Tumgik
#ホイジンガ
manganjiiji · 11 months
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弱りの色は愛
あたらしい仕事が始まろうとしています。新しい人たちの名前を覚えなければならないのでやや緊張。とはいえ、ほぼ緊張していないにひとしい。そのむかし、初めてのアルバイト、通信販売の受電オペレータを19歳にやっていた時には、何ヶ月たっても緊張でかならず下痢をしてから勤務していたのに。今は初めての仕事の前日もただ楽しみしかなくてへっちゃらすぎる。この世界に慣れた。なんというか、仕事で死ぬことはない。そのことが体感ではっきりとしているから、もはや安心の域まである。わたしは働くことにかなり向いていない人間だと思っていたし実際そうだったのだが、実は働くことがかなり好きで、好きが高じて続けているうちに、だんだん苦手意識がなくなってきたし、余裕というか落ち着きというか、こころの平静ができてきた。強迫的にずっととにかく「働かなければ」と思って働いてきたが、実はそれが好きだったので助かった。こういうことばかりだな、と思う。生まれつき持っているものに救われてばかりだな、と思う。かなりのラッキーゴーハッピー人間である。生まれつき人が好きだし、生まれつき世界にわくわくしているし、生まれつき夢があるし、生まれつき何でもやってみたいほうだ。ただしこの性質は第二次性徴の発現とともに突然去来した。それまではかなり内向きで人見知りで人嫌いでとにかく家に閉じこもっていたい子供だった。15歳まで、私の「生まれつき」は鳴りを潜めていたようだ。高校入学でとたんに明るい世界に放り込まれたのも大きい。良い高校、穏やかな高校に入れてよかった。すべて運で渡ってきている。自分に合った高校に入ることができたのは、たまたま文字を書いたりものを考えたりすることが好きで記憶力が(学年の平均よりも)良く、定期テストで常に上位を取ることができたから。それは完全に生まれつきのラッキーなのである。そしてラッキーはその後も続き、高校の勉強を1秒もしていないにもかかわらず奨学生として無料で1つ目の大学に入ってしまったり、自力で(?)浪人して頑張ろうと思っていた2つ目の大学の一般試験をいちおう受けたら紛れで受かってしまったり、目星をつけた企業とたまたまうまが合い、そこしか受けずに就職が(4年生になる前に)決まってしまったり、会社の人たちに恵まれて、なんと病院に連れていかれて10年間病気だったことが発覚したり、友人の導きにより良い医師に巡り会えて治療が成功したり、職場に恵まれたり、職場に恵まれたり、職場に恵まれたりした。運が良すぎではないか?と思うし、他人に僻まれて然るべきだと思うのだが、むやみに他人にマイナス感情を抱かせるべきではないので、自分のラッキーについてはあまり口外しないようにする。している。多分。
今月はぎりぎり忘れずにカウンセリングに行くことができた。カウンセリングもおのれのラッキー体質により(千石清純か?)すごく運命的に最高の先生と出会って、すごく納得して、というか満足して利用させて貰っている。おそれおののくほどに、おそらくカウンセリングの効果が出て、病状も安定している。この日は祖父の葬式の日のことを思い出したり話したりして少し泣いた。祖父は私をとても愛してくれた人で、この人のおかげで私は人間的にぐれずに済んだ。カウンセリングでは親の話と兄の話が中心だ。この人達と私との間にあった物ごとや感情を整理することが、私のかかえる荷物の、ゆうに八割以上にのぼるので、先生の手を借りて、どうにかすこしずつ、伝えては褒められたり慰められたりしている。ずっと助けてくれる大人、私の話を聞いてくれる大人がいてほしかった。話せば話すほど、そんな大人が一人も周囲にいなかったことに愕然とするが、いま、先生に話して「子供の私」が遡って「手当て(treat)」されているので本当に良かったと思う。
國分功一郎の新潮新書『目的への抵抗』を買ってその日のうちに読む。『暇と退屈の倫理学』を買ったままほとんど読んでいないので読まなければなと思った。アレントへの言及も多かったので『人間の条件』も読む。ハンナ・アレントについては副読本?を2冊買っていて、こちらもまだ読んでいない。まとめて本棚から引っ張り出した。それからホイジンガの『ホモ・ルーデンス』も重要だと思ったので読む。
新潮の6月号、現代詩手帖5月号(新鋭短歌特集)を買う。新潮は村上春樹の新刊の読み方を7名ほど(たしか)寄稿していたので買おうと思った。黒田夏子氏の作品もあり嬉しい。川上弘美もあり。巻頭は本谷有希子。趣味が合うな、新潮。現代詩手帖を開くのはもう少し先になりそう。前回書いたかもしれないが藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』を読んでいるので、詩はいままだ頭がいっぱいだ。メキシコ湾に沈む金メダルみたいなやつがとても好きで今日も読んだ。これを読んで癒されてくれと思い、友人にもメッセージを送って薦めた。友人は先頃目が見えるようになってきたらしい。半年ぶりに「外」に出たと言って草花の写真を送ってきた。にしんぱいさんのご本を2冊欲しいと言い、強欲な…と思いながら「伝えておきましたよ」と言うと、その頃まで生きていられるといいなあ、みたいなことを言うので、意地悪だなと思った。もちろん本人にその気はなくて、本当にそう思ったから言っただけなのだろうけれど。本当にそう思ったことをそのままにしか言わない人だ。
新しい町に慣れてきた。新しい部屋、新しい机は快適で、とても有難い。部屋探しでもラッキーを発揮してしまった。食べるものを作ったり、洗濯をしたり風呂に入ったり、掃除機をかけたりしている。そういうことがとても好きだ。料理以外の家事が好きだ(甘いもの以外を食べることにはいちばん興味が無い)。もう4時を過ぎると外が明るくなってしまう。今は4時半を過ぎているので本当に朝。もう少し何か書きたいことがあった気がするけれど寝ます。最近はいつもあんスタの燐一(りんひい)を書きたいということを考えています。そのまえにメインストの第一部を読み終わらなければならない。あんスタは音ゲーとして楽しく好きなので毎日楽しく叩いているが、いつの間にかキャラクターの良さに飲み込まれてしまった。ひひひ(日日日)のラノベ文体というか、な、ストーリーに私は適性があり、ふつうに「あんスタおもしれ〜!(ド興奮)」と思いながら読んでいる。
ここのところよく流れてくる話題はやはり「差別」について。トランスジェンダーに関しては、LGBT法案がほぼ成立の見通しになったためやや落ち着いた。今日は「世界のサプライズ動画」についての論難が多かった。G7広島サミットは終わったが、やはり外交・軍事関係の話が多い。広島サミットは、かなりよくできていたと思う。岸田総理のツイートの言い回しは上手かった。各国首脳の平和記念公園、原爆ドームの見学により、「あやまちはくりかえしませぬから」の主語が、これで晴れて「世界」(日本ではなく)になった。というツイートがあり、まあそれは前からそうだろうとは思ったが、名実ともに、というか、名目の上でも、というのは大事なことだ。ちなみに岸田総理の言い回しは「核を使用しない、核で脅さない」ということだった。単純だがこの言葉にたどり着き抜き出すのはかなり難しい。正解だと思うので素直にすごいなと思った。
2023.5.24
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takana8 · 6 months
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ryotarox · 7 months
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この書物は、十四、五世紀を、ルネサンスの告知とはみず、中世の終末とみようとする試みである。
中世の秋 - Wikipedia
中世の秋 :ヨハン・ホイジンガ,兼岩 正夫,里見 元一郎|河出書房新社
0 緒言 1 はげしい生活の基調 2 美しい生活を求める願い 3 身分社会という考えかた 4 騎士の理念 5 恋する英雄の夢 6 騎士団と騎士誓約 7 戦争と政治における騎士道理想の意義 8 愛の様式化 9 愛の作法 10 牧歌ふうの生のイメージ 11 死のイメージ 12 すべての聖なるものをイメージにあらわすこと 13 信仰生活のさまざま 14 信仰の感受性と想像力 15 盛りを過ぎた象徴主義 16 神秘主義における想像力の敗退と実念論 17 日常生活における思考の形態 18 生活のなかの芸術 19 美の感覚 20 絵と言葉 21 言葉と絵 22 新しい形式の到来
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i11matic · 4 years
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ホイジンガは「遊びのおもしろさは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受けつけない」と書いている。
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liberquotes · 6 years
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つねにあそびとして
日本語はいまでもまだ、遊びの発想を「遊ばせ言葉」、つまり上品な話し言葉として保ちつづけている。これは身分の高い人々相互の会話に使われるものだが、これについては、高貴な人々はその行うすべてのことを、つねにあそびとして、あそびながらやっているのだ、というように理解できよう。「あなたは東京につく」の鄭重な形は、文字どおり「あなたは東京におつき遊ばします」である。また、「私はあなたの父上が亡くなられたと聞きました」に対しては、「私はあなたの父上がお亡くなり遊ばしたとうかがいました」である。この表現方法は、私の見るところが正しければ、ドイツ語の「陛下は畏くも……遊ばし給えり Seine Majestät haben geruht.」やオランダ語の「どうぞ……遊ばして下さい U gelieve.」に近い。畏れおおく仰ぎ見られる高貴の存在は、ただみずから進んであることを遊び給うというそのことが、ある行為をなし給うことなのだ、というわけである。
ホイジンガ『ホモー・ルーデンス――文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み』第2章、高橋英夫訳。 Huizinga, Johan. Homo Ludens: Proeve eener Bepaling van het Spel-element der cultuur. II. 1938.
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dotomtom · 7 years
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広辞苑(第五版)では「【自発】自ら進んで行うこと、自然に起ること」とされているが、社会学者の宮台真司氏は、「自発性」は限定された枠内のルールや課題などが与えられた人為的環境のなかで主体的に動くことであり、「内発性」は人為的環境に左右されずに主体的に動くことを指す、すなわち、自発性は環境に依存しているが、内発性は環境から自立しているとして両語を区別する。そして、内発性は唐突に生まれるものではなく、自発性に基づいた活動の継続によって涵養されるものだというのである。
2015-10-02 - ひとり学融日記
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chikuri · 4 years
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ヨハン・ホイジンガがいっている、「現代の大衆社会はピュエリリズムに襲われている」と。彼がピュエリリズムといったのは、生理的な病気としてのインファンティリズム(幼稚病)とは別物としての、「文化的小児病」のことだ。つまり、人間の本性である「あそびの精神」が堕落して、「厳格なルール」と「神聖へのセンス」を失い、そこからナチズムのような全体主義への傾斜が生じた、とホイジンガはみたのである。 文化的小児病が経済における市場原理主義、政治における世論至上主義、社会におけるメディオクラシー(情報媒体の支配)、そして文化におけるテクノクラシー(技術の支配)をもたらしている。そういう時代には狂人や病人が各界の指導者として立ち現れて何の不思議もない。また、そういう文化論的な視界を持たなければ、たとえば我が国にあって平成改革などという戯言がなぜ20年にわたって喧騒をきわめたのか、説明がつかなくなるのである。 私が何をいいたいか、読者はすでに察知してくれていることであろう。民主党の日本統治は平成改革運動の最高潮として登場したものである。しかしそれは、狂人や病人の所業と認定して何の無理もないくらいに、インテグリティというものを欠いている。インテグリティとは、判断の総合性であり、行動の一貫性であり、人格の誠実性である。「無知は物を知らぬ人間の状態のことではなく、物を知っていると自分で思い込んでいる人間に訪れる病気なのである」(チェスタトン)。民主党の政治家の方々およびそれを(3年前に)歓呼の声で迎えた国民の方々の脳髄は、(狂気と病気の結果としての)無知で侵されているに違いない。
文化的小児病に冒される日本列島 西部邁 - 指定なし
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totsukakodama · 5 years
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芸術作品が生まれるとき、同じその時代の人びとは、これを、ひとしなみに、かれらじしんの生の夢のなかにとりこもうとする。作品が、客観的にみて、美的見地からみて、完成の域に達しているから、これを高く評価するということなのではない。その題材の神聖さが、あるいはまた、そこにもりこまれた生の情熱が、かれらの心に深くこだまするとき、かれらは、これを高く評価するのである。  時とともに、その夢は古び、題材の神聖さも生の情熱も、また、すたれる、ちょうど、ばらの香りのあせていくように。そうなってはじめて、芸術作品は、純正の芸術として機能しはじめる。
ホイジンガ 1919 「中世の秋」(堀越孝一(訳)「中世の秋(下)」 1976 中公文庫 p.244)
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cureafina · 6 years
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#本 #エラスムス #ホイジンガ #筑摩叢書 #筑摩書房 #宮崎信彦 #宗教改革 https://www.instagram.com/p/BojjFO0BdZB/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=tkirzhnnze36
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koichiro-iizuka · 5 years
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六本木の青山ブツクセンターの跡地に、新たな本屋が。 入場料1500円で話題の文喫。 本が読めるスペースがしっかりあって、お茶とコーヒーが飲み放題。 本好きには、とてもいい居場所ですね。 せっかくなので、ホイジンガのホモ・ルーデンスを購入。 ざっとしか読んだことがなかったので。 人類は遊ぶために生まれた、というのはアートとエンターテイメントに人生を捧げている自分としてはとても納得出来ます。 https://www.instagram.com/koichiroiizuka/p/Brew_bgDUlA/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=lp39kvyeoto8
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onumayuki · 3 years
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[ Recollection of Dr. Johan Huizinga]Photoshop,Blender秋の黄昏の光に着想を得て制作しました。中世の終わりから近代へと至る道筋を記した歴史家ホイジンガ博士が想ったであろう秋の中世の風景をここに描き留めておきます。#conceptart
#fantasyart
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findareading · 3 years
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「愚昧論ノート」と同時に、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を読み、学ぶところが多かった。人間存在の根源的本質を「遊び」であると結論する彼の文化論は、藤田氏のいう愚昧に通じるところが多いと思った。
鈴木豊一著「Ⅳ 「俳句」編集後記」(『俳句編集ノート』平成23年5月、石榴舎)
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thetaizuru · 3 years
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 愚かさの発見が世界を回転させる。  あるいは、世界に吹っ飛ばされた人が愚かさと回転を発見する。
 1831年に出版されたヴィクトル ユーゴーの小説 『ノートルダム ド パリ』(『ノートルダムのせむし男』)は、1482年のパリを舞台にしていて、「ああ! これがあれを滅ぼすだろう」というセリフが出てくる。その次の章は「これがあれを滅ぼすだろう」と題されていて、このセリフと時代背景の解説と、この時代、つまり15世紀末のルネサンスの時代になぜ芸術というものが生まれたのかについて考察するエッセイになっている。「これ」とは印刷された本であり、「あれ」とはノートルダム大聖堂を指している。それだけではなく、「これ」には「印刷技術」が含意されていて、「あれ」とは教会であり「建築技術」を含意している。  15世紀まで、人類の思想は建築という形式で表現され保存されていたが、グーテンベルグの印刷技術によって、より簡単で容易な手段が発見された。「グーテンベルグの鉛の文字が、オルペウスの石の文字にとって代わった」ことによって、人間の表現形式がまったく新しいものとなり、思想は空気に溶け込んでいった。「建築が総合芸術、最高芸術、専制君主的芸術として認められなくなったとき以来、建築は他のいろいろな芸術を手もとに引きとめておく力をもう持たなくなってしまった」。芸術と思想は、建築から自由になったことで、それぞれの道を歩き始めた。  ユーゴーのこの文章では、16世紀に建築が瀕死のさまにあるのを感じとったミケランジェロが絶望的な力をふりしぼってこれを救おうとして建てたサンピエトロ大聖堂こそ、いつまでも真に独創的な作品として残るにふさわしい傑作であり、建築史の最後をかざった独創的な建物である。
 1450年頃とされる印刷術の発明と、1453年の東ローマ帝国の滅亡がもたらしたルネサンスは、さらにサンピエトロ大聖堂建築資金の名目で販売された贖宥状への批判をきっかけにして宗教改革をもたらした。ルネサンスは全ヨーロッパに波及し、北方ルネサンスの時代に入る。
  1494年に、ドイツの作家ゼバスティアンブラントによって書かれた諷刺文学『阿呆船』が刊行された。  同時期に(1500年前後とされる)、ネーデルラントの画家ヒエロニムス ボスは『愚者の船』という絵画を描いた。  両作品に直接の関係があるのかははっきりしないが、「船」は教会の暗喩とされ、この時期から、教会批判が作品になり受け入れられるようになったと解釈される。  ネーデルランド出身の人文主義者デジデリウス エラスムスが1509年にロンドンを訪れ、友人トマス モアのもとに滞在している間に書き上げたというラテン語による諷刺文学『痴愚神礼讃』が、1511年に初版刊行された。ヨーロッパ各国で翻訳や海賊版が多数出版され、何十もの版を重ねて宗教改革における一大ベストセラーとなった。  1516年、イングランドのトマス モアによる『ユートピア』が刊行された。
 特に『ユートピア』に言われることだが、これらの作品は作者の意図が不明で、それ次第では読み方が変わってくる。これらの作品は、カトリックとプロテスタントの対立という文脈で語られることが多いが、宗教改革の運動が本格化するのは1517年にルターが95ヶ条の論題を打ちつけてからであり、それ以前は教会の分裂状態が教会批判に大きく影響していたと考えられる。また、20世紀になってオランダの歴史学者ホイジンガが、13世紀から15世紀の時代を「党派の時代」と呼び、党派対立の原因を経済的利害であるよりは復讐欲であるとみなしたように、後の時代になると、または立場が違えばまったくわからなくなるような感情的な対立構造の中の混乱状態があった時代だったのだと考えられる。
 ミシェル フーコーの1961年の著作『狂気の歴史』によると、 狂気を舟に乗せて送り出すという『阿呆船』は、文字通りその排除が一つの形をとったものであったが、ルネサンス期には、狂気がきわめて豊饒なる現象として扱われるようになる。なぜなら狂人とは「人は神の理性には近づきえない」という思想の体現だったからである。ルネサンス以降、この狂気は、それまでのイメージ(画像)から、『痴愚神礼賛』がその典型であるように言語のレベルに移される。そしてこのとき、狂気は、夢想的、宇宙的な強迫観念を離れ、理性との関係においてとらえられるようになった。あるいは、より人間的なものに限定されたとも言える。
 『ユートピア』の読み方の一つとして、ここで書かれているのは当時の様々な人が尤もらしく語る理想を無理に一つにまとめたもので、そのような「理想のキメラ」と、どこかで聞いてきたもっともらしい話をそのまま無批判に受け入れて語ること、後の1605年に出版されるセルバンテスの『ドン キホーテ』と同様に、現実と物語の区別がつかなくなることを諷刺している、というのがある。
 北方ルネサンスの時代に、人の知性や理性には限界があるという考えの影響もあり、人物の背後にある「背景」ではなく、「風景」が絵画のモチーフとして登場する。パティニールという画家が、ヒエロニムス ボスから受けた伝統的な北方絵画の影響と、イタリアのマニエリスムの技法を融合させ、空想上の風景を描く「ヴェルトラントシャフト(世界の風景)」という技法を生み出した。  直接の影響を受けたかは不明だが、ほぼ同じ技法でブリューゲルが『バベルの塔』(大バベル; 1563年頃、小バベル; 1568年頃)を描いた。  バベルの塔の物語に現れる、 人間の高慢とそれに対する神の罰、空想的で実現不可能な計画、言語の混乱などのモチーフは、東ローマ帝国の滅亡や、ラテン語によって宗教的儀式を執行するカトリックと世俗の言葉を用いたプロテスタントとの間の宗教的論争、1568年から各言語に翻訳され出版され始めた世俗語聖書などの出来事を象徴し、この時代の心象風景を表現した。
 北方ルネサンスの画家の多くは、おそらくは誤解による宗教的迫害が家族や知人に及ぶことを怖れて、テキストをほとんど全く残さなかった。作品の制作意図や、着想をどこで得たのかがはっきりしないため、後の時代には「奇想(ファンタジー)」だと受け取られた。
 15世紀以降の西洋絵画の最も大きな特徴の一つが「イメージとテキストの分離」であるというフーコーの指摘が、現在のサブカルチャーに大きな影響を与えている。
 北方ルネサンスの時代は、東ローマ帝国の滅亡による心理的なショックに始まり、党派対立のなかから民族意識を萌芽させ、国民文化へと発展させるまでの隙間の時代であり、ギリシア神話にさかのぼると「カオス」には「隙間」という意味がある。  古代ローマで農耕神サトゥルヌスを記念して催されていたサトゥルナリア祭では、「偽王(モックキング)」が選ばれ、日常的規範からの逸脱と逆転をほしいままにする一時的な支配権を委ねられ、そして祭りの終わりには共同体の穢れを担って殺害された。この偽王による、「日常の逆転」「さかさまの世界」の現出を担い体現することで文化に平衡を保たせるという役割は、「道化」または「愚者」として、中世から近世にも、例えば宮廷内で王に対しても無礼講が許される宮廷道化師として残った。  「愚者(フール)」の語源は「袋」または「ふいご」を意味するラテン語で、愚者は世の中の空気をそのまま吸い込んでそのまま吐き出すという役割を担った。それにより日常的世界が抑圧する要素を見つけ、表現した。  愚者が排除される文化は、平衡を失い滅んでいく。
 歴史学者ホイジンガは、15世紀頃のブルゴーニュ公国の文化について考察し、「ホモ ルーデンス(遊ぶ人)」という言葉で、遊技が人間活動の本質であり文化を生み出す根源だと論じた。
 船乗りたちは、異端的で愚かだとされ、また科学的にもまだ立証できていないが、そうじゃないと航海が難しいため体感として得た怪しい考え、すなわち地球は丸く回転しているという考えを、立派に飾った言葉にできずにいた。おそらくはそんなことは気にしていなかった。  言葉にできる前に新世界は発見された。
2021年8月 審判と世界
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momomomemomo · 3 years
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2021年4月読書記
1.Swordspoint/Ellen Kushner  文庫で読んだのはずっと前で、Audibleで聴くのも2回目。なんとなくお気に入りなのである。(別に腐女子だというわけではない、たぶん) 2.中世の秋/ヨハン・ホイジンガ  これを読んだらファンタジー熱が高まった。 3.神曲 地獄篇・煉獄篇・天国篇/ダンテ 三浦逸雄訳 角川ソフィア文庫  歴史の教科書にも必ず名前の挙がっている本だけど、読むと印象が違う。しかし、想い人を天の高みに押し上げて聖者として扱うっていうのは、現代だったら痛いネタ扱いされそう。 4.大尉の娘/プーシキン 神西清訳 岩波文庫  ロシア文学好きなんですよね。そして、日常を細かに描写したかと思えば、ふつうならクライマックスになりそうなところは一瞬で、しかも主人公と無関係に通り過ぎたりするのね。 5.ギリシア文明―神話から都市国家へ/ピエール レベック 田辺希久子訳 創元社  古代ギリシャといえば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスとか、ソロン、ペリクレスとか、人名はさっと思い浮かぶけれど、あの黄金時代はかなり短かったのだな。こんなことも昔習ったはずだけれど認識を新たにしてみる。 6.クリスマス・キャロル/チャールズ・ディケンズ 越前敏弥訳 角川文庫  いや、まったくもって季節外れではあるけれど。予想よりわかりやすいストーリーだった。
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psalm80-lilies-iii · 3 years
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(カウンターカルチャーとしての)ナウシカ
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ものすごく今さら観のある話だけれど。
思うところあって(思うところあって)妹の蔵書から森雅之の作品集を引っ張り出して読んでいたのだが、『月刊コミックボックス』の折り込みが入っていて、そこに「まんがは20世紀最後のカウンターカルチャーだ!」というキャッチフレーズがついている。
それを見て改めて思ったのだ、「美少女萌えの根本はカウンターカルチャーだったのか!」と。
分かる人には「おわり。」で済む話だと思うけれど、いちおうぼくなりに話を整理しておきたい。
いま現在「美少女萌え」と言われているもののルーツはあまりにたくさんあり過ぎるし、ぼくはギャルゲ・エロゲという分野も「擬人化」という分野の実際も不案内なので、「美少女萌え」一般をカウンターカルチャーだという議論をぼくがしても破綻するだけである。
で、改めて「カウンターカルチャー」ということばをウィキペディアで引くのだが、そうするとカウンターカルチャーという言葉は「逐語的に『文化的非主流』を指す」場合と「特に1970年代の新左翼的な流れを指す」場合との両方があるらしい。
では、この両方の意味における「カウンターカルチャー」の代表作といえるマンガ作品って何だろうか。ぼくは『ナウシカ』だと思う。
*
ぼくはクリスチャンの観点から、『ナウシカ』というマンガ作品を、「愛はいかにして人間の罪をおおうか」というテーマをめぐる苦闘と挫折の一大叙事詩だと思っている。『ナウシカ』が『アニメージュ』に連載されていた当時、ぼくはクリスチャンではなかったから「愛と罪」という「術語」を使う習慣はなかったけれど、ぼくの『ナウシカ』理解は当時と今とでそれほど違いはなかった。つまり『ナウシカ』は、「深い文学性」をたたえた普遍的な作品である一方、ぼくにとっては特に「同時代性」を問われる種類の作品ではなかったのである。
だが、『ナウシカ』が産業文明批判であることは当時むしろ当たり前のこととして理解されていた。ぼくのような普遍的な観点から『ナウシカ』を読む方が、むしろ少数派だったのである。
ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は数百年のうちに全世界に広まり巨大産業社会を形成するに至った 大地の富をうばいとり大気をけがし生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は1000年後に絶頂期に達しやがて急激な衰退をむかえることになった 「火の7日間」と呼ばれる戦争によって都市群は有毒物質をまき散らして崩壊し複雑高度化した技術体系は失われ地表のほとんどは不毛の地と化したのである その後産業文明は再建されることなく 永いたそがれの時代を人類は生きることになった
このプロローグをななめ読みしなかった人たちはみんな、『ナウシカ』のことをそれこそ「文字通り」カウンターカルチャーの物語だと理解した。
だが厳密には、このプロローグが言っているのは『ナウシカ』が産業文明批判を「舞台」にしているということだけだ、とも言えるのである。むしろ、この作品が真にカウンターカルチャーの物語であるのは、このお話の主人公が女の子だということにある。
このお話を「哲学的テーマをめぐる苦闘と挫折の一大叙事詩」だと見るにせよ、あるいは「大地の富をうばいとり大気をけがし生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明の批判」だと見るにせよ、文化の「主流派」的観点からは次のような問いが可能だと思うのだ、「なぜこのお話の主人公は男性じゃなくて女性なの?大人じゃなくて子供なの?」宮崎駿の説明は、「自然との関係の回復をテーマにしようとしたとき、自分の脳裏に浮かんだのはギリシャ神話のナウシカと今昔物語の虫愛づる姫君だった」というものだ。なるほどと思う。また、お話が深化して文学的テーマが「愛と罪」にたどり着いてしまうと、「愛」をいかなる人格として描くのがいちばん魅力的かといえばそれはやっぱり若い女性であるのがいちばん似つかわしいだろう、とも思う(愛の主人公を男として描くのはあまりにキリスト教的、それこそカトリック的過ぎるのではないだろうか)。
けれど、ひとことで言えば「戦記物語」である『ナウシカ』の主人公があえて女の子だというのは、この作品をカウンターカルチャーたらしめるためには不可欠だったと思うのだ、「男性ではなくて女性、大人ではなくて子供。」そこにクシャナさんが出てきてもチククが出てきても、やっぱり主役は「男性ではなくて女性」「大人ではなくて子供」という鉄則は生き続ける。言ってみれば「大人の男にできないことをやらなければ世界は滅びる」という史観だ。そして逆に「ナウシカの愛が世界を救った」という安易な女性性の称揚も、少なくともマンガの『ナウシカ』にはない。アニメの『ナウシカ』はナウシカが女の子であることを「憎しみではなく愛、科学ではなく信仰」という、それはそれで決してカウンターカルチャー的ではない「正統的」意味づけの中に押し込んでしまっている(そして逆に「なぜクシャナさんは女性なのですか?」という問いの答を不可能にしてしまっている。『コナン』のモンスリーのような転機も、アニメのクシャナさんにはない)。
*
ジャンヌについて語る人の多くは、感動したからではない。敬意もまた、払われてはいない。むしろ、好奇心からであった。
(ヨハン・ホイジンガ『中世の秋』より「第4章 騎士の理念」)
ぼくは「女の子が主人公の戦記物語」に対して多くの人が持つ心象というのは、ジャンヌ・ダルクの同時代人だった年代記記者のおおかたの反応として上掲の引用でホイジンガが指摘しているようなものだと思う。一部の熱狂的ファンがいて、その対極に一部の強硬なアンチがいて、大半の人たちは「へえ、変わってるねえ」で済ませてそれ以上は深入りしない。ぼくはプリキュアだってガルパンだって基本的な構図は何も変わらないと思うのだ。ジャンヌ・ダルクを焚刑にしたフランスの聖職者たちのように、カウンターカルチャーというものにはげしい嫌悪感を示す「正統派」の人たちはつねにいる(「プリキュアもガルパンもあくまで商業ベースの作品なのだからそれ自体本質的にはカウンターカルチャーの作品ではない」という指摘というか「正統派の方々の反論」にはいちおう同意しておくが、その上で「問題は観る側の受け止め方だと思うんです」というのがぼくの立場だ、だってプリキュアはそもそも「大きいお友だち」のための作品ではないのだ、ちなみガルパンはノーコメントで、「ヘルメットはかぶった方がいいとぼくも思います」と言っておく)。
逆にいうと、「男ではなく女、大人ではなく子供」という観点から少女が主人公の物語にカウンターカルチャー性を見出す人たちはつねに存在し続けるだろうと思う。いままっさきに思い浮かべるのは『シリアルエクスペリメンツレイン』、作品の端から端までサブカルチャーでありカウンターカルチャーである作品なのだが、「たたかう女の子」でいうなら、『ノワール』という女の子が暗殺者をやるアニメがあって、企画段階ですごい抵抗を受けたという話(だったと思う)を tumblr で読んでどんなアニメなのか少し観てみたことがあるけれど、アメリカ人がポリティカリー・コレクトということをやかましく言うようになって創作物の登場人物をやたら女性にしたり有色人種にしたりするずっと以前から、日本人は「カウンターカルチャーとしての女の子の物語」を作ることに熱心だったというべきなのだろう。
だがそれを、宮崎駿ほど壮大で徹底したやり方で描き切った(いや、さっきも言ったようにアニメの『ナウシカ』はカウンターカルチャーの作品としては失敗だったと思うけれど)作家はいなかったのだと思う。そして、宮崎駿の世界観を自分の作品の中で模倣した人たちはいっぱいいるけれど、模倣の色彩が濃厚であればあるほど、その人たちは「カウンターカルチャーとしての女の子の物語」を渇望していたのではないかと思う。「男ではなく女、大人ではなく子供」という観点の必然を、何らかの理由で自分のものとしていた人たちが、「女の子を主人公に20世紀的な機械化戦を描く」ことを標榜し続けたのではないだろうか。その人たちが政治的に左派だったとしたらそれはもう文字通りの「カウンターカルチャー」として何の不思議もないことだけれど、ぼくは思うのだ、政治的に右派の人���ちであっても、彼らの存在が今日的には「カウンターカルチャー」としか言いようがない状況があって(いまの日本には極右に政治的コアがないので極右であることはそれ自体「サブカル扱い」を受けているんじゃないだろうか)、そうすると彼らも彼らで少数派としての自分を少女に仮託する動機があるのではないだろうか。つまり本質は彼らが政治的に右か左かではない。彼らが「少数派」あるいは「社会的弱者」、言ってみればLGBTの人たちと同じような自己認識、であるということだ。
というような立論がどの程度有効かを実証で示すにはぼくはものを知らなさ過ぎるのでこの話はこの辺でやめにする(ぼくなりに念頭に置いている作家や作品はあるのだがとりあえずこの場では名前は挙げずにおく)が、少なくとも『ナウシカ』がカウンターカルチャーの作品であるのは明らかで、でも『ナウシカ』がカウンターカルチャーの作品であるゆえんはナウシカが女の子であるところにある、という指摘は、もう多分この作品が世に出て30年来(いや、もうすぐ40年だよね)みんながしていることだとは思うけれど、ぼくも改めてしておきたいと思うのである。
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“仲のいい友達と毎日喋っている内容はたわいのない話だが、それが楽しい。ときどき面白い話になるが、すぐに忘れてしまうことが多い。あとで、「すごく面白かったけれど、あのとき何の話をしたんだっけ」などと思い出そうとするのも、結構楽しい。これも一種の暇つぶしではあるが、それ以上に楽しい。だからこそ暇が潰れるのだし、それ自体楽しいということが大切なのだ。ホイジンガが「ホモ・ルーデンス(遊び人間)」と名づけたように、人間は本来遊び好きな存在なのだと思う。そんな無為な、暇つぶしのような作業が、どこかでクリエイティヴィティとつながっている。” - 細野晴臣「アンビエント・ドライヴァー」より (via pinto, doody)
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