Landscape Photography at Ryugu-Doketsu in Yamanashi Prefecture, Japan
Our photo shoot showcases the twisted tree roots unique to the Aokigahara-Jukai Forest, followed by a worshiper in prayer at Senoumi Shrine, and culminating in a view from outside the cave entrance.
Primary Shots:
Sea of Trees: Aokigahara-Jukai
青木ヶ原樹海
Pentax K-1 II + DFA 28-105mm F3.5-5.6 + CP
88 mm ISO 100 for 1/0.3 sec. at ƒ/6.3
Full write-up: https://www.pix4japan.com/blog/20240320-aokigahara
Deep in Prayer
豊玉姫命の剗海神社 (せのうみじんじゃ)
Pentax K-1 II + DFA 28-105mm F3.5-5.6 + CP
105 mm ISO 100 for 1/5 sec. at ƒ/5.6
Full write-up: https://www.pix4japan.com/blog/20240320-cave
View from Dragon Cave
竜宮洞穴の風景
Pentax K-1 II + DFA 28-105mm F3.5-5.6 + CP
28 mm ISO 100 for 0.4 sec. at ƒ/10
Full write-up: https://www.pix4japan.com/blog/20240320-ryugu
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Narusawa Ice Cave & Aokigahara The suicide forest 👻 鳴沢水穴、青木ヶ原樹海 #suicideforest #aokigahara #鳴沢氷穴 #青木ヶ原樹海 #icecave #аокигахара #森 (at 鳴沢氷穴) https://www.instagram.com/p/CevfKORLrpD/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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青木ヶ原樹海でイモビライザー付車の鍵を紛失した場合の対応
青木ヶ原は、山梨県富士河口湖町と鳴沢村にまたがって広がっており、富士山の北西に位置します。青木ヶ原樹海は、「富士の樹海」とも呼ばれており、山頂から眺め、木々が風になびく様子が海原にうねる波に見えることから「樹海」と名づけられた説があります。
自然豊かで遊歩道を散策しながら森林浴を楽しむ方々が多いのですが、一度足を踏み入れると抜け出せなくなるという説もあります。観光目的で、山梨県内のみならず、首都圏を含め全国各地からも多く訪れます。富士山の洞窟で天然記念物でもある富岳風穴など同時に訪れる観光客も少なくありません。しかし、青木ヶ原樹海で車の鍵を紛失してしまったら帰宅困難になり、対処方法に困ってしまいます。今回は青木ヶ原樹海の特徴やクルマでのアクセス方法、イモビライザー付きのクルマの鍵を紛失した場合の対応方法、最寄りの警察署や交番・駐在所も含め紹介します。
青木ヶ原樹海の特色
青木ヶ原樹…
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1200年の若い森。 若い、、?って。。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)12月27日(水曜日)
通巻第8068号 <前日発行>
熾烈なAI開発戦争を横目に
古代人の霊的な技術の脅威をどう評価するべきか
*************************
十五年ほど前、チベットへ取材に行った帰り、高山病を調製し、乗り換え便を待つために四川省の成都に二泊した。
それ以前にも成都は何回か来ているので「珍しい所はないか?」とガイドに聞くと,クルマで二時間弱の場所に「三星堆遺跡」があるという。その時、筆者は初めて三星堆なる文明の存在を知った。
戦後教育で教わった『世界四大文明』とはメソポタミア、エジプト、インダス、黄河文明だが、マヤ文明、インカ文明と縄文文明がかけている。三星堆は中華文明とはまったく無縁で地理的な要件はともかくシュメール(メソポタミア)に似ている。
早速、見に行った。
明らかに太陽信仰の農耕文明だが、出土した仮面、神樹(御神木)の高さは4メートルにも及び、巨木信仰を窺わせた。人物像や神具などシュメールとの共通要素が多いが、シナ歴史の起源とされる夏・殷・周の中華文明とはまったく別物である。
▼巨大な目玉のデフォルメ青銅像は霊力の象徴ではないのか
道具類も多彩で1934年に本格調査が始まり数百点のめずらしい出土品があった。戦争を挟んで1982年に発掘が再開され,大きなミュージアムもできた。 ブロンズ像の特徴は大きな目、飛び出した目玉、大きな鼻など、これはエジプトと似ている。
筆者は売店でミニチュアのレプリカを二つほどあがなって書棚に飾った。
とくに143センチの杖は力の象徴であり、大きな目玉は『ホルスの眼』「第三の眼」として神の力であり、シナの古典の『蜀王本紀』には「巨眼の王がいた」と書かれ,『華陽国史』には、この三星堆文明は、「民とともに王が去った」と書かれている。
そして数千年、三星堆遺跡は土に埋もれていた。
わが国でも亀ヶ岡縄文遺跡からは巨眼土偶が出土している これを日本では「射光器土偶」などと言っているが、神話性を無視した近代人の解釈では古代の謎は解けない。
眼には霊力が宿ったのだ。シュメールもエジプトもヒンズーも古代人は眼に神の力がやどると信じてきた。
「ホルスの眼」は古代エジプト文明において重要な象徴。目の形だが、人間の脳にある松果体という部分の断面図に酷似している。この「ホルスの目」は、癒し、修復、再生の象徴でありエジプト神話の太陽神であるラーの右目は全てを見通す「知恵の目」とも言われた。魔除けと守護のシンボルだった。
水木しげるの漫画をみよ。目玉の妖怪だらけだ。
ユダヤ教やキリスト教では、ホルスの目は神の監視と保護を表し、イスラム教では、真理と力を表している。ホルスの目は、力、保護、治癒を表す、歴史と文化的背景にあふれた霊力の象徴である。
中国の監視カメラは前項の目的、宗教を軽んじている。
「第三の眼」とは目に見えない目、ヒンズー教では頭脳にある���され、ネパールでは額に眼を描いた巫女のような神職がいる。まさに松果体(脳に存在する内分泌器)に似ている。さきにマヤ文明と書いたが、最近は人工衛星によってホンジュラスの山奥からも古代遺跡の所在が判明し、どうやらインカ文明とマヤ文明はことなることも朧気にわかってきた。
▼あのプマ・プンク遺跡の巨石切断は古代人がレーザーを使ったのだ
インカ文明以前に南米で現代人の創造を絶する遺跡が発見された。
プマ・プンク遺跡は巨石が組み立てられた謎の構造物として知られる。一番の謎は10噸以上の巨石を80キロ離れた石切場からどうやって運んだか、石を見事なH型に切断、生前と並べた技術はレーザーか、超音波か、あるいは宇宙人かまるで違う文明がもたらしたものだったのか。
レーザーはいうまでのなく半導体製造の一等中枢にある技術で、数ミリのチップに数十億の回路を刻み込んで集積回路とする。
プマ・プンク遺跡の場所はボリビアのチチカカ湖の南、ペルーとの国境で標高は3800メートル。建造は紀元前2000年頃と推定される。
一万年前と唱える考古学者もいる。
世界の考古学者、建築学者が謎の究明に挑んだ。運搬に関してはチチカカ湖を筏で移動、あるいは運河を造成したとういう説は退けられた。
丸太をコロとして人間が引いた?
英国のストーンヘンジはたしかにそうやって造られた。またチチカカ湖は古代には海だったという説、大洪水でノアの箱舟と関連があるなどの説もほぼ否定された。巨石は安山岩で、大理石よりも硬質、それゆえに数千年の風雪に耐えた。
▼これは天文台なのか。
古代人は始原的な天文学に通じていたことは明らかである。
邪馬台国の卑弥呼なる巫女も原始的な占星術、鬼道に通じていたと魏志倭人伝は書いた。
天文学的な、シャーマン的要素で戦争を指導したのは壬申の乱で勝利した天武天皇である。
プマ・プンクの巨石の列が山頂に建てられたのだから城塞ではなく神殿だろうが、文字がないうえに人骨が周辺から発見されておらず、この点では忽然と去った三星堆の謎に似ている。
ピラミッドは地下には美術館のような彫刻、地下に墳墓があるがやはり巨石の切断方法と運搬方法が解明されていない。
U型のフォーク形状の道具や、金の杖を共通に待つのは指導者の威信、力の象徴とされ、シュメール文明と共通である。ワトキンスという学者は,太陽光を人工的な集光器にあつめてレーザー光線として切断したと唱える。
もし、そうやって古代人が巨石を生前と切断し、神殿のような建造物を造成したとしたら、古代人の智恵は明らかに現代ホモサピエンスの知能を超えている。プマ・プンクの岩石には異様な磁力があるという。
巨人(宇宙人?)がラッパを吹いて巨石を動かしたという言い伝えは超音波が運搬手段に使われたとする学説である。超音波の運搬も、否定できない。
またファラオ、ツタンカーメン、オベリスクなどのエジプト古代文明とシュメールの共通点、類似性に神木がある。
神話でいわれたことで真実に近いことは夥しいのである。
AI開発が生成AIを産み、やがてチャットGPTが進歩すると逆に人間の思考力は低下し、いずれAIが人間を支配する。そうやってAIの脅威が語られているが、だれも霊力との関連を語ろうとしない。
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青木淳退任記念展 雲と息つぎ ―テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編―
Retirement Exhibition of Jun Aoki
Clouds and Breaths -The Exhibition as Temporary Renovation extra edition-
東京藝術大学美術学部建築科において5年間教鞭を執ってきた青木淳の退任記念展を開催します。
●会期: 2023年11月18日(土) ‐ 2023年12月3日(日)
●開館時間:10:00 - 17:00(入館は16:30まで)
ただし、最終日12月3日は16:00まで(16:00からは小金沢健人によるパフォーマンス)
会期中無休/入場無料
●会場:東京藝術大学大学美術館 陳列館
●主催:東京藝術大学美術学部、東京藝術大学美術館
●企画:東京藝術大学大学院美術研究科建築専攻青木淳研究室(青木淳、笹田侑志、秋山真緩、大岩樹生、佐野桃子、三輪和誠)
●協力:菊地敦己、小金沢健人、中村竜治
●会場設営:studio arche (甲斐貴大)
●グラフィックデザイン:小原七海
●問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
●Dates : Nov 18 (Sat) - Dec 3 (Sun), 2023Open throughout the session period
●Hours : 10:00 - 17:00 (Entry by 16:30)*Dec 3 until 16:00 (Performance by Takehito Koganezawa starting from 16:00)
●Place : Chinretsukan Gallery 1, 2F (The University Art Museum, Tokyo University of the Arts)
●Admission : Free
●Organizer : Faculty of Fine Arts, Tokyo University of the Arts; The University Art Museum
●Planning : Jun Aoki Laboratory, Department of Architecture, Tokyo University of the Arts (Jun Aoki, Yushi Sasada, Mahiro Akiyama, Mikio Oiwa, Momoko Sano, Kazutaka Miwa)
●Collaborators : Atsuki Kikuchi, Takehito Koganezawa, Ryuji Nakamura
●Venue Setup : Studio Arche(Takahiro Kai)
●Graphic Design : Nanami Obara
●Inquiry : NTT Hello Dial: 050-5541-8600
以下、青木淳によるステートメントです。
2019年度、東京藝術大学美術学部建築科教授に着任しました。2023年度をもって定年に達するため、最初から、5年間という時間の限りを強く意識しての就任でした。
その 5 年間で、日頃、「建築」について考えてきたことを、学生たちに伝えていきたいと思いました。
建築とは、私たちに先立っていまここに存在している環境に対して、想像力をもって働きかけ、私たちの存在の基盤である環境そのもの��揺り動かすこと、と考えてきました。どういう方向に揺り動かすはそれぞれの自由です。肝心なのは、一見、盤石の存在に見える目の前の環境もまた、それぞれの意志によって改変できるし、またそうすることによって、私たちは「自由」になれる、ということです。
そのことを、実践を通して伝えられたらと思ったのでした。
私の研究室に所属する大学院1年生たちに、そのことを目的としたプロジェクトを行なってもらうことにしました。それが、「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」でした。
建築科の大学院入試は 9月に行われます。したがって、最初の大学院生を受け入れたのは、2020年度からでした。2023年度に大学院生をとると、彼ら彼女らが修士 2 年に進級したとき、すでに退官になってしまっていますので、2020年度、21年度、22 年度の 3年間だけ、大学院生をとるつもりでした。
「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」は、3回で完結するひとつの企画でした。
展覧会とは作品を見てもらう/見にいくためにつくりあげられる一時的な環境です。作品の内容がよく、それがうまく伝わると、よい展覧会と言われます。そして、ほんとうによい展覧会だと、作品と環境との境が溶け合い渾然一体となって、そこを訪れ、時間を過ごすその体験そのものが、私たちの内のなにかに働きかけるものです。
この事態を、環境の側から見れば、すでにここに存在し、私たちの存在の基盤である環境がなにかによって改変され、その環境が私の固まりかかった存在を揺り動かしている、ということになるでしょう。作品が不要というのではなく、作品という項を仮に括弧にくくった見方をすれば、という話です。
「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」とは、このような視点で、いまここに存在している環境に働きかけ、一時的に、それを一定の方向に変えてみせることであり、それはまさに、日頃、建築について考えてきたことと重なっていました。
「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」を企画し、実践しなさい。
この課題に対して、2020年度の大学院1年生たちは、東京藝術大学上野キャンパス・正木記念館を対象として、そこに置かれた備品を配置し直すことで、その空間が持つ特質を強調しようしました。タイトルは<シン・マサキキネンカン>、企画・実践は、荻野紗、齋藤悠太、藤井雪乃、山田寛太でした。(担当教員は教授・青木淳、助手・澤田航。)
2021年度の大学院1年生たちは、渋谷駅前の桜丘フロントビル 1 階の「SACS 渋谷」を舞台として、現実の渋谷の街さながらに、展示を構成する個々の要素が独立した搬入/設営/搬出という動きのなかにある状態をつくりだしました。タイトルは<鳥は泳ぎ続ける>、企画・実践は、大貫友瑞、河上朝乃、高井爽、松井一将でした。(担当教員は教授・青木淳、助手・笹田侑志。)
2022年度の大学院1年生たちは、有楽町駅前の新有楽町ビル B1F「旧理容室」を起点として、手渡されるインストラクションを手掛かりに、有楽町の表と裏を訪ね歩くことで、普段とは異なる街の顔を浮かび上がらせました。タイトルは<HAPPY TURN>、企画・実践は、月ヶ瀬かれん、仲野耕介、見崎翔栄でした。(担当教員は教授・青木淳、助手・笹田侑志。)
これで、3 回の「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」が完結するはずでしたが、とある経緯があって、2023年度も大学院生をとることになりました。
そこで、退任記念展として、その大学院1年生たち(秋山真緩、大岩樹生、佐野桃子、三輪和誠)と、番外編としての「テンポラリーなリノベーションとしての展覧会」を開くことにしました。
今回だけは、学生たちの自主企画・実践というのではなく、青木、笹田が前面に立つので、番外編としました。
とはいえ、これもまた、建築というものがつねにひとりの個人に帰属できないように、青木個人の、あるいは青木と笹田の「作品」としての展覧会ではありません。建築は、ひとりの個に収斂していくものではなく、外に向かって広がり、ばらけ、にもかかわらず、一貫した「質」を保つものです。
そのことをはっきりさせるために、何人かの「外部」の人に開こうとしています。
グラフィック・デザイナーの菊地敦己さんには、「キャプション」という側面から関わってもらいます。
アーティストの小金沢健人さんには、「パフォーマンス」という側面から関わってもらいます。
建築家の中村竜治さんには、もうひとりの建築家として関わってもらいます。
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青木ヶ原樹海
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20240502
釣りを始めた。
正確には再開した。
子供の頃はバス釣りブーム世代で最後に釣りをしたのは多分大学生ぐらいだったと思う。もう二十年も前の話。
夏に帰省したはいいが暇過ぎて物置から道具を引っ張り出して夜中に釣りをした。湖面に反射する橋の街灯の明かりを狙うとブラックバスが釣れた(つか夜釣り禁止)。思えばインターネットの普及前夜、ましてiphoneもYouTubeもSNSもない世界。田舎の夜の闇には茫漠として底知れない暗さがあった。
その後実家の車に竿を入れておいたらお袋が窓に挟んでへし折り、いつしか釣りもやらなくなった。
東京時代は下宿のまん前に多摩川がありスモールマウスバスやサクラマスまで釣れるポイントだったという。ただ哀しい哉、我が身の振り方でそれどころではなかった。
その後帰郷してからこれまで10年以上、目の前に富士五湖があるにも関わらず釣りをしようという気は起こらなかったが、これはどっかで釣りをタブー視していたからだと思う。私はギャンブル覚えたらやばい自覚があり若い時分から一切手を出さなかった。(年末の宝くじ以外は。)
なんというか釣りも同じ匂いがする。サッカー観るのも然り。
私にとって(強調)は釣りもサッカーも技術、戦術云々よりあくまで偶然や運、カイヨワの分類でいうアレア(サイコロ遊び)の領域属性であって退屈と興奮のフォーミュラ、その妙が重要なのだ。
それが去年ぐらいからYouTube上にある山奥の源流部まで遡上して野営しながらテンカラやルアーで岩魚を釣る動画を見ていたらだんだんと釣りが気になり始めた。
つり人社のチャンネルの動画
☞ https://www.youtube.com/watch?v=Ctgz92afs_I&t=2358s
今年になり雪山登山を解禁した流れで釣りもやってみようと思った。
いざ何を釣るかとなると加齢に伴う趣向の変化もありバス釣りってのもしっくりこない気がする。もうちょっと燻製臭さというか少し枯れた感じが欲しい。渓流釣りが理想だが実釣するまでに踏む過程が多く敷居が高い。海釣りも然り。
試しに本栖湖に行ってみてこれだと思った。
スプーン(金属製の疑似餌)の鱒釣り。
その足で湖仙荘に行って遊漁券の年券を買った。
水が栄養化した河口湖や他の湖と違って本栖湖は藻類が乾いた生臭さが一切ない。静けさの中青く透き通った水と富士山や周辺の山々を見ながら水面に糸を垂らしていると釣れなくてもそれはそれでいいという気になってくる。
聞けばデスレイク呼ばわりされるほど釣れないがそれでもハマって通う釣り人が多いのだという。
少し飽きたらお湯を沸かしてコーヒーをたてて、鳥の声や水の音を聴きながら星野道夫のエッセイ集や最近買った西川美和の短編小説を読んだ。雪化粧した山並みをぼーっと眺めている時ふいに、田舎に帰っても何もないぞと嘲りを含んだ知人の言葉を思い出す。
確かに何もなかった。
だがこれ以上の何があるというのだろう。
小学生以来に買った釣り竿とリール。
リールはバス用、竿は万が一の大物も対応できるネイティブトラウト用。共にシマノ製。下手の横好きは自認しているので��れなりの道具で満足。いわゆるハイエンドの機種ではないが釣りに興味がない人からすれば安くもない。
兎にも角にもいっちょ前の太公望である。
本栖湖はその透明度の高さから水が青く虹鱒の背が保護色で青くなるという。誰が呼んだかブルーバック・レインボー、幸せの青い鳥ならぬ青い鱒を追うのだ。
休みの日の夕方か明け方に数時間、何日か通ってみるも噂通り、全然釣れない。何もかも手探り状態でこの釣りの最適解がわからない。
まじで釣れねえ。
釣れない釣りはどこか宗教的行為に近い。何かの到来を期して待つという部分では、リールのハンドルを回すのもチベット仏教のマニ車を回すのも特段の違いはない。
連続ボウズ記録更新中の三月のある日の明け方、突き出た岬の中腹の辺り。日の出に合わせてティムコの赤金の10gのスプーンを投げる。ティムコってちんこみたいだなと思いながら表層を早巻きしているとゴツ…ゴツ…���アタリ。
目をこらすと黒い影がスプーンの周りをビュンビュン動いている。
ぐっと堪えて食った瞬間合わせた。
しかし久しぶりすぎて合わせが甘く何回か跳ねた後足元に手繰り寄せたとこでバラしてしまった。30cmぐらいの何らかの鱒。銀色の残像だけで噂の青い背中はわからなかった。
それから全く釣れなくなり、取り逃した魚の感触ばかりを思い返す日々。
Life is like fishing、初恋は祟る。
それからさらに経ち四月の上旬。
3時に起き毎度の国道139号線。
青木ヶ原樹海の脇を抜け明け方4時前にいつものポイントに着くと裏手の山の森でトラツグミが幽霊みたいに恨めしく鳴き、時折鹿が奇声をあげて合いの手を入れる。
空を見上げれば人工衛星かはたまたUFOか。謎の発光体が明滅もせず南東の方角へゆっくり移動していく。あれは一体何なのだろう。
遠くの浜の方から波の音が微かに聞こえてくる。
湖は風もないのに音を立てて荒れていた。
ライトで照らすと黄泉の国の入り口が浮かび上がる。
まるでタルコフスキーのソラリス。水深120mという深さと日本屈指の透明度もあり波が立つと湖全体がうねり一つの生命体に見えてきてすごく不気味だ。
東の空が白み始めるのを待って釣行を開始。まだ一投目だというのに私は一体何をしているのだろうという気持ちがすでに頭をもたげている。
今日も釣れない気がする。
あまりに釣れないことが続くとその行為の目的を問う意識が海嘯の如く内面に向かい始める。
同年代の人々は疾うに人の親になったというのに、とか。どうやら私の両親は私の子供を抱くことはない、だとか。そんな世間から押し付けられたのか、はたまた自身の先への不安や負い目なのか最早わからなくなった色んなアレコレ。それをぶん投げてとりあえずしまっといた暗い部屋。その扉の隙間からドロドロの中身が泡を立てて上がってくる。
酷かった子供時代のこと。誰かを傷つけたこと。誰かを憎んでいること。これまで飲み込んだ人の悪意、ありとあらゆる負の記憶たち。それが湖の波の形になってグニャグニャと湖面を揺らしている。
何の本で読んだか、文化人類学者の中沢新一が原始的な仏教の形が色濃く残るバリ島で呪術師に悟りについて尋ねると毎晩夜釣りに連れて行かれたという。釣りそのものに意味があるのではなく、暗闇の中の気配に意識を集中することで心の深淵に下りていくのだと。
眼前に広がるのは湖へ投射され顕現した潜在意識。
ヘドロの塊のようでいてどこまでも透き通っている。
思えば昔から水辺に行き水を眺めてきた。
釣りをやめてからは眺めるだけ。村上春樹のいうところのデタッチメント。一定の距離を保つ。
子供時代に海に連れて行ってもらったことはない。
多摩川も川岸に座ってただ眺めるだけだった。川面は光を反射し時に透過させその内側の世界を私に見せる。
釣りはその細い糸一本を通して水の中の世界との交感を試みる行為である。
気づけば再び水との境界線を越えていた。
たかだかおっさんが趣味で釣りを始めただけのくだらない話だが私にとっては何か象徴的な儀式みたいに思えた。
天子山地の向こうから山肌を舐めるようにドロドロと下りてきた雲がどんよりと東側の富士の樹海上空に溜まっていたが、その雲をかき分けて陽が昇り的礫と水面を照らす。
水面は朝日を反射し偏頭痛かLSDの見せるサイケデリックなビジョンみたいに幾何学的に像を結び、解ける。つか酔いそう。黒曜石の破断面のようにも見える。
前に釣りかけた時のティムコのスプーンに執着していたがパターンを捨てた。
所詮過去だ。
過去の魚は釣れない。
当たり前だが。
アワビの貝殻のキラキラが貼ってある赤金の少し小さいスプーンを直感で選ぶ。予感…、シンクロニシティが起きる直前と同じ気配がする。
朝日が照り返す辺りへ向けて50m近く遠投する。重い金属製のスプーンの釣りは根掛かりこそ多いが、かっ飛ぶので爽快だ。
着水し巻き始めた直後にゴン!とアタリ。距離かナイロンラインの特性か少し伸びる感じ。今度は確実に合わせた。
魚は針を外そうと二度水面を飛び跳ねる。慌てて竿先を水中に入れた。鱒は口が弱いらしく合わせてから取り込むまでの距離が長くてヒヤヒヤした。
手掴みで取り込む。
青い。
ランディングネットは一匹釣れるまではと用意していなかった。
弱らせないように針を外し写真を撮ってすぐ逃した。
そういえば大きさを計り忘れた。35cmぐらい。
ほんとに釣れた。
最初に釣った魚は逃がそうと何となく決めていた。
一瞬だけ交わりもう会うことはない。
私の釣ったあの鱒は今も深い湖のどこかを泳いでいる。
それを想像するとなんだか不思議な感じがする。
心の奥の森にいつしか魚のいなくなった湖がある。
そこに青い背をした魚を放した。
そんな感じ。
静かな気持ちだ。
さて。
次は食う。
多分。
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Landscape Photography at Aokigahara Forest in Yamanashi Prefecture, Japan
Join me on a short photo shoot to the Aokigahara-Jukai Forest located near Mt. Fuji in Yamanashi Prefecture, Japan.
Our photo shoot begins at the trailhead of Aokigahara-Jukai Forest, and later continues deeper into the “Sea of Trees Forest.”
Faithful Companion Deep in Moss-Covered Sea of Trees
Full write-up: https://www.pix4japan.com/blog/20240320-jukai
Pentax K-1 II + DFA 28-105mm F3.5-5.6 + CP
45 mm ISO 25,600 for 1/200 sec. at ƒ/6.3
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GLAYの好きな歌詞 GLAY HOWEVER #shorts #glay #グレイ #however
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雑 詠
花鳥誌 令和6年1月号
雑詠巻頭句
坊城俊樹主宰選 評釈
雑詠巻頭句
上り来る男使ひの秋日傘 中里 三句
坂の上から見ている作者。最近は日傘をつかう若い男もいる。ある意味でお洒落なのかもしれぬ。どんな色の傘なのだろうかと好奇心も湧く。
秋日傘上る高さに水平線 中里 三句
これも同じ視線から。だんだん上ってくる日傘。遠くには秋の海の水平線が見える。と書いたところでこの景色は見たことがある。湘南の電車が走る七里ヶ浜の景色ではないか。実際私もそこから海に入った青春の思い出も。
木洩日は鹿の子模様の秋日傘 中里 三句
これはまた粋な日傘。それを造形するのが木洩日。この目の付け所が素晴らしい。粋筋の日傘なのかあるいはゆったりとした老婦人のものか。
明日は雨卑弥呼の国の月夜茸 伊藤 ひとみ
月夜の茸は卑弥呼によく似合う。しかもそれは月夜なのに明日の雨を暗示する。ここに俳句の美意識がある。
秋声や置いてけ堀の風の中 伊藤 ひとみ
「置いてけ堀」はたしか東京の下町あたりだつたような。作者の住所とは違うがそこが楽しい。一種の妖怪がそこを通る人を拐かす。その声が秋声と重なるとは作者の芸が見事。
始まりは終りへ続く秋思かな 伊藤 ひとみ
こう言われると秋思とはかようなものかと思ってしまう。いわゆる堂堂巡りと言うか切ないほどの思い。たしかにそれは秋の思いに合っている。
邸宅の秋に遺りし旅鞄 斎藤 いづみ
豪壮な邸宅に遺された主の鞄。この鞄は一昨年とかのものでは無く百年は経過した古き佳き時代のものだろう。邸宅なのだからその家の大層な遺品だろう。
華麗なる家族からつぽ蔦灯る 斎藤 いづみ
「華麗なる一族」という小説などもあった。一族郎党の悲哀や葛藤などがそこにある。そこは蔦が絡まる洋館。その歴史は喜怒哀楽の歴史。
空席のまま木の実時雨のベンチ 横田 美佐子
空席がせつない。それを観察する作者の心情まで察せられる、これは詩情の句。
雲と雲重なるところ秋の声 渡辺 彰子
この発想はもの凄い。雲の行き来を見ながらの写生。しかし写生を超えるとはこのこと。
これよりは鏡の間なり秋の声 緒方 愛
これはまた豪壮なる邸宅。この秋声は嘗ての住人のものか。累代の祖のものか。
華やかに滅びゆく香や秋薔薇 栗原 和子
薔薇こそは華やかに萎れる。その季題の本情そのものの句。俳人より詩人の感性。
ビロードのソファに露の身を沈め 渡辺 光子
これまた豪華な哀愁の作品。露の身なのだからそのソファーに哀惜を感じた。
まねき猫ひとつ売れては秋を呼ぶ 竹内 はるか
まねき猫はあまり売れない。たまたま売れた頃に秋がやって来る。それは真実。
流星のかの世に消えてゆきにけり 続木 一雄
大きな句だ。三次元の句ではなく四次元の句。それにプラス詩情の句。
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富士山の見え方
精進湖から見る富士山
個人の富士山のイメージは絵に描くと分かる。山頂部に水平な部分があって、台形のような形と考えている人は多いだろう。しかし、実物はかなり違う。
例えば山梨県側から見た富士山はより急峻で野性味を帯びている。山頂部も傾いており、溶岩を流した跡が残っている感がある。現にその形跡である青木ヶ原樹海が溶岩流の広域さを推量する証となっている。
私たちが富士山に対して漠然としたイメージをもっているが、それは現実の富士山とは程遠い。人生という単位、もしくは人類史というスケールでも収まりがつかないほどの長大な時間をかけて造形されたものは複雑であり、言語でも映像でも捉えることはできない。ごく一面をしかも省略したり誇張したりしてようやく表現できるのだ。
私たちの目にするもののすべてが実はすべて物事の一面に過ぎないことを考えるべきなのだ。
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本日ご紹介するご本はこちらッ!
写真で巡る全国各地の心霊スポットとされる廃墟を撮影した恐怖体験写真集。
青木ヶ原樹海を始め自殺の名所や生々しい死のスポットを掲載。
直接的なものはなくても雰囲気で感じる恐怖ッ!
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