼寝から覚めた頃、海の色は澄んだ���いブルーに変わっていた。バラデロ���。
コロンブスが愛してやまなかったバラデロ。アメリカ人達がいた頃の別荘地だが、キューバ危機の時に全てのアメリカ人はここバラデロからマイアミに亡命した。マイアミの海岸までは直線距離で200キロ程。
その当時の煌びやかな別荘がキューバ人の住まいとなり現在ではホームステイや宿として機能している。
ハバナ以上に不便だったのが、レストランや商店の数が悲劇的に少ない。あっても品揃えもなく管理も悪い。
ここでは砂浜のビーチでひたすらだらだらした。体を焼いてみたり、本を読んでみたり、海へダイブしてみたり。バラデロの住人も毎日朝から酒を飲んでいる。仕事はなんなのだ彼等の。
初日は宿のサンドロと息子と遠い日本の話とかしながら夜を更かした。宿と言っても普通の家の一室。使用感のあるレモンの石鹸が洗面所にあって、シャワーは出が悪い。
2日目にはバラデロ半島の先っぽまで馬に乗って行った。途中ハンバーガー食いながらビール飲んだり。日本人は1人も会わなかった。むしろアジア人に会わなかった。メキシコで鬱陶しいくらいの中国人もここでは皆無。あー楽し。
ライターが水没してタバコに火をつける文明の力がない。通りすがりの青年に種火を借りたりして夕方宿近くの売店でライターを買う。しかし、ライターくれと頼むとレジ横のビニール袋からゴソゴソときったねえライターを見せながらどれにする?と。新品ねーのかよw 1cucとられた。高えな。
この日の夕飯はイタ飯でパスタを食べた。
しかし量も味もバランスが悪くて結局ハンバーガー食べた。本当に飯がまずい。まずいと言うか優しすぎる味なのだ。
そんなこんなで夜は翌日の移動手段について考えながら犬と庭で戯れつつ、サンドロに相談。初日に到着したバスターミナルで帰りのチケットを購入しようとしたが1日4便のバスは既に満席。
サンドロは知り合いのタクシードライバー何人か電話してくれたが、都合がつかない。
コレクティーボと呼ばれる相乗りタクシーでハバナへ帰るしかない。捕まらなかったら困るので、朝イチでバスターミナルへ行き自分と同じ境遇の旅行者を見つけてシェアも試みる。
翌朝、朝飯も食わずに良好な日差しを浴びながらバスターミナルへ向かう。バスターミナル手前の草むらで昼寝する爺さん。タクシードライバーだ。
1人のバッパーを見てニコニコする爺さん。乗るか?ハバナか?と。一台チャーターするお金はないと伝えると、どうやら2人客が決まってて迎えの時間までの間まで昼寝してたらしい。ナイスタイミングだ。いくらだと聞くといくらだと聞き返すw2人から充分な報酬貰うからなんならタダでいいよと。まじかよでも悪いから5cuc払う事で交渉成立。
意気揚々と爺さんエンジンかけてクライアントの元へとりあえず向かう事に。すぐ着いて談笑しつつヌルいコーラをいただく。
彼の名はマルセリーノ。御年64歳この道30年。娘が2人。ムチムチのキューバ美人嫁にどうだとかまされる。いらねーわ
そうこうしてるうちに宿から2人組のヨーロッパ人。適当に握手して自己紹介したが道中寝てたので忘れた名前と国。
途中休憩挟んだりして、ハバナまで3時間くらいかな?マルセリーノはよく喋る。ハバナの観光地を勝手に回り出したドヤ顔で。
片手運転してみたりドリフトしてみたり。
本当、キューバ人って陽気。呑気。
空港に早く着いて、チェックインまで葉巻吸ったりハムサンドと言う名のサラミパンをかじる。キューバペソは持ち帰っても両替できないので、使い切る。
さあいよいよ北米後半戦。アメリカは西海岸へ突入。
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tensyoku30 · 5 years
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ヴィクトリアマイル 有力馬考察 ・アエロリット 東京マイルに相性の良いクロフネ産駒で、実際に3歳時は牡馬相手にNHKマイルCを制して、4歳時はヴィクトリアマイルこそ落鉄の影響もあり4着でしたが、安田記念ではやはり牡馬相手に2着と結果を出しています。 この馬の特徴として分かりやすいのが、輸送に弱いということで、これまで関西圏でのレースでは上位人気に支持されるも一度も馬券に絡めていません。 そういう意味では前走の米国遠征は、ある意味納得の結果��もしれません。 ホームグラウンド戻りの今回、普通の状態であれば上位に食い込んで来ておかしくない馬ですが、海外遠征帰りの影響がどこまであるかでしょうか。 ・ラッキーライラック 最優秀2歳牝馬で、クラシックは最早歴史的名馬であるアーモンドアイの存在もあり無冠に終わりましたが、秋華賞では、自身も脚部不安から急仕上げによる影響で惨敗しました。 明け4歳初戦の中山記念では豪華メンバー相手に、しっかり立て直されて僅差の2着し、改めてポテンシャルの高さを見せつけました。 その走りから前走の阪神牝馬Sでは圧倒的支持を受けるも、直線では終始ヨレて石橋Jも真っ直ぐ走らせることに苦心するほどで惨敗。 オルフェ産駒らしか気の難しさを見せた格好となりました。 こういう馬はリフレッシュした状態のほうが走るように思いますし、続戦のここで能力を出し切れるかでしょう。 ・ミッキーチャーム 秋華賞ではアーモンドアイを相手にあわやの2着し、3歳夏からの成長をみせつけ、明け4歳初戦の前々走の中山牝馬Sでは最下位に沈みましたが、前走の阪神牝馬Sでは一変し、好位から直線で先頭に踊り出ると、僅差ながら後続を抑え込む勝負根性を見せました。 ダノン(ミッキー)+川田J+中内田厩舎の成績が良いので、普通に人気するでしょう。 ただし、中山牝馬Sで崩れた理由が輸送の影響の可能性があるのが気がかりですね。 ・レッドオルガ 東京新聞杯で牡馬相手に2着し、回顧で以下のように記載しました。 『ヴィクトリアマイルでも十分やれそうですし、他の出走馬の兼ね合いによってですが、メンバー手薄なら普通に上位人気、相手が揃ったとしても穴人気するでしょうね。人気してもこの馬は絶対抑えたほうが良いですね。』 とにかく左回り、特に東京では走る馬です。 末脚は確実で、不得手右回りのターコイズSや阪神牝馬Sで、それぞれ着順は6着、7着でしたが、着順ほどタイム差はなく、得意の東京に替わるここはチャンス十分です。 ただし、兄弟は皆、東京で実績を出していますが、忘れた頃に人気薄で食い込むイメージ。 回顧で人気でも抑えたほうが良いと記載したものの、あまりにも人気するようだと正直食指は動きません。 5〜6番人気くらいだと買いやすいのですが。 ・プリモシーン 持っている末脚は確かなものがあります。 恵量だったとはいえ、3歳夏の時点で古馬牡馬混合の関屋記念を制しています。 NHKマイルCも上がり2位の脚で追い込んでいるように、脚質的にも広いコースのほうが伸び伸び走れるでしょうし、東京コース替わりはプラスのはずです。 そういう意味では、秋華賞、ターコイズSもコース適性が無かったと思えますし、その中で前走ダービー卿CTで2着は健闘でしょう。 コース替わり含めて上積みが多そうですが、NHKマイルCは直線入った時点で内に閉じ込められており、外に出した時にはケイアイノーテックの後ろに位置して差し遅れたところがありますので、内枠だと二の舞になりそうな気もします。 外めの枠に入り人気もそこそこなら狙って面白そうです。 いつもありがとうございます。 Source: 腹八分目予想 -競馬好き!!-
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tomonarihigaki · 5 years
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音楽創作ワークショップ「音と形〜書画技法による図形楽譜作曲入門」
 このテキストは、2018年11月2日に天理市立櫟本小学校で行った音楽創作ワークショップ「音と形〜書画技法による図形楽譜作曲入門」の実施報告である。
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概要
 専門の声楽家との共同作業による音楽作りと書画をつなげたワークショップである。書具を用いたグラフィカルな楽譜制作、あるいは、文字による指示によるソロボイスのための作曲/演奏指示に挑戦する。このワークショップでは、楽譜に書かれたものをすぐに演奏できたり、助言を与えたりできる専門的な声楽家あるいはボイス・パフォーマーの協力が必要である。そこで本アウトリーチはクラシック音楽の声楽家で現代音楽の演奏を中心とする国際的に活躍する太田真紀さんをお招きし、イケモトタツヤ先生と私の3人体制で実施した。
対象:天理市立櫟本小学校5年3組 人数:20名(男子12人・女子8人) 実施日:2018年11月2日(金) 時間:5・6校時(1時間30分程度) 準備:書具と半紙 授業提案者:イケモトタツヤ(天理市立櫟本小学校教諭) 講師:檜垣智也(作曲家)、太田真紀(声楽家) スタッフ:永松ゆか、牛山泰良(撮影記録担当)、中馬麻沙子(アシスタント)
目的
 いわゆる通常の音符で音楽を記すのではなく、形と文字による演奏指示を考案して半紙に書画として書く。こうすることで五線記譜法に代表される従来の音楽スタイルにとらわれず、また音楽理論や演奏技術を必ずしも必要としないため、音楽創作の面白さをだれでも体験できるようになる。また今回は書具を用いて楽譜を制作するが、それは文字をそのまま写す書写(習字)から、書の造形的あるいはデザイン的な側面を理解するきっかけにもなる。つまりワークショプで半紙に描かれる形や文字は演奏方法を示す楽譜であると同時に、自由な書画でもある。今回は聴覚的表現としての音楽と視覚的表現としての書を結びつけたワークショップであるが、このように複数の異なる感覚をつなげることを通じて、クロスモーダルな表現を理解する導入として位置付けることもできるだろう。
ワークショップの流れ
①形や文字で伝える演奏指示の様々な方法を、楽譜と実演を照らし合わせながら紹介する。
 ドレミがあるような普通の歌ではなく、声の外形的特徴(なめらかな音の高さと強さの変化や音の長さなど)、生理的な表現(叫び声、うめき声、ため息など通常の歌声では使用しない発声の仕方)、発音(意味をもたない音、意味をもつ言葉など)など、声によって表現できる様々な音響表現にスポットをあてた音楽創作ついて理解する。
参考作品の例
ジョン・ケージ John Cage「アリア Aria」(1958) 線と点、形などによる図形楽譜
キャシー・バーベリアン Cathy Barberian「ストリプソディ Stripsody」(1966) イラストと文字デザインによる図形楽譜
檜垣智也 Tomonari Higaki「オラクル Oracle」(2013) 五線記譜法をベースにした線と様々な点の形状による例
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ワークショップ参加者による実例(天理市立櫟本小学校の児童による) 実際の書画による例
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②子どもたちが半紙に演奏指示を書き、講師が歌う。
 半紙に演奏指示を書く。書けたら読み方や表現したい内容を、講師に説明し歌ってもらい、アドバイス���もらう。半紙の置き方は縦横自由、筆の太さも自由とし、通常の書具の用い方とは違うことを示す。演奏指示の具体的な方法を、次に示す1.基本、2.応用、3.発明の順で考えさせることで、図形による演奏指示の可能性を理解させる。また、より伝わる演奏指示になるように、自ら声を実際に出しながら考えさせる。書いた演奏指示に対して講師はアドバイスをし、修正したり新たに書き直したりさせる。またいろいろな演奏指示を発明するように促す。
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写真:講師がみんなの前で歌い、演奏指示の特徴を解説する。
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写真:ワークショップ参加者に書き上がった演奏指示を説明してもらい、講師がアドバイスをする。
演奏指示の具体的な方法
a. 基本 以下の2つの点をまず基本的な表現の方針として紹介する。
筆跡とその空間的位置によって、音の高さの変化と時間の推移が表現できること。
筆跡の長さで音の長さ、太さで音の強弱が表現できること。
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b. 応用 次に声色、歌いまわし、発音、ニュアンスなど、より具体的な指示について検討する。
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c. 発明 様々な表現を自由に発明する。うまく書けない場合は、講師に口頭や口真似で伝え、講師とともに考える。
解釈の例
 上記の演奏指示の指針に従って、図形、イラスト、テキストをによる図形楽譜の解釈は行われる。以下に解釈の方法を示す。あくまでも一例であるので、囚われすぎず、どのように解釈できるのか参加者と講師が相談を重ね、真の意図を引き出すことが肝要である。
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図形楽譜の解釈の例1
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図形楽譜の解釈の例2
③半紙をつなぎ合わせて一つの作品を作る。
 半紙をつなぎ合わせ、一つの作品を作る。音のつながりや展開を予想しながら半紙を並べて構成し、流れのある作品に仕上げる。グループ制作なら統一感のとれた作品にするために、テーマや方法を話し合いながら決める。横に並べるだけでなく、半紙の向きの変更、反復の導入、演奏方法の変化など、より効果的な構成になるように考える。具体的にどのように演奏すればよいか講師と確認する。
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写真:グループで話し合って内容を決める。
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写真:半紙の向きを工夫してつなげている。
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写真:どのように歌うか講師に説明する。
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写真:演奏方法を講師と相談してその場で決めていく。※左のメモに注目
④講師が通奏し、感想を交流させる。
 講師が通奏し、みんなで聴く。ワークショップ参加者で感想を交流したり、音楽的、書的な観点から講師がコメントすることでまとめとする。
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歌っている部分を指差ししなが通奏することで、図形楽譜と音の関係を理解しながら聴く。
子どもたちの感想から
太田さんのすごく高い声を初めて聴いた時は、本当にビックリした。 グループで考えあったものに合わせて太田さんが声を出してくれま した。自分たちが考えた以上にすごかったです。初めて作曲家や歌手の人たちと学習ができてよかったです。
絵や文字を自由に書いて音を出す授業をしました。自分は絵が下手やからほんと面白い授業でした。録音したりビデオをとったりし ていたので、ちょっときんちょうしました。
私たちのグループは「ひまわりんどうるしダ」を作りました。檜垣さんに「どういうこと?」と聞かれて、友達が「しりとり」と答えるとわかってもらえたのでうれしかったです。細かい歌い方は黒板に書いてもらいました。絵や文字を自由に書いて音を出す授業をしました。
図形楽譜。そんな楽譜があったなんてしょうげきでした。なぜなら、絵だけでかくと、それぞれ歌い方が違うと思うし、伝わりにくいと 思ったからです。でも、歌い方の違いや伝わりにくさがあるからこそ、新たな発見があると思います。
実施の背景
 本ワークショップ「音と形~書画技法による図形楽譜作曲入門」は、小学校へのアウトリーチ活動として実施した。私は昨年、奈良・町家の芸術祭「はならぁと2018」にキュレーターチームの代表として参加し、そこで天理市立櫟本小学校の池本達哉先生と出会った。
 昨年は池本先生のお計らいで、音楽家の永松ゆかさんと筆者による音を形や色で表現するワークショップを同校で行った。そして永松さんは、児童の表現した絵画を用いたサウンドインスタレーション作品を同芸術祭で発表した。今年は、声楽家で現代音楽のスペシャリストの太田真紀さんの協力を得て、「音と形」をテーマにした新しい内容を池本先生に示したところ快諾してくださり、池本先生が担当されている小学校5年生の書写の授業内で実施することになった。
 昨年に引き続き、この実験的なアウトリーチ授業の実現に尽力してくださった櫟本小学校の伊勢和彦校長、イケモトタツヤ先生をはじめとする同小学校の先生方と関係者の皆様、そして声楽家の太田真紀さんに心より感謝いたします。(文:檜垣智也)
講師プロフィール
立案・講師=檜垣智也(ひがき・ともなり) 作曲家 省略
講師=太田真紀(おおた・まき) 声楽家(ソプラノ) 同志社女子大学学芸学部声楽専攻卒業。同大学音楽学会《頌啓会》特別専修生修了。大阪音楽大学大学院歌曲研究室修了。東京混声合唱団のソプラノ団員として活動後、文化庁新進芸術家海外研修制度にてローマに滞在。ジャチント・シェルシの作品をコラボレイターである故平山美智子氏のもとで研究した。これまでにローマのイザベラ・シェルシ財団、ケルン大学にて無伴奏ソロリサイタルを開催。三ツ橋敬子指揮・いずみシンフォニエッタ大阪定期演奏会へソリストとして出演したほか、シェルシ音楽祭(バーゼル)、ヌオヴァコンソナンツァ・フォンダメンタ・フェスティバル(ローマ)、ブタペスト・ミュージックセンター、ローマ・ケルン・パリ日本文化会館、武生国際音楽祭、東京オペラシティリサイタルシリーズ"B→C"、サントリー芸術財団サマーフェスティバル、ニュイ・ブランシュKyoto他に出演。アンサンブル九条山のメンバー。
授業提案者・立案協力=イケモトタツヤ 大阪教育大学卒業。専門は特別支援教育と芸術療法。子どもたちの合唱・合奏曲を幅広く手がける。ケーナとピアノとギターで構成するインストゥルメンタル・ユニットPruneとしても各地で演奏。2016年に「夏のわすれもの」を発表し話題を呼んだ。また、ボサノヴァ・デュオSalt&Uribossaとして、2017年には3rdアルバム「Hori-zonte」をリリース。音楽のみならず、絵画や写真や詩などのクロスメディアな表現で多様な発信を続ける。各分野で受賞多数。「はならぁと2017こあ」への参画を機にキュレーター・チームhirviと親交を深め、檜垣氏のクロスモーダルな表現の扉を開くワークショップの提案に協力する。櫟本小学校教諭。
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