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#悩める進路
oniwastagram · 2 years
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📸目黒邸(旧目黒家住宅)庭園 / Meguro-tei Residence Garden, Uonuma, Niigata 新潟県魚沼市の国指定重要文化財『目黒邸』の庭園が素敵…! JR只見線・越後須原駅から徒歩3分…かつて会津の戦国大名・蘆名氏に仕えた武士→豪農の茅葺屋根が重厚なお屋敷&明治時代の近代和風建築と、魚沼地域では貴重な江戸時代の歴史的庭園。一帯は新潟県立の都市公園『須原公園』でもあります。 新潟・目黒邸庭園の紹介はこちら☟ https://oniwa.garden/megurotei-uonuma-niigata/ ...... 「目黒邸」はJR只見線・越後須原駅🚉から徒歩3分とすぐの場所にある豪農屋敷。 「旧目黒家住宅」として主屋/新座敷(橡亭)/中蔵/新蔵の4棟と屋敷地が国指定重要文化財で、江戸時代中〜後期に建築された主屋と近代に建築された橡亭とそれぞれから眺める池泉式の日本庭園も残ります。 . 2年半ぶりに新潟を訪れた2021年秋に初めて訪れました! この目黒邸もこの旅行で行きたい上位にあった場所――なんだけど、小島谷の『住雲園』と同じく頭を悩ませたのがアクセス。 . 駅から徒歩3分と書いたものの、肝心の只見線が1日4往復…。開館時間中は13時台の1本のみ。 小出〜越後須原間の路線バス🚌を組合せることで当地に取り残されることは避けられる(*平日のみ)けど、気軽に途中下車出来る場所ではないのは確か…。 .. 只見線、小出→会津若松と乗ったことはあったけど沿線の駅近にこんな場所があったとは〜。 また目黒邸のある一帯が新潟県立の『奥只見レクリェーション都市公園 須原公園』🌲として整備されているので、人はそこそこ居る。 . 元は会津国の戦国大名・蘆名氏に仕える武士だった目黒家。蘆名氏が伊達政宗🌙に敗れたのを機に目黒家も会津を離れ、1590年(天正18年)より旧会津街道沿いのこの越後・魚沼の地で帰農したと伝わります👩‍🌾 江戸時代に入ると慶長年間には15ヶ村の“肝煎役”をつとめ、以後江戸時代中期には糸魚川藩魚沼領の“割元庄屋”〜明治時代に入るまで大庄屋職をつとめました。 . 近代に入って以降も須原村の中心人物として15代目当主・目黒徳松が新潟県議会議員〜衆議院議員を歴任、16代目・目黒孝平も衆議員議員となり、只見線🚃の開通や銀行🏦の設立、水力発電所の建設など地域の近代化を推進・尽力されました。 続く。 ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #zengarden #beautifuljapan #japanesearchitecture #japanarchitecture #japanarchitect #japandesign #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #bonsai #建築デザイン #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #庭院 #庭园 #近代建築 #近代和風建築 #魚沼 #uonuma #新潟旅行 #にいがた庭園街道 #国指定重要文化財 #重要文化財 #只見線 #越後須原 #おにわさん (目黒邸) https://www.instagram.com/p/CeTphL2Pisr/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 16 days
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桜林美佐の「美佐日記」(253)
戦後史ミステリー「下山事件」の内幕話……
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、253回目となりま
す。
前回の災害派遣が今も継続されていることに対して
も「ファストイン・ファストアウトが鉄則のはずの
自衛隊をここまで長期間にわたり使うというのは、
やはり問題があると思いますというご指摘について、
もっと多くの方に知っていただきたいと思います」
と感想を頂戴しました。ありがとうございました。
 
 少し前に、NHKスペシャルで「下山事件」を取り上
げるというので、観てみました。これは昭和史最大
のミステリーと言われる事件で、初代国鉄総裁の下
山定則氏が、出勤途中に立ち寄った三越デパートで
突如、姿を消し、15時間後に東京・足立区の線路上
で遺体で発見されたという出来事です。
 占領下の国鉄でGHQから10万人の人員整理を命じ
られた下山総裁の謎の死ということで、苦悩の末の
自殺なのか、あるいは何らかの勢力による他殺なの
か、これまでも多くの関連本が出ています。
 警視庁などは自殺であると言っていたようですが、
共産党による犯行であるとする説や、松本清張の
「日本の黒い霧」では米軍機関による犯行としてい
るようです。合理化に反対し闘う国労をつぶすこと
を目的としたGHQによる謀略だと。番組では米国
の反共工作部隊「キャノン機関」の関与も取り上げ
ていました。
 
実は、何を隠そう、私の母方の祖母は下山総裁が立
ち寄ったという足立区五反野にある旅館跡に住んで
いました。私自身も一時期そこに住んでいました。
 私の実の祖父は警視庁の警察官でしたが、インパ
ールに出征し戦死し、私がおじいちゃまだと思って
いたのは再婚相手だったのです。
 そのおじいちゃんと前妻の長島フクさんが営んで
いた「末広旅館」に下山総裁が亡くなる前に数時間
滞在したということで、その時の様子を証言するフ
クさんの映像を今回初めて観ました。
 下山総裁が滞在した時のことをかなり詳細に語っ
ていたということでしたが、それがゆえに、その信
憑性が疑われているようです。
 私はこの映像を観て、その事件の真相よりも、私
の祖母とは全く違うキャラクターになんだか驚いて
しまいました。祖母は祖父と死別した後に、親族か
ら籍を抜くように言われ、身寄りのない戦争未亡人
となったのですが、祖父の警視庁の先輩だった長島
の妻フクさんが亡くなったことで、そこに後妻に入
ったのです。戦後はこうした複雑な婚姻関係が多か
ったのだと思われます。
 大変だったのは、元末広旅館という場所柄、マス
コミや数々のジャーナリストや祖母宅を訪れ、対応
しなければならなかったということでした。もちろ
ん、私の祖母は何も知らないのですが。
 この私のおばあちゃんという人は本当に面白くて、
誰にでも好かれるタイプでした。何が面白いって、
例えば「今度、イモ洗いに行くようにお医者さんに
言われたの」というので、それはどこで言われたの
か問うと整形外科だという。もしかしてそれは「イ
モ洗い」ではなく「MRI」じゃないの!?と病院に問
い合わせると、案の定MRIではありませんか!すでに
近所中の人たちを誘ってしまったために、危うく近
隣の人たちと「イモ洗い」の計画を本当に進めると
ころでした(っていうか、イモ洗いって何なの?)。
 そんなわけで、今回の下山事件の番組を観て、あ
あこの証言しているのが、私の実のおばちゃんじゃ
なくてよかったなあという感想が、実は第一でした
……。
 今回は戦後史ミステリーの話か!と期待された読
者の方にはこんなオチでごめんなさい。
 今日も最後まで読んで頂きありがとうございまし
た。どうぞ良い1週間をお過ごし下さい!
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kennak · 24 days
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世界有数のカルデラが生み出した特徴的な眺望で知られ、「阿蘇くじゅう国立公園」も広がる熊本県の阿蘇地域一帯に、大規模な太陽光発電所が次々に出現している。全国の国立公園でも急増しており、環境省は開発に一定の歯止めをかけなければ景観に悪影響を及ぼす恐れがあると判断。同公園については今年度中に区域を拡張するとともに、規制も強化したい考えだ。(帆足英夫、矢野恵祐)九州最大級草原だった地に広がるソーラーパネル(昨年12月、熊本県山都町で)=長野浩一撮影 阿蘇南部に位置する山都町。黒光りするソーラーパネルが草原を覆う。東京の再生可能エネルギー大手が手がけた発電所で、隣接する高森町を含む面積は福岡ペイペイドーム(福岡市)約27個分の約191ヘクタール。出力は九州最大級を誇る。  山都町の土地はかつて、住民でつくる冬野牧野組合の組合員26人が共同所有する牛の放牧地だった。元組合長の森田勝さん(70)は「維持に必要な野焼きを10年ほど前にやめたことで草原が荒れ果て、売る道しか残されていなかった」と振り返る。高齢化や後継者不足に悩んでいた同組合による売却話には、10を超える太陽光発電事業者から問い合わせがあったという。 草をはむ牛の姿は失われ、地元では「異様な光景で、『阿蘇』のイメージを損なっているのではないかと心配だ」という声も漏れる。だが、森田さんは「皆で話し合ったことで後悔はしていない。『草原を守れ』というのであれば、維持管理の責任を組合だけに負わせる仕組みを変えるべきだ」と訴える。 同社は環境保全策として、〈1〉外周に樹林帯を設ける〈2〉電柱には景観に溶け込む色を使う――といった取り組みを挙げた上で、「住民説明会や見学会を実施し、事業に理解をいただいて推進している」などとしている。「特別地域」 熊本県によると、阿蘇地域には昨年11月末現在、売電を主な目的とする出力1メガ・ワット以上の太陽光発電所が20か所、山都町には6か所ある。牛を放牧する草原などを指し、特有の景観を形づくってきた「牧野」は約2万2000ヘクタールに上るが、県は牧野を開発してできた施設の数を把握しておらず、失われた面積もわかっていない。 熊本、大分両県にまたがる阿蘇くじゅう国立公園(約7万3000ヘクタール)内は自然公園法に基づいて開発を抑制できるが、公園外では一定の要件を満たせば、県から林地開発の許可を得るだけで設置できるという。 環境省は公園の区域を広げ、太陽光発電施設を設置できないようにより厳しく制限する「特別地域」を増やすことを検討中だ。同公園管理事務所(阿蘇市)は「スピード感をもって取り組みたい」とする。世界遺産懸念 阿蘇の世界遺産登録を目指す県も、手をこまねいているわけではない。 県が周辺7市町村とつくる協議会は2020年、「発電所で眺望を著しく傷つけることがあってはならない」とする宣言を採択。「草原には原則として設置しない」とする指針も策定したが、法的な拘束力はない。市町村側からは「効果は未知数だ」との懸念が根強い。 23年9月には太陽光発電施設を誘致する際の目安となる基準を新たに設け、阿蘇地域の中央部を「除外すべき区域」に指定した。市町村側は発電所の開発を誘導する区域を設定できるようになるという。県は「自然環境や景観への影響に県民の懸念が高まっている」として、景観を損なう恐れがある場所を示す地図を公表。県エネルギー政策課は「環境保全と再生可能エネルギーの発展のバランスが重要で、開発の適地に誘導することが必要だ」とする。全国でも 再エネの普及・促進の動きに後押しされ、北海道の釧路湿原や三重県の伊勢志摩などの国立公園一帯でも、大規模な太陽光発電所の建設が相次ぐ。自然や希少動植物に与える影響を不安視する声も高まっている。 環境省によると、全国の国立公園内にある太陽光発電施設は、14年2月末時点で26件(うち出力1メガ・ワット以上のメガソーラーは6件)だったが、23年3月末には129件(同9件)とこの10年で5倍に増えた。メガソーラー9件のうち、6件が阿蘇くじゅう国立公園に集中している。国立公園の中に住宅や田畑が広がる民有地も多く含まれているため、開発を一律に規制することは難しいという。
阿蘇の景観覆うパネル、メガソーラー続々…環境省が規制強化へ : 読売新聞
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plaisir-joy · 8 months
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心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言 3章5-6節
昨日通学中に、ふと上のみことばが浮かびました😌
まさに、私はこれからの進路や学びのことで悩み中でした。この箇所でいう「主を認める」ということは具体的にはどんなことなんだろうとよく考えるのですが、
今の自分と照らし合わせた時に、私は主を認めきらずに、自分の身勝手さや高慢さがあるなと思わされたので、悔い改めて全ての領域で主を認めて感謝して祈ろうと思いました。
そんなことを考えながら、新学期も宗務部にあるみことばひめくりに向かったところ
私の誕生日の日のみことばで止まっていたのですが、なんとそのみことばが上記のみことばでした👀  
私の内におられる聖霊様が確かに語ってくれたんだなということを思わされ、喜びでいっぱいの1日でした!
主を認めて、道をまっすぐにしてもらいまする🥳
賛美
2023.9.12
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myonbl · 6 days
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2024年4月24日(水)
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若い頃からの不摂生のせいで、歯周病に悩まされている。<治す>ことは出来ないので<これ以上の悪化を防ぐ>ことを治療方針として、月に一回の歯医者通いを続けている。ドクターのチェックとスタッフのクリーニング、所要時間は30分だ。とは言え、前期は平日すべて授業が入っているので、通��可能な時間帯は水曜夕方に限定される。診察券のスペースが一杯になったが、次回いただく新しい診察券、いったい何枚目になるのだろう?
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5時45分起床。
洗濯。
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朝食。
珈琲。
弁当*2。
空き瓶缶、45L*1。
ツレアイの職場経由で出勤する。
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順調に到着する。
昨日の<スタディスキルズ>のワークシートのチェック、グループワークの結果をまとめるのだが、<先ず結論、後から理由>のトレーニングだ。
水曜日は2限・3限<情報機器の操作Ⅰ(栄養学科)>、今日は第3週目、とにかく<タイピング練習>を徹底させたいのだが、午前のクラスは慣れていないものが多く、午後のクラスは昼休みに一生懸命練習しているものが多い。例年のことだが、クラスの雰囲気の違いは面白い。
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3限終わってすぐに退出、帰路も順調だ。
昨晩仕込んだ<無水地鶏カレー>に火を通す。
西村歯科の予約は17時、今日は先にドクターのチェック、その後いつものクリーニング。次回は5/29(水)16時45分。
帰宅してからカレーの仕上げ、サラダの用意。
ツレアイ帰宅、すぐにココに点滴する。
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息子たちにはチリの赤、私たちは少し肌寒いのでまず🍶、そして🍷。
録画番組視聴、
日本の話芸(リストア版) 落語「愛宕山(あたごやま)」古今亭志ん朝
父・志ん生に入門後、わずか5年で真打に昇進!天才ぶりを発揮した志ん朝。粋な江戸弁、軽快な語り口で一世を風びした。誰もマネのできない至芸がよみがえる。
素晴らしいのだが、「愛宕山」はやはり上方版が好きだ。
片付けの前に睡魔到来、布団に吸い込まれた。
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歩数は13,287、さすがによく動いた。
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ashi-yuri · 11 months
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あなたや私と同じ普通の少女の話
FAITH: The Unholy Trinity fanfiction
エイミーのお話です。
※バチカン非公認
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1.    家(予兆)
 誰も口にしないパーティーのチキンをゴミ箱へ捨てる。招待状を捨て、お誕生日の飾りを捨てる。地下からだかだかとミシンペダルを踏み込む音が聞こえる。毎日、毎日。父さんから中東だかアフリカだかの人形が送られてきてから、お母さんは毎日地下室にこもってマネキン相手になにかを作り続けている。父さんはどうかしている。不安を抱えてるお母さんにあんな気持ちの悪い人形を送りつけるなんて。家にもろくにいないのに。この家にいるのは私とお母さんの二人きり。そして会うことのなかった弟たちの二人。
 階段を上がり、隣の部屋へと続く扉を見つめる。もうあの扉を開けたくない。真新しかったはずのおもちゃにうっすらと埃がかぶっているのを見るのがつらい。父さんもお母さんも誰もずっとなにもできないでいる。捨てることも、掃除することさえも。ほんとは片づけるべきなんだろう。家に来たお医者さんの先生もそう言っていた。だけど、あの部屋を片付けた瞬間に私の家は終わる。どうしてだろう。でも、あの部屋だけが私たちを何とかつなぎ留めている。気が狂いそうだ。
 リビングの片づけが終わっても、ミシンのだかだかという音がまだ聞こえる。きっと明日も、明後日も。今度は何を作るのだろう。ミシンのあの音は大嫌いだけど、何か作っているあいだのお母さんの具合はまだよかった。一度、あのミシンの音をやめてほしくてお願いしたら、急にすごい大声でいつもの双子の話をまくしたて、森へと飛び出してしまった。慌てて森に探しに行こうとしたら、両手を血まみれにして帰ってきた。「狼がいるの。あなたも、あの子たちも、私が守らなくちゃ」と呟きながら。このあたりに狼なんていないよと言ったけれど、お母さんは手を洗って、そのままふらふらと地下室へ行ってしまった。
 お母さんに私の声は届かない。ずっと双子に憑りつかれているから。
 お母さんの調子が悪くなって、父さんは仕事で家を空けることが多くなった。それとも、逆だったろうか。外に続く森は暗く、幹線道路を走る車の音も聞こえない。この家にずっと私とお母さんと二人きりでいる。地下室のミシンの音がようやくやんだ。その代わりにすすり泣く声が聞こえる。
 お母さんは可哀想な人なんだ。これ以上傷つけたくない。私がしっかりしなくちゃいけない。気が狂いそうだ。
2.    樹
 お気に入りの松の木に寄りかかって座る。どの木も同じに見えるけれど、この木はとりわけ枝張りがよく、近くにいると落ち着けた。この場所ならおかしな声も音も聞かなくて済む。家のことを考えるのが怖かった。中にいると、歪んで、まっすぐに進めなくて、家自体が軋んで悲鳴をあげている気がする。お母さんには、学校に行けずに家に閉じこもっているからストレスがたまっているのだろうと言われた。私とお母さん、おかしいのはどちらなんだろう。この家と森にふたりでいると、すべてがどんどんおかしくなっていく。出口が見えない。
 前にこの木のそばでひとりで泣いていたら、そのすすり泣く声がお母さんにそっくりで、それが怖くてもうずっと、泣けなくなっていた。
 誰もいない木々のあいま、鹿が通り抜けていくのだけを眺めている。ずっと眺めていると、赤いものを身に着けた大人の人たちが歩いていくのが見えた。ふとその一人と目が合ってしまうと、あちらか声をかけてきた。
「そんな顔をしてどうしたの、お嬢さん。なにか辛いことでもあった?」
 なんてことない言葉だったけれど、そこには随分とひさしぶりに感じた暖かさがあった。
3.    診療所
 ハートフォードのクリニックでお手伝いをするのはとても楽しかった。チームのみんなが近くまで車で迎えに来てくれるし、街には森にはない色々なものがあった。それにクリニックでボランティアをすることは、すごく人のためになることのように思えた。そこにはいろいろな悩みや不安を抱えた女の人たちがやってくる。私は医者でも看護師でもないから大したことはできないけれど、ちょっとした事務仕事や患者さんの話し相手になることはできた。
「赤ちゃんを失ってしまったことは、あなたのせいじゃないんです」
「今はつらいけど、きっと受けいれられる日が来ます」
 そうだ。本当にそうなんだ。
 少しだけ肩の荷が下りたようにクリニックを出る人を見ると、私の心も少し軽くなる。だから、このクリニックのことを悪く言う人がい ても気にならなかった。
一度だけ、このクリニックを経営する団体のトップだというミラーさんという人と会ったことがある。スタッフみんなに親しげに声をかけながら、最後に私のところへと来た。赤いへんなローブから覗く瞳が、真正面からこちらを見つめる。
「いつもクリニックのため頑張ってくれてありがとう。これからも期待しているよ」
 強面のわりに言葉は思いのほか優しく、握手した右手は骨ばっていた。そしてなにより見つめた瞳の奥の翳りは、どこかで見覚えがあるような気がした。ミラーさんと一緒にいた女の人が私を睨んでいたような気もしたけれど、私はあの翳りをどこで見たのか、そればかり思い出そうとしていた。
4.    家(変容)
 頭がぼんやりする。眠れないとき、不安で息が苦しくてたまらないとき、クリニックでもらった薬を飲むようになった。あれを飲むと、すこし不安が消えて落ち着ける。時々、ぼうっとしてしまったり、たまに何かよくわからないものが見えることもあったけれど、形の見えない不安に苛まれ続けるよりはよかった。
 父さんもお母さんも私がクリニックでボランティアすることを快く思っていなかった。変な噂があるとか、私の様子が最近おかしくなっているとか。確かにそうかもしれない。けれど、この家にいるよりずっと普通だし、ちゃんと誰かの役に立てている。チームのみんな、私の話を聞いてくれるし、親切にしてくれる。
 夕方の食事の席で、久しぶりに帰ってきた父さんが諭す。
「お前のことを心配しているだけなんだよ。」
「そうよ。あそこには変な人が出入りしてるっていうじゃない。」
「うちよりずっと普通だよ。」
「どうしたの、エイミー?」
「うちよりずっと普通だって言ってるの!」
 なぜか、これまでずっと言えなかった言葉が喉の奥で渦巻いている。目の奥が引き攣り、頭の中で聞いたことのないノイズが呻き鳴く。
「どうしたの、あなた……ねえ、本当におかしくなってしまったの?」
「おかしくないよ。私はずっとまとも。」
「エイミー、そういう話は食卓では……」
「エイミー、何がおかしいっていうの?」
「うちだよ。」
「えっ」
「うちがおかしいんだよ。」
 耳鳴りがひどくなる。家が軋む音が聞こえる。戸棚がガタガタと震え始める。
「父さんもお母さんも、ずっとおかしいよ。」
「エイミー、」
「弟たちがいるふりなんかして。」
「エイミー、やめなさい……」
「とっくに双子なんていないってわかってるくせに。」
「エイミー!」
「あなた、おかしいわ……」
「おかしくない。」
 口の端からごぼりと血がこぼれ出す。
「エイミー、やめなさい!」
「いもしない双子の幻影なんかにすがり続けてるほうがおかしいんだよ!」
「エイミー、お前がおかしい。謝りなさい!」
「私はおかしくなんてない!」
「あなた、悪魔が憑いてるのね!」
 バン、とグラスがはじけた。
 救えない。この家は、もう救えない。
 ふらふらとダイニングを出る。手足がガクガクと震えてうまく歩けない。ふと振り返ると、鏡に映った自分が見えた。そして、気付いた。あのゲイリーという人の目にあった翳りをどこで見たのかを。
 それは、自分の眼の中にあった。
5.    家(事件)
 椅子に縛り付けられ、どこかからやってきた大人たちが私に向かって聖書を読み上げている。無性におかしくて笑い声をあげると、自分のものじゃないノイズが混じる。薬が切れたせいだろうか、やけに息苦しくて体が震える。なんで神父さまなんか呼んできたんだろう。ふたりとも、神様なんて信じていないくせに。いつもそうだ。ずっとそうだ。救ってもくれない幻影を、偽りの救いを信じ続けるなんてあまりにも哀れだ。そういえば、結局なんの役にも立たなかった、アフリカに派遣された神父さまの手紙は地下のどこに置いたっけ?口が勝手になにかを叫ぶ。体は震え、熱く苦しい。なのに心だけは、驚くほど静かだった。
 一人きりになった年長の神父さまがなにかを唱え、十字架を掲げる。途端に体が燃えるように熱くなり、胸の奥に蠢く何者かごと圧し潰そうとしてくる力を感じる。今までのものとは比べ物にならないほど苦しい。胸の奥の「それ」が苦しみ外に出ようと滅茶苦茶に暴れ出す。口から聞いたこともない悪態の言葉が飛び出す。苦しい。死んでしまいそうだ。でもまだ死にたくない。神父さまのほうを見上げると、その表情は力強くまったく揺るがない。だめだ。私では勝てない。このままでは圧し潰される。まわりを見渡すと、奥にマネキンたちが見えた。視線を強く向ける。自分とマネキンの間に繋がりを感じ、触ってはいないけど手ごたえがある。そのまま引っ張るように顔を引き上げると、がしゃんとマネキンが倒れた。警戒しながら神父さまが振り返る。めくれた布の間から、異様に精巧で生気のない、まったく同じ表情をした二つの少年の顔が覗く。神父さまの眼に一瞬、戸惑いと疑念が浮かんだ。それで十分だった。
 胸の奥の「それ」が無限の力を貸してくれる。私には何をすべきか分かっていた。
 手に力を入れるだけで、それはあっけなく終わった。 
 ブレーカーの方に視線を向ければ、バチン、と音を立てて家の中が暗くなる。明かりはなく真っ暗だけど、私には家のすべてが見えている。足を踏み出さなくても、どこへでも移動できる。この家は、いまや私の手中にある。なぜなら私が、私だけが、この家の真実を知っているからだ。
 暗闇の中、私の手がずぶずぶと人の体に沈んでいく。粘土細工をこねるようにかき混ぜる。内臓が引き千切れる音がしようとも、断末魔の叫びが響こうとも、私の心はずっと静かなままだった。
6.    家(対面)
 家中の電気がすべて落ちても、月明かりが差し込むこの屋根裏だけはほんのりと明るい。差し向かいに立つ若い方の神父さまの顔は、けれど屋根の影になっていて私には見えない。
「戻ろう、エイミー。君は良くならないと。」
 良くなるってなんだろう?これ以上、いったい何が良くなるというのだろう?若い神父さまの言葉は弱くて偽りだらけで頼りない。誰かを救うにはまったく足りない。視線は揺らぎ、握った十字架は小刻みに震えている。それでも一歩こちらに近づいた神父さまの顔を月明かりが照らす。その眼の中には、見覚えのある翳りがある。見つけた。
「あなたはメレディスを救えなかった。違う?あの人はいま、私と同じところにいるんだよ。」
「やめてくれ。」
 神父さまの体がぶるぶると震えはじめる。やっぱりだ。これでいい。この人の言葉は、心はあまりに脆い。大きいのは図体だけ。掲げられた十字架も怖くはない。十字架を見た胸の奥の「それ」が騒ぎ出す。自分の体が勝手に動き、よじれ、眩暈がするなかで、神父さまの眼の奥すべてが恐怖に呑み込まれるのが見えた。これで終わりだ。
 手を伸ばすと、急にまばゆい光が目の前ではじけた。
 頭を強く打ったのだろうか、気が付いたら床に仰向けで横たわっていた。右手と左足がありえない方向にねじ曲がっている。傷はついていないのに、血が鼻と口からだらだらと流れ出す。あの神父さまは、入口の奥に積み重なったマネキンの向こうにいるのか、もう見えない。激痛の中をぼんやりと漂っていると、急にわかった。
『私はおかしい。』
 すべてから裏切られた気がした。すべてを失ったのだと知った。
 この家で、屋根裏の窓から見える月だけが好きだった。月はいま、目から流れる血で赤く染まっていた。
7.    病院
 ずっと頭がぼんやりとしている。麻酔、鎮痛剤、抑制剤、見舞いに来たクリニックのメンバーが差し入れる薬。あの日から、私の体はよくわからない薬漬けとなっている。時の流れももうよくわからない。混濁と覚醒を繰り返しながら、時折体の、心の激痛に叫ぶ。そしてほんの束の間、はっきりと物事がわかる時がある。
 親戚は一度だけ面会に来て、二度と姿を見せなかった。当たり前だけど見放されたのだろう。病院の先生たちも、重罪を犯し、よくなる見込みもなく、うわ言しか言えなくなった私を哀れな厄介者としか見ていなかった。頻繁に見舞いに来るクリニックのメンバーたち、彼らのことはもう信用できなかった。けれど、すべてから見放された私を気にかけているのは彼らだけだった。先生たちも、親切で情け深い友人たちとして、あの人たちを何の躊躇もなく病室に入れた。そして彼らはいつもなにかを唱え、大量の薬を渡して帰っていった。
 私の体はじょじょに腐っていくようだ。悪臭でも放つかのように。まともな人は誰も私に近づかない。私はまともじゃない。私はおかしい。ずっと。ずっと前から。そういえばあの人はどうなったろう?だれも救えないあの神父さまは。わからない。わからない?なぜあの人は助けられた?どうして私はこんなことになった?始まりはどこ?始まらない道はあった?私はとっくに終わってる。終わってるのに終わらない。私の終わりはどこにあるのだろう。
8. 儀式
 目覚めると、いつもは外から施錠されている病室の扉が開いていた。変な気がした。なんでもいいから、この場所から出たかった。ずっとまともに動かせなかった体はふらつき、足はおぼつかない。あせらずに歩く。一歩ずつ進んでいく。
 あの場所に戻らなければいけない。家に帰らなければいけない。あの場所だけが、私の終わりで、私の始まりだ。あの場所できっと、私に手を下してくれる人が待っている。手を差し出してくれる人はいなくても。
 わき目もふらず、まっすぐ歩いていく。と、急に手を引かれる。その手は赤く染まっていた。
 体が動かない。おぼえのある気怠さが体全体を覆っている。顔になにか被せられている。内側になにか塗られているのかドロドロして気持ち悪い。皮膚が溶けていくように熱い気もするけど、感覚がなくなってよくわからない。もう喋れない。もう動けない。私はどこまでも降りていく。ここが本当の終わりだろうか。ちがう。いやだ。ここじゃない。顔からなにか引き剥がされ、息をのむ音が聞こえる。赤い人影は見分けがつかない。ろうそくの灯のなか、まばゆく光るナイフが見える。目が痛くてほかに何も見えない。あの煌めきの先に私の終わりは、私の救いはあるのだろうか。
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あとがき
あるいは、失われた断片について。
エイミーに何回もMortisさせられ、この娘はなんでこんなに強いん?と思ったので書きました。書いてみて、これじゃ100回Mortisさせられても文句言えないなあと納得したので、満足です。
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つよつよ悪魔になったら楽しく悪魔ライフをエンジョイしていてほしい。
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manganjiiji · 2 months
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思いもよらぬ状況に今…ありますんで
というテロップのニュースを映したテレビの上に猫が乗っかっている(なにやら迫真の表情)画像がかわいかった。ツイート主は「遅刻しそうな時に上司に送るスタンプとして使ってください」と書いていたので、まあここに貼ってもいいだろう。これである。
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思いもよらぬ状況に今、あったら、たしかに遅刻するかもしれない。と思い、しぬほど笑った(死なない)。猫がいることで「ぜってー嘘だ」感が出るし、猫が言っているかのようなニュアンスも持たせられ、とにかく猫の表情がいい。
もし、新卒のあの期間、今くらい病状が安定しており、生まれた家との距離も取れており、とにかく今のような考えかたのできる人間だったら、今頃私はそれなりにちゃんとした大人になれていただろうなと思った。そして、今のような安定した状態で働けることは、なんていいことなのだろうと思う。自分が不安定な家の生まれでなかったら、もしくは、そういう家でも自分を見失わず精神疾患に陥ることがない因子をもつ人間だったら、という夢想に意味はないのだが、でも、もしそうだったら、新卒の時あんなに周りに迷惑をかけなかったし、もっと楽しくやれただろうし、良くしてくれた人達にたくさん恩返しすることが出来ただろうにと思う。それに岡山はとてもいい場所だった。岡山に馴染むことだってできたかもしれない。それができなかったのは、やはり、病気だったこと、家族との関係の整理に10年以上の歳月が必要だったこと、まだまだ子供時代をやり直す必要があったこと、東京が自分のやりたいことができる場所だったこと、様々な要因がある。岡山の会社を辞して東京の念願の書店に就職し、明らかなブラック企業だったが、とにかくみんなが売上に向けて団結していて、そういう熱血なところが自分に合っていた。ただ、その会社で初期の社会人教育を受けたため、私の仕事観、労働観は暫くのあいだ歪んだままだった。矯正できたのはここ数年のあいだで、32を超えてからやっと、「働きすぎる」をやめることができた。そこから、病状の快癒にも本気で取り組み始め、今やっと、穏やかな気持ちで仕事に向き合うことができている。人間、生き延びればなんとかなるんだなあと、思うことしきり。それだけ周囲の人間とぶつかり、迷惑をかけ、様々な問題を起こしてきたということなので、全然「申し訳ありませんでした」の気持ちが強いが、正直、私のような、家庭で教育を受けずに育った人間を育てるのもまた社会の役目であるから、(会社や友人が私に迷惑をかけられるのは)まあ仕方ないよなと思う。私は私で、社会としてそういう人を育てていくことをしていきたいと思う。そうやって恩を返すしか他にない。社会全体がこういう考えを持ってくれるといいなと思う。子供は家庭が育てるものというより、社会が育てるものという思想の方が私の肌には合う。
今後の進路に悩んでいる。というか、何をしたいという感情も最近なく、ただ生きていきたいかなあと思う。ただ生きていくためには今の収入では厳しいので、転職…だよなあ。という気持ちだが、いかんせん体力が追いつかない。体力をつけたいが、すぐに寝たきりになり、回復のタイミングが掴めない。じゃっかん病状が後退している気もしなくもないが、冬季で日照時間が減っている影響かもしれない。去年の今頃はもう少し体力があったのだが、生家で過ごすストレスにやられて限界を超えていた。それを思えば精神的にはかなりましだと思う。自炊ができなくなってかなり経つ。朝食がまず用意できないのでなにもかもがご破算、という感じで、きつい。もはや食事という行いをしていない。ただお菓子を食べ続けている。それでは力が出ないのは当然だと思うが、もうお菓子を食べることしかできないので、最悪な循環に陥っている。どこかのタイミングでまた自炊ができればいいのだが、体力がつくまでは無理かもしれない。それでもとりあえず仕事は休まず行っているのでいい。欲を言えば、仕事が週3だと少なすぎるので(=休日が多すぎて精神的にどんどん沈んでいってしまうので)、週4にしてほしいなと思う。店側の事情もあるのでなかなか言えることではないが、当初の週4という希望を上司が忘れることがない程度にはリマインドしていきたい。そのためにはまあ3ヶ月は休まず出勤する必要があるだろう。今月、休まず行ければ、シフトの相談をしてもいいのではないかと思う。
このツイートを今のタイミングでするのは良くないな、と思い、ツイートするのを我慢したことが、今日は良かったと思う。別に人を傷つけたいわけではないのだが、私の意見で傷つく人もいるだろうなあという想像力はあり、タイミングは選んだ方がいいと思った。凹んでいる人に追い討ちをかけるような真似は慎んだほうがいい。でも、まあ、そこまでいちいち「他人が傷つく可能性」を斟酌して振る舞い続けるのもどうなんだ、という思いはある。私の意見は変わらないのだし、傷つく人は結局いつであれ傷つくだろうし。ただ、タイミング的に個人攻撃と受け取られそうな危険は回避すべきだと思った。攻撃したいわけではない……しかし、やはり、「それはちがうだろう」と声をあげたい時は私にもある。そういうの(考え)は私は好まない、私は違うと思う、という思いは、まあ別にひけらかす必要はなく、自分が持っていればいい。ただ、目の前で、たとえば仲のいい友人が、その思想と真逆のことを言っていた時(行っていた時)、一体どうすればいいんだろうと思う。黙っていたらその思想に追随する人のように思われるかもしれないし、かと言ってその場で否定を唱えても、事件化してしまう可能性もある。静かに離れるのがいいのだろうか。そうやって自分と違う意見の人と離れていった結果、社会的に分断が生まれてはいないだろうか。私は、ある程度は、その友人と関係を続けたいならば、「私は違うと思う」を表明していったほうがいいと思っている。ただ、それを表明するタイミングと場所は…考えないと無為に人を傷つけてしまう、そのことはかなり難しい問題だなと思う。相手の立場や、自分との関係にもよるが。
2024.3.4
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sryem · 10 months
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2023年7月4日
・夏に咀嚼されている。
・20代のテーマを「やってみて、ダメだったら考える」にしている。それ通りに生きられている自信は全くなくて、むしろ意識しないとかなり保守的に暮らしてしまうのを自覚しているからこそのテーマでもある。自分のポストを読み返していたら大学院進学を諦める宣言をしたポストでも、最後に「ダメだったらまた考えます。」と書いていた。結構このテーマを気に入っている。でも「やらない後悔よりやる���悔」って言葉もあるけど、そっちはなんか苦手だ。衝動のように聞こえるからかもしれない。私のテーマも同様に響くだろうけど、個人的にはそういうつもりはなくて、”ダメだったら…”に過度に怯えないための呪文でしかない。自分で置いた仮定に悩まされ続けるのは疲れるからね。出口のない迷路を解こうとする必要はない。
・学生と社会人の間で、すごい勢いで大人にならされているのを感じる。来春から就職する予定の場所でアルバイトをし始めたからだと思う。今はお互いに様子見といった感じで、空いてる日に好きなだけ働かせてもらって、お昼ごはんをいただいて、帰るなり大学に向かうなりしている。気楽に働いているけど、正規就職できた場合に要求される能力は高く、それを見越して今から習得していかなければならない。どこにも教科書がないことを学ぶのは大変だ。でも今はそれも楽しめている。ブログタイトルでもある「死守せよ、だが軽やかに手放せ」という言葉がいつでも背もたれみたいに支えてくれている。死ぬ気でやるけど、本当にダメだったらまた考えます。
・「私はたまたま定型発達できただけ」という思想が(特に心理学をやり始めてから)強固にあって、約束の時間を守らなかったり全然連絡を返さなかったりする人にも「まあそういう人もいるよね」みたいな気持ちになってしまって心の底からブチギレることがない。聖人じゃないのでイラッとはするし、付き合いきれないなと思ったら離れるけど。でも非定型発達や精神的な疾患のせいでそうなってしまってるなら本人に落ち度はなくて、というか仮に定型発達でもそういう社会性が獲得できるかどうかは本人の努力の外にあるものだったりすると思ってて、いい理解者が現れたり環境が変わったりしてその辺が改善するといいねって願ってる。でも正直に言うと、自分が聖人になれないことにちょっと傷ついている。理解者でありたいし、許す人でありたかった。それは多分、理解されて許される人でありたいからでしかないけど。
・8月に初めて九州に行く用事ができたので、九州で働いている長男に連絡をとって会えるか聞いてみた。当該日は平日なんだけど「わかった、予定あけとくようにするわ!」と気持ちのいい返事が帰ってきた。長男は結構性格がアレで、実家に帰ってくると家の用事一切手伝わずにずっとパワポケやったりして母親と年甲斐もなく喧嘩するような人なんだけど、今の私の年齢の頃には休学して急にベトナムに語学留学に行っちゃったりして、とにかく行動力があって尊敬している。その後大学に籍を置きながら2年間中国で働いたり、ギャップイヤー中に寿司の専門学校行って急に寿司握れるようになってみたり、積極的に面白い人生をやっている。そもそも私が関西の大学に進学したのも、先に長男が関西の大学に進学していて一人で自由にやっていて楽しそうだったからという点が大きいし、数字にも強くて節税とか不動産投資とかが上手だし、尊敬してるし憧れてるんだと思う。でも家族に引かれるくらい服を捨てない男なので未だにベトナム留学中に買ったらしい毛玉だらけのださいトレーナーとか着てる。そういうバランスも結構好きだ。久しぶりに会えるのが楽しみ。
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kinemekoudon · 1 year
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【9話】 弁護士に言われたとおり取調べで黙秘してみたときのレポ・後編【大麻取り締まられレポ】
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朝8時になると、200冊ほどの書籍が並んでいるキャスター付きの本棚が運ばれてくる。この本は官本と呼ばれ、収容者が借りることのできる本なのだが、借りられる機会は1日1回、1人3冊までなので、慎重に選ぶ必要があるらしい。
留置官は先に隣のベトナム人を居室から出すと、ベトナム人は『世界の絶景』みたいなタイトルの大型本を1冊手に取り、居室の中へ戻っていく。
続いて僕の番になる。官本のラインナップは、東野圭吾や筒井康隆などの著名なエンタメ小説をメインに、歴史小説や純文学、学習まんがなども置いてあり、案外退屈しなさそうであった。
僕がどの本にしようか悩んでいると、留置官が「あ、5番はこのあとすぐ新件だから、借りてもすぐに回収することになるよ」と言うので、結局何も借りずに檻の中に戻ると、本当にその後すぐに点呼がかかった。ちなみに新件とは、最初の検事調べのことである。
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僕は初めての検事調べにまだ心の準備ができていなかったが、点呼からすぐに居室から出され、手錠と腰縄をかけられると、地下の駐車場に連れて行かれたのち、ワゴン車の後部座席の中央に、留置官2人に挟まれた状態で座らされる。ワゴン車は、運転席との間に金網のフェンスがあり、運転席と後部座席は完全に区切られていた。
僕はてっきり護送車で送致されると思っていたのだが、今回は近辺で検察に送致される被疑者が少なかったため、護送車を出すほどではないという判断になったそうだ。
ワゴン車が出発すると、僕は次第に不安になってきたので、隣の留置官に「大麻は持っていたんですけど、黙秘すれば不起訴いけるかなあと思ってるんですが、どう思います?」などと、留置官が捜査には関与しないのをいいことに、正直な悩みを打ち明けてみる。
左隣のニューヨーク嶋佐似の留置官は「持ってたなら正直に話すべきだろ。自分から正直に話したら心証がよくなって罪も軽くなるだろうし」などと想定通りのことを言うので、僕は「でも黙秘してたらそもそも無罪で済むかもしれないんですよ」と反論すると、嶋佐は「それで上手くいったとしても、一生、嘘をついたっていう罪の意識を抱えて生きていくことになるんだぞ」などと感情論で反論してくる。
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僕は「嘘はついてないですよ。何も喋っていませんから」と揚げ足をとると、嶋佐はムキになって「本当はやったのに何も言わないのは、嘘をついてるのと一緒だろう」などと言ってくるので、僕は「勝手に質問しといて、答えなかったら嘘つき呼ばわりされるのは意味が分からないです」などと屁理屈を言う。
僕は続けて「そもそも大麻を所持していたこと自体罪だと思ってないんですよ。むしろこうして拘束されていることに被害者意識を持ってるくらいなんで、黙秘をするっていうのは、大麻取締法違反で罰を与えてようとしてくる検察に対しての正当防衛だと思ってます」などともっともらしいことを言う。
嶋佐は平静を装っているが本心は苛立っている感じで「でも人を殺した人がそれと同じこと言ってたらおかしいだろ?」などと反論してくるが、僕は「殺人は被害者がいるんで、殺人だったら罪の意識を持つと思いますけど、大麻所持は被害者がいないんで罪の意識を持ちようがないです」と応える。
嶋佐は「いや…」ととりあえず口に出してから熟考して、「大麻は身体に悪影響だから犯罪になってるんだろ」と少し論点をずらして反論してくる。僕は嶋佐を言い負かすのがおもしろくなって「たとえ悪影響だとしても、自分の身体は自分のものですから、究極、自殺しようと自分の勝手だと思いますけど」などとわざと憎たらしく言ってみる。
すると嶋佐は「まあ5番が黙秘しても、これから証拠は出てくるだろうし、今のうちに自白しといた方が楽になると思うぞ」などと半ギレで議論を放棄してきたので、僕は「確実な証拠が出たら自白するか考えますけど、今は黙秘でいかせてもらいます」などと勝ち誇った感じで、留置官に言っても意味のない宣���をした。
留置官はこの議論に辟易とした様子で「まあ5番の人生だから5番の好きにしたら」と投げやりに言うので、僕は心中(その思想がまさに、自分の好きに大麻を吸わせてほしいという発想の根源なんだが)と思ったが、口に出すとさすがに空気が悪くなりそうだったので、口をつぐんでおいた。
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僕は留置官相手に自分を正当化し、言語化する中で、黙秘がいかに賢明な選択であるかという理論を確立できたので、断固たる気持ちで黙秘しようと踏ん切りがつき、不安がなくなっていた。
そうこうしている内に地方検察庁に着き、留置官に連行されながら、被疑者用の出入り口から入って、迷路のようなルートを進んでいくと、待合室がいくつもある広い空間に出る。
待合室と事務室の間の廊下には、都内のいろんな留置場から集結した被疑者たちが30人くらい並んでいて、僕もその列に並ばされ、何分か経つと、地検に勤務している警備役の警官が点呼をとり、各被疑者を各待合室に振り分けていく。
留置場も異様な光景であったが、地検の待合室のある空間は、より緊張感が張り詰めていて、警官の態度や点呼の仕方は軍人のように厳格で威圧感があり、集められた被疑者たちは、容貌からいかにも半グレな人や大人しそうなおじさんから外国人までが全員グレーの上下スウェットを身につけているので、危うさとカオス感がある。
待合室は、鉄格子と金網の扉が一面についた、5人掛けの硬い木のベンチが部屋の両サイドにある、奥には衝立があるだけで隠れることのできないトイレと洗面が付いているだけの殺風景極まりない部屋で、入室前に警官に「他の人と会話をするな」とか「足を組むな」など厳しく注意された後、僕はキツく両手錠をされたまま待合室に入れられる。
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待合室の定員は10名で、混んでいるときは満員になるそうだが、今回は運良く、詐欺で捕まってそうなチンピラ風の若者と、傷害で捕まってそうな腕を組んで足を広げて座る低身長ガチムチの若者2人のみだった。
10時頃から待機していて、おそらく1時間は経過したであろうが、時計がないので今何時かわからず、やることもなく、自由もなく、呼ばれる気配もないので、本当に時間が長く感じる。ガチムチの若者はイライラして貧乏ゆすりをし出し、僕はそれを見て苛立ちそうだったので、目を瞑って瞑想をする。
しかし、待合室のベンチは壁にぴったり取り付けられており、背もたれは90度に近く、硬く滑りやすい材質の木でできているので、浅く腰掛けて背もたれに寄りかかることができず、姿勢正しく座るのが最も疲れない造りになっていて、リラックスすることができないようになっているので、瞑想に集中するのも難しい。
待機から体感1時間半ほどが経過し、チンピラ風の若者が警官に呼ばれ、待合室を出て行ったが、それからは何も音沙汰がなく、ついに2時間が経過し、12時の昼食の時間になった。警官によって手錠を片側だけ外され、コッペパン2つと使い切りの個包装されたジャム2つにマーガリン1つ、棒状のチーズ1本、小さい紙パックのりんごジュースが支給される。
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質素な食事ではあるが、僕は待つことに体力と精神力を奪われて疲弊していたので、夢中になって食べてしまう。それに、なにかやることがあるというのが嬉しい。
食べ終わったゴミが回収されると、再び両腕にきつく手錠がかけられ、地獄の待機時間が始まる。ガチムチの若者は食後に小便をするのだが、見ようと思えば見えるし、放尿の音は聞きたくなくても聞こえてくる。それはそうとさすがに腰が痛いし、この仕打ちは人権侵害だと思う。
1時30分頃、ようやく警官に呼ばれ、待合室を後にする。待機時間は人生で最も時間が長く感じた。腰縄をつけられ、留置官に連れられてエレベーターに乗り、担当検事のいる執務室に入る。
執務室は待合室の4倍くらいはある広い部屋で、検事と検察補佐官がそれぞれ大きい机の前に座っていて、その前にパイプ椅子が置いてある。検事は50代後半くらいの男で、上等な眼鏡とスーツを着用し、姿勢がよく余裕のある雰囲気で、おもしろいくらいにエリート感が漂っており、先程まで見ていたワルたちとはちがう威圧感がある。
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僕は執務室に入り挨拶をし、指示されるがままにパイプ椅子に腰掛けると、留置官によって手錠をパイプ椅子に繋がれる。検事は柔和な表情で「取調べの内容は録音させていただきますが、よろしいですか?」と聞いてくるので、僕は「はい」と応える。検察補佐官はノートPCで会話の内容を記録している。
検事は続けて、僕の口から自分の名前や生年月日などを言うよう指示してくるので、僕がそれに応えると、「被疑者〇〇は、大麻成分を含有する植物片13.8gをみだりに所持した疑いで…」などと僕が犯した罪状を読み上げたのち、「あなたには黙秘権があり、言いたくないことは言わなくていい権利があります」と告知してくるので、僕は元気に「わかりました」と応える。
検事は柔和な表情のまま「こちらの罪状を犯したことについては間違いないですか?」などと質問してきたので、僕は一呼吸を置いて「黙秘します」と言う。すると、検事は急に真顔になり、「わかりました」とだけ応える。
検事は真顔のまま「現場ではあなたも乗車していた車の中で大麻成分を含有する植物片が見つかっていますが、これはあなたのものですか?」と質問してくるが、僕は変わらず「黙秘します」と応えると、検事は少し怒ったように目を開いて「わかりました」と言う。
検事は続けて「一緒に同乗していた人はあなたとどうゆう関係ですか?」と質問してくるが、僕は頑なに「黙秘します」と応える。すると検事は再び柔和な表情に戻り、「わかりました。それでは取調べは以上になります。こちらの調書に問題がなければ捺印をお願いします」などと言って、白紙同等の調書を差し出してくる。
僕は「捺印はできません」と応えると、検事は再び真顔になり「わかりました。それではこれで終わりとなります。お疲れ様でした」と言い、補佐官とともに立ち上がって頭を下げていた。
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つづく
この物語はフィクションです。また、あらゆる薬物犯罪の防止・軽減を目的としています( ΦωΦ )
#フィクション#エッセイ#大麻#大麻取り締まられレポ
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shredderwastesnow · 3 months
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長々と「ゴーストワールド」考
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私がテリー・ツワイゴフ監督の映画「ゴーストワールド」と出会ったのは、2000年代中盤のことだった。映画館ではなく、ツタヤでDVDを借りて実家のリビングで観た。コロナ禍によってビデオ・DVDレンタル屋としてのツタヤが街から消えた今になって振り返ると、あの日からずいぶん遠くに来てしまったことを実感する。
映画冒頭、アップテンポなジャズが流れ出し、こぶしの利いた男性シンガーの声が重なる。「シャンフェケシャンフゥ」--何語だか分からないが、気分を高揚させる陽気なグルーヴ。しかし、映像はアメリカ郊外の白いマンションで、音楽の古めかしさと不釣り合いな印象を与える。
カメラはマンションの外から窓の中を捉えつつ、右へと移動する。それぞれの窓の向こうにいる住人たちが部屋でくつろいだり食事をしたりといった光景がいくつか展開された後、濃いオレンジの壁紙の部屋が映し出される。部屋の中央で、黒縁眼鏡をかけたぽっちゃりめの女の子が、黒髪のボブを振り乱して踊っている。傍らには昔ながらのレコードプレーヤー。そこから大音量で流れる「シャンフェケシャンフウ」--アメリカにおけるサブカル眼鏡女子の強烈な自己主張は、無機質な郊外の光景へのレジスタンスのようだ。
細かい台詞やキャラクターは忘れてしまっても、このシーンだけは鮮烈に頭に残っている。この映画が何を描こうとしているのか、冒頭を観ただけで分かった。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさ。そんな存在を愛おしむ監督の眼差し。
2時間弱の物語の中では、高校を卒業したものの進路が決まらない主人公イーニドが迷走に迷走を重ねる。そして、彼女が何かを成し遂げるようなラストも用意されていない。
ありがちなティーンエイジャー文化に埋没する無個性なクラスメイトや郊外の退屈な人々を馬鹿にしている割に自分自身もぱっとしないイーニドの姿は痛々しいが、十代の自分にも確かにそんな一面があったことが思い出され、いたたまれない気持ちになる。それでも、映画を見終えた私の心には温かい余韻が残った。監督が最後までイーニドに寄り添い続けていることが伝わってきたから。
2023年下旬、何の気なしに見ていたX(旧twitter)で、ゴーストワールドのリバイバル上映を知った。絶対に行かなければと思った。あの名作と、映画館で出会い直したい。 上映が始まって約1ヶ月後の2024年1月、再開発によって円山町から宮下に移転したBunkamuraル・シネマの座席で、私はイーニドたちと再開することになった。
改めて観てみると、最初に観た時の感動が蘇ったシーンもあれば、初見では気付かなかった要素が見つかったシーンもあり、希有な鑑賞体験になった。 これ以降、個人的に気になった部分を列挙してみる。
自由という試練
物語の序盤で、主人公イーニドと幼馴染みのレベッカは、揃って高校を卒業する。式が終わると、イーニドとレベッカは会場から走り出て、卒業生が被る伝統の角帽を脱ぎ、校舎に中指を突き立てる。二人とも大学には進学せず就職もしないので、これからは受けたくない授業を受ける必要もなく、大人として自分の道を選ぶことができる。スクールカースト上のポジションに惑わされることもない。
しかし、コーヒーのチェーン店で働きながら親元を離れて暮らすためアパートを探し始めるレベッカとは対照的に、イーニドは将来のビジョンを持てないまま高校の補講に通い、髪を派手な色に染めてみたり、映画館のアルバイトを一日でクビになったりしている。ルームシェアをする約束を果たす気があるのかとレベッカに問い詰められれば「自立、自立って馬鹿みたい」と滅茶苦茶な言葉を返して怒らせ、家に帰ってからベッドで泣く。イーニドは自由を満喫するどころか、自由を持て余しているように見えた。
高校生の頃は、学校の教員たちが決めたルールに従い、与えられたタスクをクリアすることが求められていた。経済的に親に頼っている分、親や家族というしがらみもある。大人の介入を避けられない年代にいるうちは、人生の問題を大人のせいにすることもそれなりに妥当だ。
しかし、高校を卒業してしまえば、もう人生の諸問題を安易に大人のせいにできない。複雑な家庭の事情に悩まされていても、「もう働ける年齢なんだから、お金を貯めて家を出ればいいんじゃない?」と言われてしまう。
自分の進路を選び、やるべきことを見極めて着実に実行することは、何をすべきなのか指示してくる人間に「やりたくない!」と反抗することよりもはるかに難しい。与えられた自由を乗りこなすだけの自分を確立できていないイーニドの戸惑いと迷走は、滑稽でありながらも、既視感があってひりひりする。
シスターフッドの曲がり角
この映画には、イーニドとレベッカのシスターフッド物語という側面もある。十代を同じ街で過ごし、お互いの恋愛事情も知り尽くしている二人が、高校卒業という節目を境に少しずつ噛み合わなくなってゆく過程が切ない。二人とも、相手を大切に思う気持ちを失ったわけでは決してない。それでも、環境の変化が二人の違いを鮮明にし、今まで通りではいられなくなる。
イーニドもレベッカも、世界をシニカルに見ている点は共通している。派手に遊んでいたクラスメイトが交通事故で身体障害を負ってから改心し、卒業式のスピーチで命の尊さを語っていたことに対して「人間そんなに簡単に変われるわけない」と陰で批判したり、卒業パーティーでも弾けたりせずぼそぼそ喋っていたりと、どこかひねくれた態度で生きている。世の中が用意する感情のフォーマットに素直に乗っからない低温な二人の間には、確かな仲間意識が見て取れた。
しかし卒業を契機に、二人の関係はぎくしゃくし始める。 イーニドは仮に卒業できたものの、落第した美術の単位を取得するため補講に出なければならない。スムーズに卒業したレベッカはカフェのチェーン店で働き始め、アルバイトではあるが社会に居場所を得る。卒業したばかりの頃はイーニドと一緒にダイナーに行き、新聞の尋ね人欄に出ていた連絡先にいたずら電話をするといった行動にも付き合っていたレベッカだったが、アルバイトも続かずルームシェアの部屋探しにも消極的なイーニドに徐々に愛想を尽かす。イーニドが中年男性シーモアとの関係を隠していたことが、さらに二人の距離を広げてしまう。
イーニドは古いレコードを集めるのが好きで、一癖あるファッションを身に纏い、多少野暮ったい部分はあるにしても自分の世界を持っている。バイト先でも、上司の指示に違和感を覚えれば分かりやすく態度で示す。表面的にはリベラルな国を装いつつ水面下では依然として差別が行われているアメリカ社会に対しても、批判的な眼差しを向けている。
しかし、それを表現した自分のアート作品が炎上した際、イーニドは作品を批判する人々に対して展示の意義を説明せず、展覧会の会場に姿を見せることすらしなかった。どんなに鋭い感性があっても、表現する者としての責任を全うする姿勢のないイーニドは、アーティストにはなれないだろう。黒縁眼鏡の媚びない「おもしれー女」ではあってもカリスマになる素質はなく、かといってマジョリティ的な価値観への転向もできないイーニドの中途半端さは、何とも残念である。
一方レベッカは、シニカルな部分もありつつ、現実と折り合いを付けて生きてゆけるキャラクターだ。店に来たイーニドに客への不満を漏らしながらも、上司に嫌味を言ってクビになったりすることはない。経済的に自立して実家を出るという目標に向かって、地に足の着いた努力ができる。
そして、レベッカは白人で、イーニドより顔が整っている。二人がパーティーに行くと、男性たちはユダヤ系のイーニドに興味を示さず、レベッカにばかり声を掛ける。 どう考えても、社会で上手くやってゆけるのはレベッカの方なのだ。
卒業を契機に、高校という環境の中ではそれほど目立たなかった二人の差が浮き彫りになる。置いて行かれた気持ちになるイーニドと、現実に向き合う意欲が感じられないイーニドに苛立つレベッカ。どちらが悪いわけでもないのに、高校の時と同じ関係ではいられない。絶交するわけではないけれど、何となく離れてゆく。
人生のフェーズに応じて深く関わる人が変わってゆくのはよくあることだし、どうにもならない。それでも、楽しかった長電話が気まずい時間に変わったり、昔だったら隠さなかったことを隠すようになる二人を見ていると、人生のほろ苦い部分を突きつけられるようで、胸が締めつけられる。
シーモア:大人になりきらないという選択肢
冴えない中年男性シーモアは、この映画におけるヒーローでありアンチヒーローだ。平日は会社員だが、休日は音楽・レコード・アンティークオタクとして自分の世界に耽溺し、友達も似たような同性のオタクばかり。せっかくライブハウスで女性が隣に座っても、音楽の蘊蓄を語って引かれる。そのくせ「運命の出会い」への憧れをこじらせている。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさを、これでもかと体現しているキャラクターだ。
イーニドとシーモアの出会いは、イーニドのいたずら電話がきっかけだった。新聞の尋ね人欄を読んでいたイーニドは、バスで少し会話をした緑のワンピースの女性にまた会いたいと呼びかける男性の投書を発見し、この気持ち悪いメッセージの発信者を見てやろうと、緑のワンピースの女性を装って電話をかける。会う約束を取り付け、待ち合わせの場所に友達と共に向かうと、呼び出されたシーモアがやって来る。
待ちぼうけを食らうシーモアを陰で笑いものにするイーニドだったが、別の日に街で偶然見かけたシーモアを尾行して、彼がレコードオタクであることを知り興味を持つようになる。シーモアのマンションで開かれたガレージセールで、イーニドはシーモアが売りに出した中古のレコードを買い、会話を交わし、徐々に距離を縮めてゆく。
シーモアが自宅でレコードオタクの集まりを開いた日、イーニドはシーモアの部屋に入る機会を得、彼のコレクションと生き様に驚嘆する。
恐らくイーニドは、シーモアという存在から、アーティストやクリエーターにはなれなくても自分らしさを手放さずに生きられると学んだ。たとえ恋愛のときめきが去ったとしても、シーモアの残像はイーニドの中に残り、社会と折り合いを付けられない彼女の行く先をささやかに照らすのではないだろうか。
(そして、シーモアの姿が、一応仕事や勉学などで社会と折り合いを付けながらも、家庭を持たず読書や映画鑑賞や執筆に明け暮れる独身中年の自分と重なる。その生き様が誰かの未来を照らしたりすることはあるのだろうか。もちろん作家として誰かの人生に言葉で貢献するのが一番の目標ではあるものの、映画を観た後、最低限シーモアになれたらいいなという気持ちになった。初見の時と感情移入するキャラクターが変わるというのは、なかなか新鮮な体験。)
矛盾を抱えたアメリカ社会への言及
最初に観た時はイーニドや一癖あるキャラクターたちが織り成す人間模様にしか目が行かなかったが、二度目の鑑賞では、画面の端々に映り込むアメリカ社会への皮肉もいくつか拾うことができた。
ライブハウスのシーンに、ブルースに影響を受けたと思われる白人のボーイズバンドが登場する。ヴォーカルは「朝から晩までcotton(綿花)を摘む毎日さ」みたいな歌を熱唱する。確かにブルースにありがちな歌詞だ。しかし、綿花を摘む労働をさせられていたのは主に黒人であり、白人は黒人をこき使う側だったはず。労働者の心の拠り所として作られたブルースという文化を、ブルジョワである白人が無神経に簒奪しているという皮肉な現実が、この短い場面にそっと描かれている。
また、イーニドとレベッカが一緒にパーティーに行くとレベッカばかりが男性に声を掛けられる件には既に触れたが、声を掛けてくる男性はほぼ白人だ。アジア系の男性や黒人男性などがレベッカをナンパすることはない。たまたま二人の住む街が白人の多い地域という設定なのかもしれないが、このようなキャスティングが決まった背景には、制度上の人種差別がなくなっても人種によるヒエラルキーが社会に残っているという監督の認識があるのではないかと感じた。
そして、個人���店がチェーン店に取って代わられ、住宅地が画一的なマンションで占められ、街が少しずつ個性を失ってゆく描写もある。レベッカが働くカフェ(ロゴがスターバックス風)やイーニドがバイトをクビになるシネコン内の飲食店は、無個性なチェーン店そのものだ。モノやサービスが画一的になり、雇用や労働のスタイルも画一的になり、マニュアル通りに動けない人間が排除される世界へのささやかな批判が、様々なシーンの片隅にそっと隠されている。
この映画は、十代の葛藤を単なる自意識の問題として片付けず、矛盾だらけで個性を受け入れない社会にも責任があると言ってくれていた。改めて、監督や制作者たちのティーンエイジャーに対する温かい眼差しを感じた。
ラストシーンをどう解釈するのか
ネタバレになるので詳細は伏せるが、この映画のラストシーンは比喩的で、どう受け止めるのが正解なのか分からない。イーニドの人生に希望の光が差すことはなく、かといって大きな絶望が訪れることもなく、自分を命がけで守ってくれた人の思い出を胸に強く生きることを誓うみたいな展開にもならない。とにかく、分かりやすいメッセージのある終わり方ではないのだ。
(映画館を出た後にエレベーターで乗り合わせた若いカップルも、やはりラストの解釈が難しいという会話をしていた。)
私自身は、このラストを、イーニドが他力本願な自分から卒業することをようやく決意したという意味に捉えている。
これまでのイーニドは、心細くなれば友人のレベッカやジョシュを呼び出し、映画の中盤以降ではシーモアにも絡んでいた。人生に行き詰まれば、誰かを頼って気を紛らわす。偶発的に何かが起こって道が開けないかな、みたいな感覚で生きているような印象だった。 しかし、物語の終盤で、一時はイーニドにとってヒーローだったシーモアが、突然遠のく。レベッカとも既に疎遠になっているイーニド。そして、不思議なラストシーン。イーニドは、私たちに背中を向けている。
イーニドは、自分を導いてくれるヒーローも、どう生きるべきか教えてくれる天使も、どこにもいないということに気付いたのではないだろうか。 人間は最終的には孤独で、自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかない。ラストシーンのイーニドからは、彼女が紆余曲折の果てに辿り着いた人生の真理が滲んでいるように思える。
そして、イーニドの後ろ姿は、スクリーンのこちら側にいる私たちに対しても「自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかないよ」と語りかけている気がする。どう生きるべきか、映画に教えて貰おうなんて思うなよ。自分で行動して、傷ついたり恥をかいたりしながら、自力で見つけるんだ。
以上が私なりの解釈だが、違う見方もあるのかもしれない。他の人の批評も検索してみたい。
おわりに
Bunkamuraル・シネマでの「ゴーストワールド」上映は明日で終わる。しかし、各地の名画座での上映はまだ続くようだ。これからも沢山の人がイーニドたちに出会うことを想像すると、自然と笑いがこみ上げる。
イーニドの冴えない青春は、観た人の心に何をもたらすのか。
これを読んで少しでも気になった方は、是非スクリーンで、ラストシーンまで見届けてください。
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yoga-onion · 2 years
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The Quest for Buddhism (64)
The Dhammapada – Word of Truth - Part 5 [So far]
Way to the end of suffering
When one have made the effort to experience the truth and have cut off worldly desires (kleshas), then one will be free from all bondage and reach a state of peace and tranquillity (Nirvana).
If one does good, renounces vice and experiences right knowledge, one is no longer afflicted by suffering. In order to realise that state of tranquillity, one must first and foremost start by seeing things in the right way:
“He who knows what is true to be true, and regards what is not true to be not true, will, according to right thought, at last attain to the truth."- Buddha (Dhammapada 90)
Once one has correctly assessed things, the next step is to take the right action, and human activities can be summed up in the workings of the body, speech and mind. The purification of these three activities is the way to the end of suffering:
"He who does not do evil in body, speech and mind, but is pious in all three - I call him a 'Brahmin'."- Buddha (Dhammapada 391)
The term 'Brahmin' refers to the priestly class of the ancient Indian Vedic religion at the top of the caste system, but this is not what is meant by 'Brahmin' in the Dhammapada. Here, the term 'Brahmin' refers to a person who is the embodiment of virtue and an ideal person.
As well as purifying physical actions, the activities of speech must also be purified and correct. Words are rather problematic because they do not appear as a form, like physical actions. Words uttered carelessly could easily hurt another person far more deeply than physical injuries.
In order for the physical functions and language to be correct, the functions of one's own mind, which underlie both, are complex and subtle and, in practice, difficult to control:
"The mind is agitated, turmoil, hard to protect, hard to control. Those who are wise will straighten it out - just as a bowman straightens the shaft of his arrow." - Buddha (Dhammapada 33)
The way of the Buddha is perfected through the threefold workings of the body, language and mind:
"Refrain from speech, refrain from calmness of mind, and do not do vice in your body. If you keep these three paths of conduct pure, you will conquer the Way that the hermit (Buddha) has preached." - Buddha (Dhammapada 381)
The only way to perfect the Buddhist Way is through dedicated effort and devotion:
"It is better to live one day with firm devotion and diligence than to live a hundred years without energy and laziness."- Buddha (Dhammapada 112)
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仏教の探求 (64)
ダンマパダ〜真理のことば・その5(これまで)
苦の終滅への道
“すでに人生の旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆる事柄にくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。”ーブッダ(ダンマパダ 90)
努力して真理を体験し、煩悩を滅したならば、すべての束縛から脱して、安らぎの境地に到達する(涅槃寂静)。
善を行い、悪を捨て、正しい知を体験すれば、人は、もはや苦しみに悩まされることはない。その安らぎの境地を実現するためには、まず第一に、ものごとを正しく見ることから始めなくてはならない:
"まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないとみなす人は、正しき思いにしたがって、ついにまことに達する” ーブッダ(ダンマパダ 12)
ものごとを正しく見きわめたならば、次には正しい行動を起こすこととなるが、およそ人間の活動というものは、身体のはたらき、言葉のはたらき、心のはたらきに集約される。この三つのはたらきを清らかにすることが、苦の終滅の道である:
"身にも、言葉にも、心にも、悪いことを為さず、三つのところについてつつしんでいる人ー彼をわれは<バラモン>と呼ぶ。” ーブッダ(ダンマパダ 391)
<バラモン>とは、カースト制度の頂点に位置する古代インドヴェーダ宗教の司祭者階級のことであるが、この『ダンマパダ』のいう<バラモン>はその意味ではない。ここでは、徳を具現化する者、理想の人物をさして<バラモン>という。
身体的な行動を清らかなものとすると同時に、言葉の活動もまた、清らかに正しいものとしなければならない。言葉は、身体的な行動のように、形として現れないだけに、むしろ問題が多い。うかつに発した言葉が、他の人の身体を傷つけるより、はるかに深く傷つけているということは、起こりがちなことである。
身体のはたらき、言語のはたらきを正しくするには、その両者の根底にある自らの心のはたらきは、複雑微妙であって、実際には、なかなか制御しがたい:
"心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くするー弓矢職人が矢柄を直くするように。” ーブッダ(ダンマパダ 33)
身体、言語、心の三つのはたらきをつつしむことによって、仏の道は完成される:
"ことばを慎み、心を落ち着けて慎み、身に悪を為してはならない。これら三つの行いの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。” ーブッダ(ダンマパダ 381)
仏道を完成するには、ひたむきな努力、精進あるのみである:
“怠りなまけて、���力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きる方がすぐれている。”ーブッダ(ダンマパダ 112)
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ari0921 · 3 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)2月4日(日曜日)
    通巻第8116号
 脳にチップを埋め込み、神経疾患や脊髄損傷患者を活性化
   医学界には『猿の惑星』議論はなく、患者等は「光明が射した」
*************************
 キリスト教世界らマスクへの批判は現時点では見あたらない。
 医学界からは前向きの反応が目立つ。また患者らは反対を論じる前に、手術の成功は朗報だとしている。
医学界では以前から唱えられてきた。脳にチップを埋め込むことで、障害が緩和されるとする学説は古くから説かれた。このような考え方は障害に悩む患者らに希望をもたらすものだった。インプラントは脳損傷に対する初の効果的な治療法になる可能性があると研究者らは述べ、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のキャサリン・スキャンゴス医学博士が「脳内の腹側線条体(ふくそくせんじょうたい)部位に刺激を与えることで、うつ状態を改善することができた」としてきた。
米国だけでも、脳損傷により、500万人強が後遺症を抱えている。単純作業にも集中できず、仕事を辞めたり、学校を中退したりするケーが目立つ。
2024年1月28日、イーロン・マスクの「ニューラリンク」が、人間の脳にチップを埋め込む手術を行ない、結果は良好だと発表した。
ニューラリンクは、脳に埋め込むチップや手術器具の安全性と機能性についての研究を承認されていた。「有望な神経スパイク検出」がみられた。この製品は「テレパシー」と呼ばれ、四肢が使えなくなった患者を対象にする。
「例えばスティーブン・ホーキング博士が、高速タイピストや競売人より速くコミュニケーションできることを想像してほしい。それが目標だ」とマスクは会見で述べた。
 ニューラリンクはチップを埋め込んで人の脳とコンピューターを接続する技術の開発を5年がかりで進めてきた。会社は2016年に設立され、初期にはサンフランシスコでオープンAI社と同居していた。2020年には豚で実験した。
 この手術で改善されるとされる疾患は神経疾患(パーキンソン病、てんかん)が脳とコンピューターの直接的な接続によって神経信号の制御や調整が可能になり、症状の改善や管理が期待されるという。
また背髄損では、脳からの信号を電子インタフェースを介して損傷した脊髄に送ることで、運動や感覚の回復が期待され、神経精神疾患(抑うつ症、統合失調症などの神経精神疾患)も脳内の神経回路の活動を制御することによって、症状の緩和や神経の正常化が期待されるとしている。
 2022年二月に、実験したサルが死んだため動物虐待の疑いがでた。
カリフォルニア大学デービス校霊長類センターは実験動物の使用に疑問を呈した。新しい医療機器や治療法はすべて、人間での倫理的な試験が可能になる前に動物実験を行う必要があるが、手術後の実験猿はニコンピューターゲームを楽しみ、実際に公開された動画にはカーソルを動かす様子が映った。
ニューラルリンクの発表に先立ち、米非営利団体「責任ある医療のための医師の会」は米農務省に違反を指摘する書簡を送り、「侵襲的な脳実験で使われたサルの扱いに関連して動物福祉法の重大な違反があったとみられる」として調査を求めていた。
2022年5月、米食品医薬品局(FDA)はニューラリンクによる人の臨床試験を承認し、同社は脊髄(せきずい)損傷や筋萎縮性側索硬化症(ALS)による四肢まひの患者を募り始めた。
 臨床試験はニューラリンクが実施する「PRIME研究」の一環で、チップ埋め込みや手術ロボットの安全性を検証し、装置の機能性をテストする目的で行う。患者は脳の動く意思をつかさどる部分にチップを埋め込む手術を受ける。チップはロボットによってインストールされ、脳の信号を記録してアプリに送信する。最初の目標は、「コンピューターのカーソルやキーボードを思考だけで操作できるようにすること」と同社は説明した。
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kennak · 3 days
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4月1日から社会的な所属が失われる 新年度を迎え、学校での学年があがる、新しい教育課程に進学する、また、担当部署の異動や、新しい職場で働き始める方々がたくさんいます。 その一方、卒業や中退、退職などを決断しながらも、進学先や就職先が決まっていない方にとっては、4月1日以降についてどうしていくか悩んでいる方もいると思います。同様に、4月1日から現状を変えようと心に決めながらも、新たな環境に一歩踏み出すのが不安という方もいるでしょう。 過去、育て上げネットで支援した、就職先が決まらないまま4月1日を迎えることになった若者がこんなことを話していました。 これまでは「〇〇高校〇年の工藤です」や「〇〇株式会社の工藤です」というように、自分が所属していたコミュニティとともに自己紹介して、自分の存在を伝えてきました。その世界が突如なくなってしまったことが、とても不安で恐ろしいです。 日常生活において、物価高騰やエネルギー価格など、必要な費用は高いままで推移しています。社会環境が不安定になり、日常の安全が脅かされやすいなか、少なくない方が上述の若者のように、居場所(社会的所属)を失った状態で4月1日を迎えます。 社会的所属、安心できる居場所が家庭にも地域にもない若者や子どもたちとかかわるなかで垣間見るのは、一時間後、明日、来月の予定がまったくなく、友人や知人と会う約束もない。収入や貯金もない状況において、本人が意図しない形で、本人が望まない形で、孤立・孤独に陥ってしまうことです。 4月1日以降に居場所がなくなり、いまからどうしたらいいのか不安がある場合、これだけはしておいてほしいというものを、支援現場の視点で書きたいと思います。 少しでもいいので収入を確保する 仕事を得るために就職活動を継続される方は、できるだけ早く就職するための活動時間を確保したい気持ちになるかもしれません。しかし、毎月の収入が途切れてしまうことは、日々の生活が支出だけとなり、とても不安になるものです。 就職活動には交通費などがかかり、一回一回は少額であっても、積み重なれば大きな費用となります。目減りする預貯金を前に、就職活動の範囲を制限せざるを得なくなるかもしれません。オンラインでの面接なども増えていますが、スマートフォンやパソコン、ネット回線の費用などもかかってきます。 就職活動に集中したい気持ちは理解できますが、アルバイトにせよ、短期単発の仕事でも、不要なものをフリマアプリなどで販売するにせよ、少しでも収入があると、生活面でも、メンタル面でも不安を少なくすることができます。 自分が納得のいく仕事と出会うための余裕を持つためにも、収入の確保は大切です。 自分の状況を周囲に伝える 社会的な場所が限定されると、自然に他者と出会う機会が少なくなります。特に学校や職場がなくなると、友人や知人、同級生や職場の同僚とのコミュニケーション、部活や企業活動を通じて生まれる関係性もなくなります。 仕事をしながら、誰かと起業や転職についての話はしやすいですが、無業(無職)状態から働く先を探しているという話は、近しい存在に対してこそ言いづらい、恥ずかしいという若者もいます。 育て上げネットが無業の若者に対して行った調査では、無業になると2人に1人が「人が怖い」と回答、無業期間が長くなると、対人不安が高まっていくことがわかりました。 参考: 人が怖くなる前に(工藤啓) - Y!ニュース 新年度になってもまだ就職活動を続けている自分について、周囲に話すことは気が引けるかもしれません。しかし、労働供給制約社会と言われる、人手不足で働き手が足りてないという企業の声があふれています。若者への就労支援をする私たちのもとにも、たくさんの企業から働き手を求める話が来ています。 これまでお世話になった先生や取引先の方に、新年度の挨拶とともに現状を伝えてみる。しばらく会って話をしていなかった友人や知人に声をかけてお茶に誘ってみるなどはいかがでしょうか。 言いづらいことは承知していますが、いまの自分の状況や、何を求めているのか、どんな機会を探しているのかを伝えることで、有意義な助言や情報をいただけるかもしれません。 なかなか連絡することに踏み出せない方は、相手の誕生日や(少し先ですが)暑中お見舞いなど、自然に一報できる機会を活用することもできます。 気分転換になるものを見つける YouTubeで動画を公開しているある男性は、「好きな情報を動画にして公開しています。いつの間にか少しだけお金が入るようになりましたが、それがあってもなくても、動画編集に集中しているときは楽しい」と言っていました。 社会的所属がなくなると、ひとりの時間が増えやすくなります。不安や焦燥感が募りやすい状況で、次の進路を決めることに向き合い続けると苦しくなることがあります。 そのため気分転換になるものを見つけることで、少しでも不安が和らいだり、何かの達成感を味わえたりすることも重要です。 動画編集のように、外に出したい情報があったり、スキルが必要なものばかりではなく、ジョギングでも、ゲームでもよいと思います。これまで読もうと思って読んでいなかった書籍や、気になっていたアプリを触ってみるなど、自分のためだけにうまく時間が使えるものを見つけてください。 支援機関を探してアクセスしてみる ハローワークや公的な支援窓口では、相談のプロフェッショナルが応対してくれます。個別相談であれば限られた時間かもしれませんが、講座やワークショップなどもありますし、オンラインを使って話ができるものも増えています。 参考 ・ 地域若者サポートステーション(厚生労働省) ・ 生活困窮者自立支援制度(厚生労働省) 具体的にどのような支援制度やメニューがあるのかを知るだけでもよいと思いますが、相談予約などをすることで、スケジュール帳に予定が入ることや、いまの不安を吐露できる機会を作っておくことで、先々の不安軽減にもつながり得ます。 すぐに役に立つものがあるかどうかはそれぞれの状況や悩み事次第ですが、「誰かに話をする」ということは、一時的にせよ安心感につながったり、不安を低減できたりする可能性があります。 育て上げネットでは、ご家族のための相談支援や、若者のための就労支援、夜の居場所「夜のユースセンター」などの運営を行っていますが、地元では相談しづらいという若者の声もあります。対面、オンラインは公共のみならず、民間団体でも相談窓口を持っています。 参考 ・ステップキャンプ(認定NPO法人育て上げネット) ・ユキサキチャット(認定NPO法人D×P) ・あなたのいばしょ(NPO法人あなたのいばしょ) ・アトオシ・オンライン(認定NPO法人育て上げネット) ・かくれが(NPO法人自殺対策支援センターライフリンク) 私は民間NPOの立場ではありますが、身の上話を他者にする際には不安がつきまといます。民間企業・団体はそれぞれの考え方をもとに独自の取り組みをしていますので、必ずしも自分にフィットするかどうかはわかりません。 まずは公的・公的民営機関の利用から始めることをお勧めします。 居場所を失ったとき、不安や悩みを打ち明けることへの抵抗感は誰にでもあるものです。つらい経験を誰かに伝えることも簡単ではありません。そのため、孤立しないよう、誰でも構わないのでつながりを作りましょうとは言えません。 それでも、安全性が担保されていると思えるところからつながりを作っておくことは、意図せぬ孤立環境を軽減し得るだけではなく、自分ひとりでは把握しきれない情報の獲得や、それらを適切に整理して次にどうするか決めていくサポートになることがあります。
4月1日から居場所を失ってしまう方へ(工藤啓) - エキスパート - Yahoo!ニュース
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motto-refresh · 5 months
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『麒麟山温泉』
阿賀野川を臨む露天風呂、また食べたくなるお料理に満足。家族団らんの宿
どうもmottoです。
今回は冒頭にあるように温泉の話です。
30歳を過ぎて今まで感じなかった肌トラブルや体調の変化、腰痛、肩こりに悩む今日この頃です。変化を受け入れて自分と付き合っていこうと思います。
さて今回ご紹介するのは新潟県阿賀町にあります『麒麟山温泉 雪つばきの宿古澤屋』さんです。
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子供が小さいこともありなかなか宿泊の予定を立てられない中、ご縁で某宿泊予約サイトより前日に予約を取る事ができました。
一泊朝食つきのプランで予約出来ました。
11月の初旬でしたので紅葉🍁も始まりとても素敵な外観、期待感が弾みます。落ち着いた純和風の造りで館内は木造2階建て、昭和10年以来、創業当時の佇まいだそうで、館内も味のある雰囲気。お庭、玄関とお手入れされている感じが好印象でした。フロントを過ぎ長い通路を2、3曲がりながら進みます。黒い玉砂利の洗い出し仕上げに欅の根木が島のように配置された通路を通ります。職人さんは難儀されたんだろうなぁと考えている合間にお部屋に到着。
部屋に入るとお茶の香り。居心地がいいです。
「ほっ」と一息つきながら窓の外を見ると目の前に阿賀野川の絶景。流れの強弱に目をひかれながら野鳥を観察ができます。タイミングが良いと阿賀野川対岸にSLが通るようです。観てみたかった😢 川岸から少し離れてポツンと島が、印象的です。 個人的には中が岩なのか土なのか気になりました。 夜にはライトアップもされるようでした。綺麗です。
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高低差がある立地故なのか階段が少し多めです。年配の方や車椅子、松葉杖の方は事前に連絡するなどの注意が必要かもしれません。 しかし客室が12部屋ほどのようでしたので館内はゆったりとした時間の流れです。 私も小さな子連れでしたが周りの目を気にする事なく過ごせました。 また、露天風呂つきのお部屋もあるようですし、プランによれば夕食・朝食がお部屋で頂けそうです。 移動量減らし気兼ねなくすごせそうです。重ねて事前連絡による確認が必要そうです。
それではいよいよ温泉へ!
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先ずは大浴場、入って直ぐに気づきました。「匂いがしない。」 あれ?! 100%天然温泉のはず♨️ 半信半疑で温泉に浸かってみると「ピリッ」とした感じで温泉だと分かります。そして若干の塩味がありました。(⚠️飲泉はできません。) 温度はややぬるめですが効能を堪能するにはもってこいな感じ!
そして透明で綺麗な温泉がなんだか嬉しい。お湯の汚れが少ないようで20部屋以下の宿泊施設の最大のメリットと再確認しました。
さぁ露天風呂へ!
露天風呂も温泉が澄んでいて綺麗! そして、阿賀野川の眺望を堪能できます。 こちらの露天風呂は珍しく、下から温泉が湧き出てくる仕様です。 川の音、風や虫の鳴き声、野鳥のさえずりを景色の一端として楽しむという、古澤屋さんの想いあるコンセプト。心身共に癒されリフレッシュできますね。私は宿泊中に5回も入浴しました!  阿賀野川を目の前に四季折々の風情を楽しめる数少ないお宿です。何度でも来たい!その様に思いました。
【泉質等のご紹介】
ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉(中性低張性低温泉)
浴用の適応症
★一般的適応症
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔病、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進
★泉質別適応症
きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病、動脈硬化症
私個人としては、坐骨神経痛気味なので腰痛、ふくらはぎ、脛などの箇所で痛みや凝りが和らいだのを実感しました。
はぁ〜〜いい湯でした♨️
皆さんもぜひご参考にしてみて下さい。
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それではまた!
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tutai-k · 1 year
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ただそこを歩いていたいだけ、ただそこに立ち止まっていたいだけ
新しい仕事が始まって、二度目の週末が来た。日・月が休み。土曜日に出勤するというのが、じつは結構久しぶりの(十年ぶりくらい?)ことで、少し新鮮。一緒に出かけたい友人も数える程度しかいないので、休みがあわなくて……という悩みはそんなに頻繁に起こらないだろう。 いまのところ、驚いているのは、あんなに起きられなかった朝がスムーズに起きられて、支度を調えてもまだぼんやりする時間があると言うことだった。前の労働、前の前の労働ではそんなことがまったくできなかったので、一ヶ月間、療養したことは意味があったんだなと思った。 通勤は電車になった。ラッシュを過ぎた時間に乗るので、座席を確保できるから本が読める。 今週は『夜明けまえ、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語』(シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著 多賀谷正子訳 双葉社)を読んだ。 サバイバーの女性たちとともにエベレストの麓へ向かうこと、父の暴力・家事を手伝いに来ていた男性からの性暴力、そこから逃げ出してアメリカへゆきレズビアンとしての自分を母に受け入れられずに苦しんだ遍歴……。 女性たちとのシスターフッドを構築するトレッキングから、エベレストのサミット・プッシュへ向かうチームに切り替わると、そこはもう男性しかいない世界になる。 男性のために規格された登山用品をなんとか使い、男性のために整備された登山道をゆく……頂上付近では、人体は心肺機能を維持するために身体のほとんどの機能を停止させるのに、それでも子宮だけは動きつづけるままならなさに歯がみする。 男たちが「征服」を試みる路を、筆者は傷つけられた尊厳を修復する路として歩んでいく。傷つき、苦悩した日々と、刻々と高度を上げて行く登山記録が交互に収録された構成は、人間は「前に進み続けるだけ」「乗り越えつづけるだけ」という行いはできず、つねに現在と過去を行きつ戻りつし、大きな傷の寛解を探る、「立ち戻る」作業が必要だというメッセージのように読めた。
電車内での読書は、とても順調にはかどっている。気づいたら降りる���を乗り過ごしそうになってしまったり。次は「女の子と公的機関」「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を取り寄せているので、これを読もうかな、と思っている。読みかけのカズオ・イシグロにも手を伸ばさなければ……。
今日は友人が遠方から来てくれた。地元の浜を歩いてみたい、というリクエストだったので、十代の頃、友人たちとなにかにつけて歩き回ったプライベートビーチや、灯台の麓の���辺、わたしがいつも鳥を撮りにいく砂浜を案内した。 貝や鳥を見つけたり、おしゃべりをずっとしていた。欧州ではひとびとは「ビーチをただ波打ち際と平行に横に歩く(おしゃべりしながら)」と言う話を聞いたあと、わたしたちも砂浜をゆっくりゆっくり横に歩いた。 「ときどきフグやウミガメが落ちてるよ」と話をしていたら、ウミガメが打ち上げられていた。浜辺で死ぬ大きな生き物というのは、食物連鎖がすぐ処理をする。甲羅の中は空洞だった。
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友人を駅に送り届けて、家に帰るまでの間、「そういえば、何の目的もなく浜を歩くのって、久しぶりじゃないか」と思った。 わたしにとって浜へ行くのは、貝を拾いに行くとか、鳥の写真を撮りに行くとか、目的がある。今日だって貝を拾ったりもしたけれど、その貝をどうにかしよう(わたしは無職だったとき浜で拾った貝をインターネットでキロいくらで売りさばいてなんとか生きていた)と必死だったし、いまだって、シギやチドリ、時にクロサギはいないかと探し回っている……ということはなくてただ波の音を聞き、砂浜に靴底が沈んでゆき、そこでとりとめのないおしゃべりを交わしながらあるいている。そんな時間は、実はもう、何十年と持っていなかった。 ただ歩いているだけの時間がこんなにも、こんなにも豊かだということを、取り戻したような気がした。
前に進むこと、何か目的を持って「そこへゆき」、何かを獲得したり、劇的な(自己への)変化があったり……そんなことはなにひとつなくていい、ただ歩いているだけ、どこにもたどり着かなくても、ただ歩いて、……そして、ただ立ち止まって、見慣れた景色を眺めながら、どこへも行けなくても、なにかを成し遂げられなくても、得られなくても、人間はまず「ここにいる」、ここにいて、語る言葉を持ち、物語を持ち、存在しているのだと思った。
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apoandbangpo · 9 months
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BTS Sugaのワールドツアーは究極のポップス転覆 / The Atlantic 翻訳
アメリカでグループ初となるソロコンサートを開催、アーティストとしての個性を強烈に宣言した。
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Story by Lenika Cruz
フォグマシーンの柔らかな吐息に包まれたステージから、フードを被った4人の人物が舞い降りてきたかのようだった。その肩には、黒をまとった体が乗っている。雨と稲妻が背後のスクリーンに真っ白に映し出される。ようやく、その男が地面に横たえられた。その後には、まるで死からの復活を思わせるような光景が待っていた。スポットライトが彼を見つけ、歓声が上がり、ついに彼は動き出した。そして、マイクを口に当てた。
このロックスター、ラザロの正体はミン・ユンギ。グラミー賞にもノミネートされ、チャートを席巻している韓国のグループ、BTSのラッパー兼ソングライターのSugaとして広く知られている。しかし、その夜ニューヨーク州ロングアイランドにあるUBSアリーナのステージには、彼のバンドメンバーは誰もいなかった。なぜなら、この日は彼のソロワールドツアーの初日だったからだ。昨年の夏以降、メンバーは各々の兵役義務遂行に向け、個人活動に集中してきた。BTSで初めてソロツアーを行うSugaはグループ作品よりも暗く、生々しく、パーソナルな音楽制作のために2016年につけた名前、Agust Dとしても公演を行っていた。先月、Agust Dの3部作の完結編となる強烈なスタジオアルバム『D-Day』をリリースした。このアルバムで社会批判やトラウマの黙想、名声、精神疾患、孤独、そして許しについて語っている。
同じくD-Dayと題されたSugaの現在進行中のツアーは、彼の作品を初めて本格的にショーケースするものだ。完売したアメリカでのツアーは、まるで10年以上の歳月を経て作り上げた芸術的個性の宣言のようだった。コンサートはフロントマンのエネルギーと作家主義的な華麗さで爆発していた。しかし、彼の最も際立った功績はポップミュージックが持つ共感を生み出す潜在的な力を受け入れながらも、その非人間的な作用に立ち向かっていることだ。
水曜日の夜、カリフォルニア州オークランドで幕を閉じた全米ツアーの全11公演は雷雨の中、道路に横たわるSugaの姿で終わるショートフィルムからスタートした。これはBTSとしてデビューするまでの練習生時代、生活費を賄うためにソウルで配達のアルバイトをしていた時に、車にはねられたことにちなんでいる。この事故で肩に傷を負った彼はBTSが世界的な名声を得た後も、この怪我に悩まされ続けた。この映像の後に命を落としたかのような実物のSugaがステージに担ぎ込まれる展開は、スムーズでありながらも衝撃的であり、何日も会場の外で待ち続けるファンを持つポップスターの人間的な脆さを再認識させるものであった。
初日のUBSアリーナ、そしてアメリカ最終日のオークランド・アリーナで私が観たSugaの公演は、ポップ・コンサートの常識を覆すものだった。ある面では子供の頃に日本の作曲家である坂本龍一の曲をサンプリングして自分のビートを作っていた技術に長けたラッパーによるダイナミックなヒップホップショーだった。Sugaは『Haegeum』でこの夜の空気を作った。タイトルは韓国の弦楽器と解禁を意味する。「溢れ返る情報は想像の自由を禁ずると同時に思想の統一を求める」「資本の奴隷 カネの奴隷 憎悪と偏見 嫌悪の奴隷 / YouTubeの奴隷 Flexの奴隷」とSugaは韓国語でラップする。Haegeumの耳に残るストリングスと、心地よく荒れたベースが空気を振動させた。この曲はすべて韓国語で書かれたものだが、観客は歌詞を大声で彼に歌い返した。反骨精神に満ちた『Daechwita』、初期のファンに人気の『Agust D』、『Give It to Me』と激しいラップ曲で序盤を駆け抜ける彼は催眠状態にあるかのようだった。
観客がまだ落ち着かないうちに、Sugaはアコースティックギターを取り出した。ギターにはBTSの他の6人のメンバーからのメッセージや絵が描かれていた。パンデミック期間中にギターを習得した彼のアンプラグド・バージョンの『Seesaw』は、振り付けやバックダンサー、凝ったセットを伴う過去のパフォーマンスとは一線を画すものであった。序盤の盛り上がる曲で見せた力みのない威勢が、静かなシンガーソングライターモードのSugaへと移り変わっていった。その後、アップライトピアノの前に座り、2020年のBTSの楽曲『Life Goes On』の自作バージョンを披露した。特に感極まる瞬間は、歌手のWoosungと亡き坂本龍一が参加した楽曲『Snooze』のソロパフォーマンスだった。2022年後半にSugaと坂本が唯一対面した時の映像が、前もって大型スクリーンに流れた。グランドピアノで曲を演奏する年上のミュージシャンと喜びを抑えようとする若者。Snoozeは、坂本にとって最後のコラボレーション作品のひとつになった。坂本を敬愛し、苦闘する若きアーティストを慰めるためにこの曲を書いたSugaにとって曲中の坂本の存在は、とりわけ心に響くものだろう。
BTSの活動で、できなかった試みをD-Dayで再三にわたり実践するSugaの姿は、実にスリリングだった。 そう、彼は依然として熟練したエンターテイナーなのだ。何万人もの観客の心をつかむ術を熟知している。BTSのコンサート中盤の爽快なラップメドレーで見せるとおり、息をつく様子もなくラップをしながらステージを飛び回れる人なのだ。そして、ロサンゼルスの2公演ではアメリカ人歌手、MAXとHalseyをゲストに迎え、それぞれのコラボレーションを披露した。その一方で、彼の破壊的な選択も際立った。コンサートに散りばめられたショートフィルムは、デヴィッド・リンチの夢の論理とグラインドハウス映画の粗い質感を思わせる。ポップアイドルのSuga、影のAgust D、そして人間ミン・ユンギという3つのアイデンティティーのストーリーが描かれている。このコンサートにおける究極の芸術的意図は、それぞれの自己を観客に明瞭に示すと同時に、それらがすべて共存していなければならないのだと認識させることにあるようだ。BTSのソロ曲である『Interlude: Shadow』やBTSの他のラッパーたちとの曲のヴァースを披露する姿を見て、彼は自分の過去を否定しているのではなく、むしろ誇りに思っているのだと確信した。なにしろ、その過去が彼を韓国の青瓦台、アメリカのホワイトハウス、国連総会、そしてグラミー賞の舞台にまで導いたのだから。
もうひとつの魅力的な演出があった。公演全体を通じて、舞台の一部がチェーンで天井に引き上げられ、Sugaのパフォーマンスできるスペースが次第に狭くなり、より慎重に舞台を進行させる必要があったのだ。 アンコール前の最後の曲『Amygdala』では、寂しげな四角い床に立っていた。周囲には炎が燃え上がり、まるで恐ろしい牢獄のようだった。アルバム D-Dayの核となる、このエモ・ラップトラックには、Agust Dのオルター・エゴの起源が記されている。交通事故、母親の心臓手術、父親の肝臓がん宣告など、彼の人生を決定づけたトラウマに言及し、それらがいかに彼を形成したかを語っている。曲の最後のフレーズで、力尽きたように地面に倒れ込むとフードをかぶった人物たちが戻ってきて彼を運び去った。ただし、今回は全身真っ白な服を着ていた。まるで浄化されたかのようだった。彼のカタルシスが完了したのだ。
アンコールの頃には舞台装置がすべて取り払われ、下に隠れていた機材が露わになった。 消火器、電気コード、発火装置などが散乱していた。Sugaはもう観客の頭上に立つことなく、地面の高さからファンの目の前で最後の数曲をパフォーマンスした。時にはファンの携帯電話を手に取り、自身の姿を撮影してみせた。最後の瞬間は、ほろ苦かった。ほとんどの観客は、6月下旬にあるソウル公演でツアーが終了した後、Sugaが少なくとも18ヶ月間の兵役に就くことを知っていたからだ。その現実がコンサートを一時的な別れのように感じさせた。ファンが持つライトスティックの輝きが、まるでひとつの波のようにアリーナ全体を駆け巡った。 時折、野生的なエネルギーに駆られた観客が吠え始めるとSugaは驚いたり笑ったりしていた。オークランドでは観客に向かって、BTSの他のメンバーと一緒に戻ってくること伝え、ファンにもう少しだけ待って欲しいと頼んだ。
ツアー初日の夜、もうひとつのサプライズが待っていた。私は最後の曲は感傷的なものなのか、軽快なものかだと思っていた。 ところが、Sugaは不気味なビデオカメラの輪の中に入っていき、その真ん中に立った。つぶやきはじめたのは『The Last』のヴァースだった。第一作目のミックステープに収録されているこの曲は、彼の最高傑作であり、私が最も好きな曲のひとつだ。そして、このところ私が聴くのに苦労している曲でもある。The LastでSugaは、強迫性障��、鬱、社交不安について語っている。低く控えめな表現から徐々に切迫していき、最後には叫び声と泣き声の間のような声へと変化していた。数年前、この曲を初めて聴いたとき、私は自分自身の絶え間ないパニック障害による発作と息苦しい死への渇望を思い出した。この曲は私の心に刺さり、歓迎すべき欠片になったのだ。
ここ数年、Sugaは成長、自己愛、不安や苦しみを肯定することをテーマにした音楽を多く作ってきた。 コンサートの序盤、彼は英語で「あまり怒りを抱えずにパフォーマンスしたい」と語り『SDL』、『People』、『People Pt.2』といった曲に焦点を当てた。これらの曲は人生の試練を前にして冷静に考え、許し、謙虚でいられる人物像を描いている。ひどい苦しみから解放され、自分なりの癒しを見つけられたときの安堵感を私もよく知っている。だから、The Lastの出だしの歌詞(「有名なアイドルラッパーその後ろに、弱い俺が立ってる 少し危険だ」)を聴いたとき、私は凍りついた。彼は一体何をしているのだろうか。 監視システムのように並んだカメラ、その映像が映る彼の頭上のスクリーン。彼が見せる苦しみを貪るように映し出す。つまり私もまた、彼の苦しみを貪っているのだ。
しかし、すぐに理解できた。23歳のときと同じように息もつかせぬ情熱でラップしているが、単なる激高ではなく時間とともに和らいだ怒りでパフォーマンスしているのだと。その感情の力強さや真摯さに陰りはないが、それを発信する側が受けるダメージは少ないのだ。今の彼は炎の中に立って熱を感じながらも、その炎に飲まれることはない。若き日の自分に回帰することなく、当時の自分と心を通わせられる。
そして、魔法が解けた。曲が終わった瞬間、客席の照明がつき、彼が舞台袖に無言で歩いていくのが見えた。別れの挨拶も、長々とした感謝の言葉も、歓声を上げる観客に手を振ることもない。後ろを振り返ることさえもしなかった。初日の夜、突然の退場に衝撃を受けた人々は戸惑いの表情を浮かべた。このフィナーレを観客との静かな対決、愛されてやまない芸術家による大いなる自己主張と捉えることもできるかもしれない。けれども、もしそれが対決であったなら、それは見下しているのではなく、むしろ信頼に基づくものだ。観客が不快感に耐えられるだけの知性を備えており、彼が見せたものに気分を害したり、恐怖を感じたりしないのだという信頼だ。
完璧なエンディングだった。闇と神話作りから始まったコンサートが明かりの中で、さらけ出すように終わったのだ。他の誰かに運ばれきてスタートさせた公演をSugaは自らステージを去ることで終わらせたのだ。これ以上、何を望むというのか。彼は私たちに何もかも見せてくれたのだから。
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