星景 天の川ほか
大熊座の杓の底の二つの星を結び合い、5倍の長さに伸ばしたら
そこらにぴかっと北極星!
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Mt.Kinpu (2599m) climbing October 7 #金峰山 #japan #山梨県 #百名山 #塩山 #富士 #panorama #tree #green #sky #rock #climbing #october #mountain #絶景 #view #trip #sun #hot #popular #autumn #beautiful #high #紅葉 #すすき (Mount Kinpu) https://www.instagram.com/p/Booq_0lhsU2/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=7bj3qau5uuwh
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Peak of Mt.Kinpu (2,599m)
Check it out my new photo movie!
「金峰山」Photoムービーを作りました♪♪
好天に恵まれ、奥秩父の稜線からの素晴らしい日の出でした!天の川にこぼれるような星空と、絶景の山旅を楽しみました。
よろしければ、ご笑覧くださいませ♪ ♪
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20210606
山行記・金峰山(瑞牆山荘ルート)
金峰山に登るのはかれこれ8回目である。我事ながらよく飽きもせずにまぁ。
一番最初に瑞牆(みずがき)山荘ルートで登って以来、専ら大弛峠からの道だったが久々に瑞牆山荘から登拝致した次第にござ候。
(※以下YouTubeの動画と画像2枚)
瑞牆山荘から美容師のH君と登ったのは2017年の秋、もう4年前になる。その間にH君は結婚し大工に転職しまた美容師に戻ったらしい。
なんというやら新しい日も過ぎる。
山登りを始めた頃の自分の疲労感やH君がバテて大変だった記憶から大弛峠から登るよりきついルートのイメージだったがそうでもなかった。大弛峠からのほうが朝日岳、鉄山とアップダウンがあってなんだかんだ地味にだるかった気がする。思えば大弛のルートは鬱蒼として重っ苦しい。
天気は良くなかったものの前回は濃い霧と雨で見通せなかったぎざぎざの尾根を歩くのは楽しかった。
シャクナゲは花盛り。
低気圧の影響か数日前から首、肩が凝って頭痛もする、それに若干の寝不足を抱えての登り。
ここは気合いを入れねばならない。
「わっかい娘はウッフン、お色気ありそでウッフン、なさそでアッハン!ありそでアッハン!」と掛け念仏を大声で唱え道を曲がるとなんと灌木の陰におっちゃんが座っているではないですか。
何より、阿吽(始まりから終わりまでの意、AtoZ)の訛化と云われる(嘘です)「アッハン、ウッフン」のサンスクリット語の呪文部を跳ねる語尾のリズムで、かつ艶っぽくウィスパーに唱えてしまっていた。おっちゃんは微妙に動揺しておりこれはまずいとすかさず「こんちわーッ!」とスポーツ少年団的な勢いで、エクトプラズマの如く物質化した「恥」の浮遊体を無力化する。対消滅あるいは爆風消火である。
そういやこのスリー・キャッツの替え歌が流れていた花小梅のCMが山梨ローカルだったことを知り愕然とする。そもそも全国津々浦々の人々が知っているとなぜ錯覚していたのだろうか。
これです。 ↓
ちきしょう懐かしくて涙が出るぜ。
私にとっては小島功の黄桜のカッパCMと並び目覚めを促す聖なるというか性なるヴィジョンの双璧であった。
話が逸れた。
頂上は子供から芝犬まで平日にも関わらず賑やかだった。
最近はヒダル神に取り憑かれたぐらいお腹が空いたとしてもいざ頂上に着くと食べられなくなる。単純にバテとるのかもしれない。
母なる御岩、五丈石にお参りして下山。
最近読み始めた中沢新一の「アースダイバー・神社編」の中に巨石と聖地の感覚について書かれており山や五丈石のような磐座に何故惹かれるかについてのヒントがありそうだ。
また本書によると甲州で見られる丸い石の神様は熊野など南紀辺りで見られるらしい。南方から日本列島にやってきた海人族が南紀に定住し、その後駿河湾から富士川を経て甲州や諏訪などの山間部に定着したという。徐福の伝説や火祭りなど共通点も多い。紀州には全国の湯浅姓の家に毎年会合の招待状を送ってくる湯浅町という町もあったり不思議と縁を感じる。世界最古の夢日記を記したと云われる明恵上人、菌類学者の南方熊楠も気になる。
この本の冒頭部で著者はチベットの山で道を間違え、獣道の奥へと進むと清らかな水の流れる川の源流部に行き当たる。その川底を見ると何匹もの白蝋化した犬の死体が沈んでいたという逸話があり死期を悟った犬がそこで死ぬ、犬にも聖地の感覚があるのだ、という嘘か真か何だか不思議な話だった。
二つ前の日記で茅ヶ岳の迷い犬のことを書いたけど最近無性に犬が気になる。妙法ヶ岳登ったり三峯参りをするからかな。
同じ日に大弛峠から登った爺さんが遭難か体力尽きただかで次の日救助されたことを新聞で知る。このところ新聞ひらけば毎日年寄りが二人は遭難してる感じだ。
下りとかで見てて思うにヒマラヤ探検隊でもないし重心の高くなるごっつい登山靴やめて地下足袋履きゃいいのにと思うがいかに。爺さん婆さん見てると花魁のポックリ下駄履いて登山してるみたいで逆によくやるなあと思う。
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20180614
金峰山登拝(2,599 m・大弛ルート)
ギンリョウソウ
瑞牆山(みずがきやま)ゲームのグラフィックみたい。
ケルン。賽の河原と呼ばれる場所。
金櫻神社の祠と岩屋の空間。
ティターンズカラー。小4病。
汎神論的霊性を生きる
金峰山キャンプの下見に行った。
本番は梅雨明け後に瑞牆山荘ルートから登ろうと思うが今回は行程約1時間半の大弛ルート。登り始めのルートが泥濘んだ腐葉土の道に変わっていた。
鹿角を抱いて寝る所為で夢で繋がるのか知らないが鹿の頭蓋骨を2つも見つけた。帰りにも夕暮れの薄暗い峠道に鹿が2度も道路に飛び出してきて車の前を100m程突っ走って森に消えて行った。夜の峠道はどうやら鹿たちの世界が広がっている。
地下足袋やっぱ恐るべし。一切足に疲労が残らない。それに乾いた岩の上などファンデルワールス力が働いているかというぐらい滑らない。途中知らんおばはんから地下足袋を褒められ照れる。紺色の寅壱のシャツと乗馬ズボンは自分としては「海が歩く」というイメージだったがどうみても消防団の青年にしか見えない。
去年五丈石裏手の金櫻神社の本宮の祠の前で急に般若心経を憶えようと思ったので、「ちゃんと憶えました。」という報告ででっけー声で読経した。ほぼ気違い。岩の表側に山ガールの集団がいた。
岩屋に入って今度泊まるかもなので頼んますを丁寧にして挨拶する。岩屋の謎の缶カラはまだあり以前は無かった賽銭がたくさん置かれていた。というか賽銭は里宮から回収しにくるのか。それにしてもあの缶は一体何なのだろう?写真を撮ったらやばい気がした。今度金櫻神社行ったら聞いてみようと思う。
というかあれは俺の骨だ。今になってそんな氣さえする。
頂上は無音。自分の耳鳴りに気がつく。今までと世界の見え方が少しずつ変わり始めている。石を仰ぎながら考えたり無になったりしていた。
約15mの巨大な五丈石(ごじょうせ��)の名称は御像石からきていて、即ちこの岩そのものが神であり蔵王権現である。
その五丈石の懐の岩屋に入り、夜の闇(産道)を体験し石の子供として生まれ直す。石とトーテムの契約を結ぶということ。この生まれ直しや精霊信仰はずっと人間が知恵としてやってきたことだという確信の感覚がある。というか天照大神が天岩戸に篭ったのも岩から力を授かるということではなかったか。ソースエナジー、力の源泉に石を媒介に接続する。
当日晴れていればおそらく岩屋からは山と街の灯りと星空の三界が見える。宮沢賢治の詩のことなどを考える。
帰りの車のラジオのニュースで新幹線の通り魔がやり残した事として「冬山で死のうと思っていた」と供述したと言っていた。死のうと思ったではなく実際に山に行ってみれば良かったのだ。肉体の死だけが死ではない。新しく何かを体験することは一つの死だが精神は新しくなって再生する。結局犯人は他者を殺し、関わる人の心を殺し、自分は社会的に死んで最終的には国家によって肉体ごと死ぬ。
何故自殺志願者が富士の樹海を目指すのか。魂なり潜在意識が生きる力を求めて、「目覚める」ために直観で森に向かわせている。しかし表層の眠り込んだ思考が睡眠薬を飲ませて結果永遠に眠ってしまう。
思うにある種の人間は生まれる際の母体との分離の欠落感、飢餓感を世界に投影して分離の世界を再創造し続ける。投影の連鎖を止めて分離したシャドーを統合して旧い自我フレームから解脱する儀式なり装置が要る。
ここ数年、他者ではなく自己による無条件の承認こそ必要だと考えてきた。それは今も変わらないが、しかしそのベースに地球からの承認のようなものが必要かもしれないと思い始めた。人間そのものがこの地球にとって悪であるという教育や情報、また集合的無意識によって作られた自己否定のマインドが通奏低音のように人間の精神の基部で鳴り響いている。自己否定を世界に投影するから鏡を見るように誰かを憎み、結果ぶち殺したりする。テレビを点ければ我々はもう滅んだ方が良いと思うようなニュースばかりだ(本当は世界のほんの一部でしかないのだが)。しかし人類は呪われた種族であり悪であってそれでいて特別な種なんだというのは存在を全体から分離することに他ならない。ホモ・サピエンスの機能不全としてのエゴですら宇宙の理の中の一部である。私は鉱物と母と子の関係を結ぶことで森羅万象の一つの要素として自分を世界に組み込もうとしている。
登山口のある大弛峠駐車場まで麓から20kmほど車で行きそこから私の足で一時間半かかるような山奥の異界で一人夜を明かすという事の漠然とした怖さが、日の沈みかけた山の峠道の車中で急に迫ってくる。闇が怖いという感覚を本気で味わうのは幼児期以来かもしれない。車道から森に入った鹿が振り返り耳をパタ着かせながら「つかお前やれんの?」と嘲笑っているように見えた。
ただのソロキャンプでまぁご苦労なこったと自分でも思う。
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